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星の林に漕ぎ出でて—私の天文民俗学 第7回

南へ!名も知らぬ遠き島より

中野真備


 ヤシ(椰子)の実を初めて見たのは、種子島から帰ってきた父の土産だっただろうか。

 父が抱えてきたその萌黄色の実は、顔ほどの大きさで見た目よりどっしりと重い。そっと持ち上げると中でちゃぷり、と水の音がした。山地と丘陵に囲まれたベッドタウンの家の縁側で、それは明らかに異質だった。新鮮ではないからと中身の水は飲めなかったが、実はしばらく縁側に置かれ、いつの間にかなくなっていた。



 あのとき以来だ、と思った。

 2016年9月18日、ここはインドネシア東部の港町・マカッサル。地元大学の先生夫妻の案内で名物のチョト・マカッサル(牛モツのスープ)やピサン・エペ(バナナを潰して焼いたもの)に舌鼓を打ち、ロサリ海岸を歩いていた。絶景の夕陽スポットとして有名なロサリ海岸は、夕方になると屋台が続々と並びはじめ、水平線に沈んでゆく夕陽を横目におしゃべりをする人々でひしめきあう。

 その一群に、クラパ・ムダ(若いヤシ)の屋台があった。あの萌黄色の大きな実が山のように積まれていて、足を止めた。

 突然、懐かしい唄を思い出した。高校生のころによく聞いていた、盲目のテノール歌手・新垣勉のカバーアルバム。切なく伸びる声と寂しげな望郷の詩を思い出した。


 名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ

 故郷の岸を離れて    汝(なれ)はそも波に幾月


 旧(もと)の樹は生(お)いや茂れる 枝はなお影をやなせる

 われもまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の浮寝(うきね)の旅ぞ


 実をとりて胸にあつれば 新(あらた)なり流離の憂(うれい)

 海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ異郷の涙


 思いやる八重の汐々 いずれの日にか国に帰らん

島崎藤村「椰子の実」より


 飛行機を乗り継ぎ4千キロ以上も離れた南の国にきて、これから半年ほど住むことになるマカッサルの町で、見るもの聞くものすべてが珍しかった。学ぶことも調べることも山のようにあった。それがこのヤシを見て、この歌を思い出したときに、どうしようもなく切ない気持ちに駆られたのだ。目まぐるしい毎日に追われて必死に走っていた私を、萌黄色の実がやさしく揺り動かす。あの日の実家の庭へ、佐渡の港へ、そしてここ、マカッサルに来るまでの日々へ。


***


 「生活のなかで利用される星を調べてみてはどうか」といわれたのは大学2年生の11月のことだった(第3回参照)。それから、ラクダを率いる隊商やモンゴルの遊牧民に思いを馳せ、ついには夜の海で漁をする人々、イカ釣り漁師を追いかけて佐渡島に行き着いた。


 何回かの短期的なフィールドワークを終えたあと、間もなく卒業論文を書く時期になった。流星や彗星の伝承についての資料収集を整理・分析し、また佐渡調査の記録を先行研究と比較し、いわゆる俗信と呼ばれる伝承と、生業に利用される伝承の二本立てとして、拙いながらも卒業論文にまとめあげた。その傍ら、卒業後の研究を考えて大学院の進学先を探していた。


 残念なことに、40年近く前の本に書き連ねてあることを今も同じくらい聞くことができるとは限らない。佐渡に限った話ではないが、イカ漁は、魚群探知機やソナー、全自動イカ釣り機が導入されるなど漁業技術は大きく発展した。また一方で、燃油の高騰や漁師の高齢化のために、そもそも「イカは俺の代で終わりだ」と話すひとも少なくなかった。イカ漁どころか漁業自体が、深刻な後継者不足に直面していたのだ。

 天体の知識は、もはや「親の代でやっていた」ような、過去のものとして喪失されていくかのようにみえた。(当時、これをただ喪失と捉えてしまったことで見落としたものもあったのだが、これは別稿に譲ろう)


 かつてイカ釣り技術の普及で全国に名を馳せた佐渡島。

 その発展と変容の歴史、そしてスルメイカをめぐるグローバル経済や気候変動などに視野を広げて、この島でずっと見てみることも考えた。できなくはないだろう。でも、それは私がやりたいことだろうか、私にしかできないことだろうか? 星をみて心を動かされたり、生活や仕事のために行動を起こしたりする人たちのことを、もっといえば海で天体をみて動く人たちのことを、もう少し追いかけてみたいと思ったのだ。

 だとすれば、どこに行けばそんな話を聞けるのだろうか?


 考えあぐねていたちょうどその年、次々に天文現象をめぐる人類学的研究による論文が出版された[後藤 2014a;2014bl;2014c]。もちろんこれらの後藤論文以前にも、天文現象をめぐる文化的研究は考古学や宗教学、言語学(方言学)など国内外で少なからず進められていたわけだが、日本語で読むことのできる総説的な内容は限られていた。


 恥ずかしながらまだまだ知識の足りなかった私は、これらの論文から多くのことを知り、あらためて卒業後の研究や大学院のことを考えた。

 

 どこに行けば星をみて動く海の人たちにいま出会えるのだろう。

 ひとつには、天文の人類学的研究のなかでしばしば取り上げられるオセアニアの人々だ。たとえばミクロネシアでは星座によるコンパス(スターコンパス)が発達していることが知られているし、ポリネシアではハワイの復元カヌーホクレア号が伝統的航海術を利用して大航海を成し遂げ、在地の天文学が再評価されてきた[後藤 2014c]。

 他にも、海を生業の場とする人々や、自然環境から何かしらの情報を得て移動する人々についてみれば、琉球列島に目を向ければ何か違ったのかもしれない。今でもよく、なぜオセアニアや沖縄を調査地に選ばなかったのか、なぜインドネシアに来ようと思ったのかを聞かれることが多い。


 つまるところ、私はひねくれていた。

 誰もいないところへ、誰も私のことを知らないところへ、ここではないどこかへ行きたいと、ぼんやりとした憧憬を抱いていた。究極的にはそんなことはありえないこともわかっていた。そうではなくて、要するに研究者があまりいない、かつせめて日本人のいないところに行きたかったのだと思う。


 そのようなわけで、あれこれ悩んだ挙句「なんかえらいひとが多そうだな」という適当な印象と感覚で、オセアニアや琉球列島ではないどこかもっと別の海を探すことにした。

 それでも、日本の基層文化であるとか、自然とともに生きる人たちの文化だとか、そういうことに興味をもって大学を選び、不勉強ながらも民俗学に親しんできたつもりだった。流星や彗星の民間伝承のこと、そして佐渡のイカ漁と天体のことなども、もっとやれることがあるのだろう。

 フィールドワークという意味では「どこかもっと別の海」に基盤のない今の私には、安易に日本と比較することは到底できないし、母語ではない環境でどこまで聞き取り調査ができるのか想像もつかなかった。いつになるかわからないが私が「どこかもっと別の海」で生きる人たちへの理解を深めたころに、また日本に目を向ければ新しい発見があるかもしれない。


 だから、またいつか日本列島につながる海の道のどこかにしよう。

 そう、たとえば東南アジアとか。



 それがまさか、本当に来てしまった。

 ロサリ海岸の夕陽はたしかに美しかったし、椰子の実は意外と味がしないことを知った。世界は広しといえども、ここに来ることができてよかった。


 星をみる人を追いかけて、なぜこの海にきたのか。その話はまた次回に譲ろう。



 

【引用文献】

 後藤明「アボリジニの天空観と天文神話」『南方文化』44 1-13 2014

 ———「外伝・天文と人類学」『南山考人』43 35-48 2014

 ———「天文と人類学」『文化人類学』97(2) 164-178 2014

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