書を持って、海へ出よう
中野真備
高速道路を走りながら、対向車線の前方から車が向かってくる。
ふと、どんな人が乗っているのだろうと構えていても、瞬きをする間にビュンッ!とすれ違って見逃してしまう。
時速100キロメートル近いスピードで走る車同士がすれ違うのだから、仕方のないことだ。
ところで、地球が自転する速度は、日本のあたりだと時速1500キロメートル。
新幹線の5倍くらいのスピードらしい。
自分もくるくる回転しながら、大きな円を描いてぐーるぐると回り続けている、丸くて勤勉な地球。
そこに、どこかで燃えて飛び散った塵が、秒速60キロメートルで衝突してくる。
摩擦でシュッと光が放たれて「流星」が見られるのは、文字通り「あっ」という間の一瞬だ。
高速道路で対向車線を走る車の運転手がこちらにピースサインを出していても、高速で走る私はそれさえ「あっ」と見逃してしまうだろう。
流星は、それよりうんと速いスピードでほんの一瞬、しかも何の予告もなしに出現する。
流れる間に願い事を、しかも3回も唱えるなんて、そもそも無理のある話ではないか。
繰り返すが、決して願い事が叶わなかったことへの逆恨みではない。
自己啓発的な文脈では、この伝承がある意味で巧みに援用されているのを耳にする。
つまり、突発的に一瞬だけ流れる星に咄嗟に願い事を言えるということは、常日頃から強い気持ちでその願いを考え続けているからであって、だからこそ行動が伴って本当にその願いを叶えることができる、ということだ。
言い得て妙だ。
私は、卒業文集で「ひとつだけ願いが叶うなら?」のページに「バケツいっぱいのシュークリームを食べたい」と書いた大変わんぱくな小学生だった。
なぜバケツなのかはまったく思い出せないが、それはさておき、流星をみたときに一度だってこれを咄嗟に念じたことはなかった。
「あっ…」と間抜けな顔をして、ややセンチメンタルになり、なんならそのときやっと「願い事かぁ」と自分の気持ちと向き合うのだ。
いずれにせよ、流星が流れる間に願い事を唱えられるかどうかそれ自体は、あまり重要ではないのかもしれない。
流星には、見たときにこういう唱えごとをすればいいことが起こるとか、逆にこうしなければ悪いことがあるとかいう伝承もあるのだが、それをしなかったからといって、生活や生業が立ちゆかなくなるわけでもない。
結局、星って何かの役に立つのだろうか。
私は相変わらず深夜の最寄り駅に着くたびに、すこしずつ動いている星を眺めながら、今日も終電だったなぁとか、いつのまにか秋になったなぁとか思っている。
たとえ明日からこの空に星が見えなくなっても、夜でも煌々と明るい空の都会で過ごすのと同じように、私は多分特に何も困らないのだろう。
刹那的で予測不可能な流星にわざわざ願いを託そうとするのも、ひとつの心性だ。
でも、星がなくては生きていけないような状況にひとが置かれることはないのだろうか。
そうして悶々としながら図書館の海に潜る文献調査ばかりしていた大学2年生の11月、先生から「生活のなかで利用される星を調べてみてはどうか」というアドバイスを受けた。
ひとはどんな環境に置かれたら、星がなくては生きていけないのだろう。
そのとき、生活や暮らしのためにどうやって星を利用するのだろう。
まず頭に浮かんだのは、夜の砂漠をゆったりと歩くラクダと隊商(キャラバン)だった。
どこで見たのかわからないが、夜の砂漠、ラクダ、隊商、月と星、というモチーフで描かれる風景は親しみ深い。
暑い砂漠の世界では、ヒトのためにもラクダのためにも、夜に移動するのが水分を温存するためによいからだろうか。
目印の少なそうな砂丘、しかも夜となれば、月や星をみながら進むのだろう。
いやいや、しかしキャラバン交易は時代的にあまりに離れている。
でも他に目印がないような広い空間で生きる人々というのは、あながち間違いではなさそうだ。
次に頭に浮かんだのは、モンゴルの草原で家畜とともに移動する遊牧民とゲル(伝統的な移動式住居)だった。
砂漠に引っ張られつつ、どこかで梅棹忠夫のモンゴル調査[梅棹 1991]のような、自分の経験したこともない環境でフィールドワークをすることへの憧れもあった。
でも、いま現在どれだけのひとが移動生活をおくっているのだろう、そのなかでどれだけのひとが夜間に活動する必要があるのだろう。
何より、どちらかといえば昼間帯に家畜とともに移動するのではないだろうか。
暮らしというより、夜におこなう生業はどうだろうか。
流星伝承について多く記載していた『星の方言と民俗』[内田 1973]に、いくつかの天体について次のような記述があることを思い出した。
牡牛座プレアデス星団
「スバルまんどき 烏賊とる船は さぞや寒かろ冷たかろ」
(静岡県旧田方郡伊東町上大見村、現伊豆市東部)
南魚座フォマルハウト
「これが昇る時刻には魚がよく釣れると言い、ここの漁師たちはこの星の出に烏賊などの立釣りをする」
(京都府旧竹野郡間人町、現京丹後市丹後町間人)
イカは光に集まる習性があることから、夜に漁火を焚いたり集魚灯を点灯させたりして漁をする。
早朝から昼までにかけておこなう昼漁もあるのだが、夜漁も多くおこなわれてきた。
プレアデス星団やフォマルハウト、それから金星など、多くの星がイカ漁と関連づけて名前がつけられたり、伝承されたりしているようだ。
砂漠や平原ではなく、海。
海もいいな、いや海がいいな。
俄然、海に行きたい気持ちになってきた。
日本だし、いま現在の情報も手に入りやすいし、貧乏学生でもアルバイトを頑張ればどこかの海には行けるかもしれない。
それにはもう少しイカ漁のこと、漁と星のことを調べてみる必要がある。
「書を捨てよ、町へ出よう」ならぬ「書を持って、海へ出よう」という気持ちが逸った。
願い事を託す星から、生業のための星へ。
同じ「星」と呼ばれるものでも、ちがうもの。
今度は何がみえてくるだろう。
引用文献
内田武志『星の方言と民俗 <民俗民芸双書 80>』岩崎美術社
梅棹忠夫『回想のモンゴル』中公文庫 1991年
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