星の林に漕ぎ出でて—私の天文民俗学 第16回
- 中野真備
- 5月3日
- 読了時間: 5分
「ふと」時に気づく
中野真備
ようやくマフラーを外したころ、引っ越しをした。
私は、物語のあるモノがすきだ。すきというより、愛着がわきやすく、捨てがたくなってしまう。物語といっても、ロマンチックなエピソードや思い入れというほどのことでもない。
小学3年生のときに、そこまで仲がよかったわけではない友達からもらったシャープペンシルは、数年前ついに持てないほど縦に割れたのでようやく捨てた。別に私が特別だったわけではない。某ネズミの国の所謂「バラマキ」土産で、他に何人も色ちがいのペンをもらっていた。特に気に入っていたわけでもない。ピンク色、レース、宝石、プリンセスと、自分の趣味からは最も遠いモノだった。
けれど、わざわざ私にくれたあの子のことを思うと捨てがたく、壊れてもいないのに手放す気にはなれなかった。
長めの言い訳をしたが、要は引っ越しの荷物が多かったのだ。
たとえば、大きな置き時計。
もとは大叔母が営んでいた、新潟の歴史ある旅館の食堂にかけられていた振り子の柱時計である。漆塗りの重厚感ある木目と、アンティークのような金属の装飾が見事なものだった。子供心にその魅力に惹きつけられて、時を忘れてうっとり眺めていた(時計なのに!)。
チク、タク、チク、タク。右へ左へと動きつづける振子を目で追ってぼんやり考えごとをしていると、誰かが話しかける声も聞こえなくなる。チク、タク、チク、タク。
ボーン、ボーン。30分に1回、美しい音色が響く。ハッとして、ようやく時が動き出す。
一昨年、大叔母が亡くなった。旅館の大処分がはじまった。
あの振り子の時計はどうするか、となったとき、私は迷わず手を挙げた。
かくして、振り子の時計は新居に持ち込まれ、部屋の隅からひときわ存在感を放っている。賃貸で柱時計は使いづらいだろうと父が台を作ってくれたおかげで、立派な置き時計になった。
チク、タク、チク、タク。
ボーン、ボーン。
時計なのだから、時を告げるのが仕事だ。
けれどなぜだかこの置き時計は、「時を計る」というにはその存在を規定しすぎているような、もっと日々の暮らしのなかに溶け込んだもののように感じられる。

時刻を知ろうとするなら、いまではスマートフォンも持っているし、テレビもあるし、デジタル時計もある。いつでも時間をすぐに確認できるモノは、そこらじゅうに転がっている。
授業が始まるのは10時55分、電車が発車するのは9時15分、家を出るのは遅くとも9時5分。どちらかといえば分刻みで動かなければいけないことがたくさんある。用事のある日は何度もスマートフォンを確認して、時間を見ている。
けれど、家で過ごしているときほどそんなものは見ないものだ。
カーテンの向こうから漏れる眩しさに慌てて起きたり、電気をつけるほどではないが少し手元が暗くなってふと顔をあげたり、そんなゆるやかな気づきのなかで生活のリズムがつくられている。
日が落ちるのが早くなった、今日の風は春一番だったらしい、今日はマフラーもいらないくらいだった——。
私の春は、こうして訪れるのだ。
丘陵地にある新居は風が通り抜けて気持ちがいい。空を見渡せるベランダもすきだ。周囲にはそれなりに大きなマンションやコンビニがあるから、夜もぼんやりと白んで明るい。暗い星は見えないだろうが、少なくともオリオンが毎日のしのし歩いていくのは見えそうだ。あの屋根の上から指1本分、2本分、3本分……、観察するのに何が目安になりそうか考える。
でも本当は、天候や気温から季節の移り変わりにふと気づくように、日常の景観のひとつとしての星から、季節の訪れを知りたいものだ。それは、忙(せわ)しないスケジュールのなかで確認する時計のようにではなく、「天体観測」の対象としての星とも少し異なる、より身近なものであるように思う。
インドネシアのジャワ中部では、こんな話があるそうだ。
儀式を司る者が毎日夕暮れどきになると、手のひらに種籾を乗せ、「鋤の星」に向かって手を掲げる。季節が移り、「鋤の星」がいっそう高く昇り出すと、腕も日に日に高く掲げられる。種籾がついに手のひらからこぼれ落ちたとき、いよいよ種まきをする時期になったと判断される。
「鋤の星」は、オリオン座三つ星、リゲル、サイフ、ベラトリクスを結んだ星座である。星の運行や位置をみる動作は、やがて儀式になり、象徴化されていく。星の民俗を調べていると、人びとの星に対する観察眼に驚かされることがよくある。それは確かに、在来知や自然知などと称されるものである。
忘れてはならないことは、日々の農作業のなかで見上げた空から「ふと」季節の移り変わりに気づくという当たり前ともいえる側面である。それは毎日せっせと確認したり記録したりするだけのものでは必ずしもない。
今日も振り子の時計はチク、タク、チク、タクと動いている。
私は時刻を確かめるためにこの時計を見たことは一度もない。
でも、見ていないなら捨てたほうがいいなんてことはないのだ。
私にとっては、暮らしのなかで「ふと」時に気づく、星のようなものなのだから。
参考文献
中野真備「インドネシア」後藤明編『星の文化史』182-189 丸善出版 2025年
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