「UFO」と流れ星
中野真備
昔、あるシンポジウムでインドネシアの漁師の天体知について発表したとき、こんな質問を受けた。
「人びとが流れ星をみてUFOだと考えた、というような例はあるのでしょうか」
ゆ、ゆーふぉー。
まったく予想していない方向からの質問に面くらってしまい、思わず「宇宙猫」の顔になった。天文だけに。いや、そんなことはいい。
大御所の先生もいるシンポジウムで、当時まだ大学院生だった私は、始まる前からすでに緊張のピークだった。そこに突然の変化球を受けたものだから、咄嗟に「今のところそのような話を聞いたことはありません」と面白みなく返すことしかできなかった。期待されていた回答ではなかっただろうが、こちらも真意をはかりかねていた。かといって、このことを今後の課題にしようと思うこともなかった。
そんなことをふと思い出したのは、先日、韓国のある天文学者のエッセイを読んだからだった。
『天文学者は星を観ない』というキャッチーなタイトルのそのエッセイ集は、新進気鋭の天文学者シム・チェギョンのWeb連載をまとめたもので、本国韓国ではベストセラーとなった。

『天文学者は星を観ない』
連載当時からそのタイトルで注目を集めたそうだが、実はこれは天文学者の態度を端的に表した一文でもある。
私のような人文学徒からすると、天文学者たちは当然のようにみな星座をよく知っているような印象をもってしまっていたのだが、必ずしもそうではないらしい。数少ない天文学者の知り合いたちは、よく言われるんだけどね、と慣れたように前置きして「望遠鏡ではなくパソコン画面を見ている」といっていた。そして、勝手に残念そうな顔をする私に「あの人なら星座も知っていそうだけど」と天文部出身の研究者の名前を挙げるのだ。
もともと星座がすきな天文学者がそうなったのか、天文学者が星座も知れば百人力ということだったのかわからないが、天文学と人文学諸分野の学際的研究の成果はめざましい。人文系研究者であれば「ウッ」となってしまうような難解な計算や解析を重ねて、史料にわずかに記された情報から当時の人びとが観ていた天体や現象を解明していく様子には感嘆してしまう。
そこには「(当時の人びとが観ていた)天体/現象の正体を明らかにする」ことへの、情熱的なまでの探究心がある。
シム博士の話に戻ろう。
あるとき、放送作家からシム博士のもとに1本の電話がかかってきた。
ドライブレコーダーにUFOのようなものが映っていたという通報があった。何か燃えているものが空中で動きながら光っていたが、これは隕石なのか。
インタビューに応じることになったシム博士は、最後にプロデューサーとこんなやりとりをする。
「これが流星である確率はどれくらいですか?」
「100%です」
[シム 2022:87]
しかしその直後から、本当に流星と言い切れるのか? という疑心が次々に浮かび、彼女は後悔することになる。研究者、それも自然科学の専門家としてはある意味当然の、しかし正直すぎるほどの随想だ。
シム博士はもちろん、流星がUFOだったのではないかと苦悩したわけではない。ありとあらゆる理由で落下する人工物体の可能性に冷や汗をかいていたのだ。
そもそもUFOという名前は「未確認飛行物体」(Unidentified Flying Object)というごく単純な意味だ。つまり空飛ぶ物体があって、何かわからないとき、その正体がわかるまでUFOと呼ぶのだ。エイリアンだとかスパイだとかいうのは文字と文字の間の間に入ってくる[シム 2022:84]。
冒頭の質問は、UFOをどちらの意味で言っていたのか—航空・軍事用語としての「UFO」か、いわゆるエイリアンの乗り物としての「UFO」か—、今となっては当人に尋ねることもできない。いずれにせよ、私の答えは変わらなかっただろうが。
ただ、今になって気づいたこともある。
後者のような「UFO」だとすれば、まず漁師たちはエイリアンとか宇宙からのスパイとかいうことを考えていないだろうし、少なくともそんな話は聞いたことがない。
前者のような「UFO」についても、当然ながら航空・軍事用語としての用法などかれらが知る由もない。
ただ、正体のわからない物体や現象を、かれらはどう捉えていたのだろう。
天文現象を認知する次元は基本的に天体の形ないし構造(配置)および運行、この2つの側面である[後藤 2014]。文化が違えば、同じ天体の配置にベルトといったり農具といったり、はたまた三人の男たちであるといったり、異なる物語が伝承されている(第10回参照)。
「流星」はインドネシア語で「ビンタン・ジャトゥbintang jatuh(落ちる星)」またはよりかたい表現としては「メテオールmeteor」がある。ちなみに「彗星」は「ビンタン・ブルエコルbintang berekor(尾がある星)」または「コメットkomet」とよばれる。
日本語や英語もそうであるように、インドネシア語でも「流星」らしき天文現象の正体を言い表そうとすれば、彗星、火球、隕石と、専門用語はいくらでもある。
しかし、天文学者でも天文少年/少女でもなければ、一般的には「流星、彗星、火球、隕石をそれぞれ説明してください」と言われて即答できるひとはなかなかいないだろう。さらに近年では、人類が打ち上げる人工物がかなり増えていることから、落下物も多いのだという[テレ朝news 2024]。
だからこそ、「よくわからないものたち」に対する恣意的な意味づけがなされ、そのなかには名前として表出するものもある。
近代以前の日本の流星にかんする史料をみても「怪異」や「光物」などさまざまで、「狐火」や「人魂」と称される場合もある(第1回参照)。
ふと考えてみると、私が知りたいことはある「怪異」の記述が実際のところ流星だったのか火球だったのかということよりも、人びとがソレを「怪異」とよんだことそれ自体であって、いいかえれば自然に対する感性、自然観ともいうべきものにあるのだろう。
ともあれ、流星、彗星、火球、隕石、さらに増加する人工物体など、一般には確認しようもないものについて、(後者の)「UFO」は、「正体のよくわからないもの」をとりあえずまとめておける、都合のよい箱だった/になったのかもしれない。
そして、そういう意味での「UFO」に対する漁師の考えかたは、やはり答えられるだけの確かな材料は持ち合わせていなかったと思う。

ハレー彗星を恐れる人びとを皮肉る風刺画(NATIONAL GEOGRAPHICより、第11回参照)
(後者の)「UFO」に対する報道の記録が、いつか民俗資料になるときもくるのだろう。いや、もうなっているのだろう。
人間は、そのときに持ち合わせている知識を総動員して、目の前のものを理解しようとする。なかには後世からすれば信じられないようなものもあって、ときに冗談のような珍騒動につながる(第11回参照)。
しかし、ひとはいつだって大真面目に自然と対峙してきたのだ。
その身構えのありかたを追いかけていたいと、心から思っている。
私たちはいつだってよくわからないのだ。自然には常に例外が含まれる。今目の前に見えることがすべてではないかも知れないということ、それだけはいつどこであれ、真実なのだ。
[シム 2022:89]
引用文献
後藤明「天文と人類学」『文化人類学』79巻2号、164-178、2014
シム・チェギョン(オ・ヨンア訳)『天文学者は星を観ない』(原題:『천문학자는 별을 보지 않는다』)亜紀書房、2022
テレ朝news「夜空に隕石? 撮影者は困惑 火球じゃない“謎の光の筋”正体は」(2024年12月20日)<https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000393025.html>2024年12月28日最終閲覧
NATIONAL GEOGRAPHIC「ハレー彗星、繰り返される終末説」(2011年5月23日)<https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/4294/>2024年12月28日最終閲覧
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