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星の林に漕ぎ出でて—私の天文民俗学 第18回

  • 中野真備
  • 2 時間前
  • 読了時間: 7分

二日酔いのプラネタリウム—ともに見る記憶

中野真備


 また、やってしまった。

「犯人はこいつです!」と、昨夜の紹興酒と日本酒の首根っこをつかみたい気分である。

 

 なぜか、翌日の朝イチのプラネタリウム上映を予約していたのだ。

 

 

 重い身体で自宅から1時間ほどのところにあるプラネタリウムへ向かう。

 駅を抜けると、朝の陽射しのまぶしさに目を細める。道端にはコンビニ袋やタバコの吸い殻、ビールの空き缶。軒先では店を開ける人が箒を動かしている。

 歩きながら1リットルほど水を飲む。暑さのせいなのか二日酔いのせいなのか、よくわからない喉の渇きがようやく満たされたころ、近未来的な建物がみえてきた。

 

お手本のような夏の青空がまぶしい
お手本のような夏の青空がまぶしい

 夏休みの日曜日ということもあって、チケット売り場は長蛇の列。

 それを横目に、私は悠々と通り抜ける。手元のスマートフォンには、なぜかすでに購入済みのチケットがあるのだ。

 地下のドームへ向かう階段を降りる。お父さんお母さんと手をつないで歩く子どもが次第に増え、ぼんやりしていた記憶が蘇る。

 ファミリータイム——「幼児から小学校低学年のお子さまとその保護者のみなさま」を対象とした上映プログラムである。

 

 完全に「大きなお友達」になった私は、いたたまれなさを感じながら入口を抜けた。

 大きなドーム内を子どもたちが駆け回る。できるだけファミリーの邪魔にならないよう、目に入った老夫婦の隣に1席空けて座った。

 

 上映がはじまる頃には、場内は子どもたちでいっぱいになった。

 解説員のお兄さんは、巧みなテクニックでドームを暗転させる。「暗くなっちゃうよ〜」と少しずつ照明を絞り、今度は「あれれ〜」と明るくし、そのたびにきゃっきゃっと声があがる。

 子どもたちは、期待と興奮の入り混じった空気でひとつになっていた。

 

 

 大阪の風景が映る。見渡す限りのビル群。

「あそこにあるのは、みんな知ってるかな」と、矢印がくるくる動く。

「あべのハルカスー!」

 あれがそうなのか。大阪暮らし4ヶ月目にして初めて知ったとはいえない。

 

 やがて太陽が沈み、夜が訪れる。

 真っ暗な観客席から黒い小さな手がいくつも伸びて、沈む太陽にひらひらと振っている。

プラネタリウムでは、肉眼では捉えにくい暗い星も投影される。最近では見づらくなった天の川の星々が空いっぱいに広がり、織姫と彦星の物語がはじまった。

 スクリーンには夏の大三角形が浮かびあがり、矢印がくるくると星を指すと子どもたちが口々に「ベガー!」と声を張りあげた。

 

 

 その声が、近所の幼なじみと見た夏の空と重なった。

 小学校の夏休みの宿題で、夏の大三角形を観察することになった。毎日、夕飯を食べ終わった頃に家の前で待ち合わせて、表通りの歩道に座った。人通りもない坂道はひっそりと静まり返り、街灯がぽつんとふたりを照らしていた。昼の熱を溜め込んだアスファルトは生温く、後ろに手をつくと石の跡がついて痛かった。

 

 私たちはしばらくの間、のけぞって空を見上げたり、あぐらをかいて観察ノートにメモをしたりして、ついには寝転んで空を眺めた。長かったのかもしれないし短かったのかもしれないが、いつの間にか時間を忘れて学校や家族の話をしていた。夜中に外で会い、アスファルトの道路に寝転んでいる、という非日常感に浸っていた。

 

 毎日、同じ場所に座って見上げると、星が街路樹の枝の横を少しずつ動くのに気づいた。

「えっ、めっちゃ動いてる!」

「この前まだあの枝のところになかった?」

「あった、あった!」

 授業で知っていたはずなのに、ふたりで見る星空は楽しかった。

 

 その夏以降、彼女と星を観察したことはない。

 ふたりとも積極的に星をみる趣味もなく、知識としてはほとんど残らなかった(第1回)。

 

 けれど20年以上たった今でも、あの夏の夜を昨日のことのように覚えている。

 しん、と静まりかえった夜の曲がり角、アスファルトの石粒の間を歩いていく蟻、虫除けスプレーの匂い——。

 

 

 子どもたちの歓声で我にかえる。

「ながれぼしだ!!」と後ろのほうから男の子が叫ぶ。

 つづいてカッと火球が迫ってきて、別の子が「うわぁあああーーー!」とオーバーなリアクションをする。顔を覆いながらも、ちゃんと見ているにちがいない。

 

 書き忘れていたが、ファミリータイムは「声を出していい」という特徴がある。

「この星の名前は知ってるかな?」「織姫―!」というかけあいはもちろんのこと、子どもたちは「わぁっ!」と驚いたっていいし、「オレンジ色だ!」とか「太陽ばいばーい」とか、大きなひとりごとを言ったっていい。

 

 巧みな話術のお兄さんはすかさず「そう!オレンジなんだよね」と拾うし、ひとりが叫ぶと周りの子も「ばいばーい」と口々に声をあげる。静かにしなさい、とたしなめる人はここには誰もいない。

私はいつの間にか自分が「大きなお友達(※二日酔い)」であることを忘れて、小さな黒い影たちと一緒に「アルデバラーン!」と控えめな声で夏の星座クイズに挑んでいた。

 

 

 ともに見る、ということは大事だ。

 ごく当たり前のことかもしれないが、思えば私が覚えた星は、本ではなく誰かと一緒に見た空にあった。

 

 犬の散歩の途中で、父が教えてくれた宵の明星。

 小さな商店街のベンチに座って、父と一緒に見上げていた夕方の空。

 磯部団子の味も、ハッハッと期待している犬の息遣いも、よく覚えている。

 

 バンガイ諸島の真っ暗な夜に、オチェが教えてくれた星(第14回)。

 とぷん、と足元で波打つ音、誰かの陽気な歌声とギター、遠くの水面に揺れる漁船の灯り。

 北風の季節になったらあの山の上にみえるんだ、と指された先に目をこらした黒い影。

 

 自分とは異なる誰かが、どの星にどんな名前をつけ、何のために利用し、どんな物語を語り継いできたのか。それを知るために、日本やインドネシアの海を歩いてきた。するとつい、プレアデス星団は「ププル」だとか、「ヤクボシ」をみてイカを釣るとか、必死でメモを取ってしまう。

それ自体は必要なことなのだが、私は見落としていたのかもしれない。

 

 名前のない星も、何にも利用されない星も、それから星と人の間にあるすべての景観も、どれも星の記憶を紡いできたものだったはずだ。

 父が「宵の明星」という美しい和名を教えてくれたあの商店街の空のように、人はたぶん、誰かと並んで見上げたときの匂いや温度、声の響きごと覚えているのだろう。そこには地上の住宅街や街路樹の影も含まれている。

 

 これまで世界中の人類学者や考古学者が、人びとが知覚し、経験してきた空の景観、つまりスカイスケープ(skyscape)から天文文化を明らかにしようと情熱をかけてきた。あらゆる文化がそうであるように、天文文化もいわゆる在地の知識という側面のみから成り立っているわけではない。

 誰かと共に見たときの音や匂いも、視界の下方で空を縁取る建物や水平線さえも、空の景観を構成してきたはずだった。それがまた、その日その場所での星の記憶を彩るものだった。

 

 考えてみれば、星の記憶は独特だ。

 オチェと星を眺めていると、父や幼馴染とみた星、佐渡で眺めた星もふと重なる。同じ星を見上げているのに、大地や海、風、匂い、夜の静けさや誰かの声によって、空の景観と記憶の重なりかたは微妙に違う。オチェは今日も星を眺めただろうか。遠くにいる誰かに思いを馳せて「同じ空の下」と表現するのも分かる。

 

 ともにみること、声をあげて反応すること、

 星以外のさまざまな環境や人の気配とあわせて捉えること。

 そうして、星の記憶は柔らかく紡がれていくのかもしれない。

 

 そういえばバンガイ諸島の星の伝説は、その内容だけを記録してしまった。

 あの話を教えてくれた滞在先の「父」は、いつ、誰からこの話を聞いたのだったか。

 彼自身の記憶としての星は、どんな夜空の下で、どんな景観とともに紡がれたのだろう。

 そのとき吹いていた風や、波の音や、人の声は­­——。

 

 

 夜明けが近づいている。

 お兄さんが「みんなで恥ずかしがり屋の太陽を呼ぼう」と促す。

「朝になったらなんていうんだっけ?」

「——おはよう!」

 

 軽快な音楽とともに東の空からまぶしい光がのぼってくる。

 一晩をともに過ごした子どもたちは拍手で迎え、ドームは一体感で満たされた。

 

 その時間は、「学習」や「上映」というにはおさまらない、知らない誰かと過ごしたかけがえのない出来事だった。

 

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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