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魚仏誕生—アジアの祈りを描く旅 第9回

彩蘭弥 


 

祈るように描けばいい


 もうすっかり第2の故郷のように思っているポカラを離れる時が、ついにやってきたポカラで過ごした日々を思い出し、胸が締め付けられてちっとも眠ることができない。


「おじちゃん、おばちゃん、ただいまー。はぁ、今日も頑張ったわぁ〜」

「お腹すいたでしょ。すぐご飯だからシャワー浴びておいで」

 私がポカラ滞在中、本当に親切に接してくれたホテル・イエティのみんなの事を除いては、私のネパール滞在は語れない。タンカの師匠に紹介してもらったホテル・イエティはアトリエから道を曲がって目と鼻の先にある、ポカラでも老舗のゲストハウスだ。優しい笑顔とレトロな眼鏡が素敵な、昭和のサラリーマン風のオーナー、ホムさんと、背が低くまんまるとしていて、キャッキャと笑い声の絶えない奥さま、カビタさん。それから21歳の住み込みスタッフ、ソービン君と、22歳の通いスタッフ、シルチャナちゃんがネパールでの私の家族だ。みんな冗談が大好きで、いつも大きな声で笑い合っている。彼らといると自然と笑顔になれた。

 おじちゃんとおばちゃん(ホムさんとカビタさんを、親しみを込めてこう呼んでいた)には私と同い年の娘がいるのだが、留学中ということで、会えなくて寂しい思いをしていた。そこにひょっこり私が来たものだから、

「あなたは私達の娘だよ! 困った事があったら、なんでも言うんだよ」

と顔を合わせるたびに目を細めて言ってくれた。おしゃべりなところや笑顔が娘さんに似ているのだそうだ。

 ホテルには入れ替わり立ち代わり世界中から人がやってきて、大体2、3泊で去って行く。だから3ヶ月ものんびりと滞在して、下手なネパール語を話したり、毎日一緒にカレーを頬張っている私は、お客さんという枠を超えたところでお付き合いする事が出来た。

 ゴルカ村出身、ネワール族のソービンは細かなところまで気が行き届く働き者。浅黒くヒョロっとしていて、何故かいつも「Tokyo」 と書かれたオレンジ色のTシャツを着ていた。ソービンはとてもシャイで終始ニコニコしながら仕事にあたっていて、私はお世話になりっぱなしだった。オムレツとトースト、ジャガイモと野菜の付け合わせと、紅茶の朝食セットを毎朝せっせと作ってくれたし、彼は英語が全く話せないけれど、私のしつこい質問責めにも丁寧に答えてくれて、良い語学の先生でもあった。ご近所のおススメ散歩コースや美味しい豆カレーの作り方など、ソービン先生に教わった事は山のように、いや、ヒマラヤのようにある。

 そして、親友シルチャナ! 会ってすぐに私達は意気投合し、顔を合わせれば腕を組んだり、突っつきあったり、お互いの髪を結んでみたり、お菓子を分けて食べたり、とにかくラブラブだった。こんな動物的というか幼稚園生の女の子同士のようなスキンシップに最初は戸惑いもしたが、どうやらネパリ女子のスキンシップとはこのくらいベタベタするもののようだ。女子に限らず、男性諸君も友達同士で肩を組んだり、手を繋いで、ルンルン鼻歌を歌いながら通りを闊歩する。シルチャナは1年前に結婚していて、旦那さんも同い年の22歳。今は小さな新居で質素に暮らしている。ソービンと同じゴルカ村の出身で、マガル族というモンゴロイド系民族なので、見た目にもとても親しみやすかった。ピヨピヨと小鳥がさえずるような彼女の高い声が私は大好きだ。


 「人生はタイヘン! 生きるのは苦しいものよ。でも毎日笑って過ごせる家族がいれば、人生はハッピー! 冗談ばっかり言い合って笑っていれば、辛い労働の時間もあっという間に過ぎちゃうの」

 おばちゃんは私とソービン、シルチャナを集めて、よく昔話をしてくれた。

 おじちゃんとはサシでネパールウイスキーを飲むことが多かった。

「ぼかぁね、かみさんのあの“ヒャッヒャッヒャ”っていう笑い声が毎日聞きたくて結婚したんだよ」

と、そっと打ち明けてくれた。なんて素敵なご夫婦なんだろう!

 おじちゃんは学校を出ているので、英語が話せて読み書きも出来た。おじちゃんの時代には多分凄いことだったんじゃないかな。おばちゃんは学校に通ったことがないから、おじちゃんに教わったり、ゲスト達を接客しているうちに覚えたのだそうだ。世界中からホテルを訪れる人々の話も沢山聞かせてくれた。

「アヤ〜。ホテルをやっているとね、色んな人が来るだろう? いい人も多いけど、我々を見下してひどい事を言う人も凄く多いんだよ」

 そんなおじちゃんが愛して止まない事はズバリ、“育てる事”。家計が苦しくなるのは嫌だからと、子供は1人と決めていたおばちゃんを何とか説得し、2人の子供を育てることに。その2人が留学して家を出ると、近所の孤児をもらって育て、若いスタッフも雇って面倒を見て、それでも子育て愛は留まるところを知らず、ホテルにはウサギ4羽、鳩の親子、小鳥の巣、蜂の巣があり、私が滞在中に子猫を2匹拾って来て、立派に育て、この前その拾ってきた猫の子供が生まれたと連絡が来た。植物も沢山栽培している。子供だいすき! 動物だいすき! 何か育ててないと生きてる気がしない! そんなおじちゃんが、ネパールについて右も左も分からない、手のかかる私を放って置くはずがなく、3ヶ月間、べったり愛情を持って育てて(?)もらったのだった。

 師匠家族には出発前夜の最終日の夜までみっちりとご指導いただき、ついにカーラチャクラ曼荼羅が完成した時には師匠とニシャさん、マニシャ、そしてその時来ていたお客さん達から労いの拍手を送ってもらった。

「ここに住んで、タンカ絵師になる気はないか?」

 2人きりになった時、ボソッと呟いた師匠の言葉が耳から離れなかった。その日の晩は近所の人も呼んでささやかなお別れパーティーをしてもらった。


 ポカラでの愛に溢れた日々の思い出に浸っているうちに夜が明けてしまった。一番鶏が寂しそうに鳴き、空が白んでゆく。朝早くからみんなが出発の準備を手伝ってくれた。6時過ぎに朝日を見るため、いつものように屋上へ。お日様は見えなかったが、ヒマラヤに当たる朝日がピンク色に輝いていた。最後の朝ごはん。初めて来た日の朝のようにソービンが「ナマステ~!」なんて言いながらサーブしてくれる。お調子者の常連客ラムチャンドラ、カッコいい山岳ガイドのゴーマ姉さん、ちょっとシャイな親戚のラクパ君がいて、珍しくネパリばかりで賑わっている朝だ。朝ごはんを食べ終わってしばらくすると、おじちゃんがフロントへ来なさいと私を呼びに来た。ここでも夜遅くまでみんなで色んな話をしたっけ。

「アヤ、ヒマラヤにはね。信じられないくらい大きくて重い岩が沢山転がっているんだ。その岩が僕の胸の中にあるようだよ」

とおじちゃんは涙声でそう言い、仏教の吉祥モチーフが描かれたシルクのタカを首に結びつけてくれた。

「あなたはもう私達の娘だよ。いつでも帰っておいで。決して忘れないでね」

 そう言いながら、おばちゃんはマリーゴールドで出来た鮮やかなオレンジ色の花輪をそっと私の首にかける。

 ソービンは何も言わずにちょっと俯き加減ではにかみながらバラの花輪をかけてくれた。

 シルチャナはもう目に涙をいっぱいためて、仏頂面をしている。

 私からはみんなの似顔絵をプレゼントした。もう幸せと寂しさで胸がいっぱいだ。

滞在中何度もお世話になり、用も無いのに世間話によく来るタクシーの運ちゃんグルジーが来た。タクシーに乗り込み、窓から身を乗り出して「みんな愛してるよー!!!」と叫ぶ。みんながどんどん小さくなっていく。

 さようなら愛しいポカラ、愛しいホテルファミリー。


 次の目的地に、私はお釈迦さま生誕の地、聖地ルンビニを選んだ。ルンビニ行きのバスは案の定1時間遅れで出発し、涙で腫れた目も少しずつ落ち着いてきた。隣の席のおばちゃんとおしゃべりしながら移動時間を過ごす。マリーゴールドの花輪に蜂がブンブン言いながら寄ってくるので、少し怖くなって首から取ってしまった。タンセンパルパの町を右手に山を下り、少し寝て、窓の外に目をやると、もうそこはインドのような景色が広がっていた。目力の強い黒い顔の人々。茶色くてキツネ顔の野犬の群れ。だだっ広い平野とオレンジ色のまん丸い夕陽。スモッグがかかったモヤに夕陽が反射して空気全体が朱色に染まっている。土の家、牛、人間の死体、屋台の揚げ物、麻紐のベッド…。インドの村で過ごした1ヶ月間の記憶が鮮明に蘇る。途中渋滞に巻き込まれたこともあって、到着予定時刻をはるかに超え、外は真っ暗になってしまった。終点で降りて、すぐにリクシャーに乗り替えピースパゴダを目指す。ピースパゴダとは日本山妙法寺にある仏塔の名前で、このお寺の宿坊に宿泊し、数日お勤めをご一緒させていただきたいと考えていた。

「今日泊まるところも決まってませーん。一か八かお寺に泊めていただけるよう頼んでみます」

などと言っている私を心配し、リクシャーのおじちゃんがお寺の門まで付いてきてくれた。闇夜の向こうから太鼓に合わせてお経を唱える声が響いてくる。あぁ良かった、人がいる。本堂へ辿り着くと、大西上人というお坊さんと、ヴィシュヌさんというネパール人の尼さんが夜のお勤めをしているところだった。泊めていただけないですか? と訊ねると快く受け入れてくれた。荷物を下ろす間も無く、夜のお勤めに飛び入り参加するよう言われ、お題目の“南無妙法蓮華経”を唱える。お勤め後、案内された部屋には硬い板のベッドがあり、シーツと蚊帳を渡された。素早く蚊帳を張る。部屋にはお怒りのスズメバチがいて、顎をガチガチと鳴らしながらお尻の針を蚊帳に向けて突き立て、威嚇してきた。裸電球の周りには蛾や蚊やハエがブンブンと忙しく纏わり付いている。11月だというのに、夏のような気候で、蚊も飛び交っている。洗面所には冷水の出るシャワーがあるが、壁中をアリやゲジゲジが蠢いていて、白いタイルが真っ黒の動く一枚の板のようになっていたので、今晩はシャワーを浴びずに、布団を被って眠ってしまった。


 翌朝3時半に起床。ルンビニはネパール南部のタライ平原にある小さな村だ。白く輝くヒマラヤが印象的なチベットの空気はもう全く感じられない。どこまでも広がる暑い大地。

 ルンビニにはイスラム教徒やヒンドゥー教徒も多く、近くにモスクがあるのでアザーンの音が微かに響いていた。

 4時から30分間、まずは本堂の掃除から一日がはじまる。手押しポンプ式の井戸で水をくみ、雑巾を絞ってチリ1つ残らないようピカピカに磨きあげる。テキパキと動く僧侶たちの姿は、昔絵本で読んだ“一休さん”の挿し絵のようだ。

 4時半から5時までお堂内で団扇太鼓を叩きながらお題目を唱える。

「な〜むみょ〜ほーれんげーーきょーっ!!!」

 正座で足が痺れるし、お太鼓は片手で支え続けるには重くてプルプルするけれど、お上人様達の大太鼓に合わせて唱えるお題目は気持ちが引き締まる。

 このところ「オンマニペメフン」やら「オンタレトゥータレトゥレソワハー」などチベットマントラばかり唱えていたので、日本に帰ったような、でも全くの異文化なような不思議な感じがした。

 5時から10時までお太鼓を叩きながらお題目を唱え、ルンビニ周辺をとことん歩き回る。

 まずはお釈迦様のお生まれになった、まさにその場所というマヤ堂へ。ここであの有名な「天上天下唯我独尊」が発せられたのかしら、などと空想に浸るヒマもなく、次から次へとあっちでお経、こっちでお題目、そっちで礼拝と忙しい。その後も周辺の村々を太鼓の大きな音を立ててひたすらに歩き続ける。


 次第に、太鼓の音を聞きつけた村の子供達が集まってきた。真っ黒い顔の子供達が、お上人の太鼓に合わせて

「ナムミョーホーレーンゲーキョーーッ!」

と元気にお題目を唱える。これには驚いた。ついでにノラ犬も10匹ほど集まって、太鼓に合わせてぎゃおんぎゃおんと吠える。

 妙法寺に帰ってきた頃にはすっかり1日分の労働を終えたかのような達成感と疲労感があった。が、まだまだ午前中。ダルバート(ネパールのカレー定食)やお布施としていただいた食べ物を食べ、その後各々洗濯や用事を済ませる。私は白く輝くピースパゴダや、境内をスケッチして時間を過ごした。

 夕方は4時半から7時まで境内でお太鼓を持ってお題目を唱えるお勤め。裸足でピースパゴダの周りをグルグルと周り、刻々と変化してゆく西の空に向かって手を合わせた。

 

 私が印象に残ったお勤めに、食事の前後に食法(じきほう)を唱える、というのがあった。食事に感謝し、食べ物は贅沢に楽しむためではなく、ただ命を繋ぐためにのみあるというような内容だった。食べる事が無類の楽しみな私にとってはちょっと切ないお経だ。食べ終わった後は、お皿にお湯を注ぎ、手で擦ってピカピカにし、そのお湯も全て飲み干した。

 ところで、この時お世話になった大西上人に、首都カトマンドゥで今まさに建設途中のお仏舎利塔があると伺い、また、その工事を監督されていらっしゃる佐藤上人には是非とも会ってみるべきだと伺ったので、急遽その地を訪ねることにした。


 舞い戻ってきた喧騒のカトマンドゥ。佐藤上人はお忙しい中、いきなり飛び込んだ私に、とても親切にしてくださった。パタンやキティプルに近い山の上、標高は1700メートル。ここに将来お仏舎利塔が建つという。今はまだ土地をならしたり、石材を運んだりしている最中だった。山を切り開き、石材を運ぶのも全て人力。

 佐藤上人とは1日ご一緒し、沢山お話をさせていただいた。自らの辛い過去を隠さず、平和の為に祈り、闘い続ける佐藤上人。結局はお坊さんも絵描きも、道を極める為に、全てを捧げて修行に没頭するという意味では同じこと。

 自分を信じてわが道を進めばよい。

 私も祈るように描けば良いのだと、気づかされた。






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