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魚仏誕生—アジアの祈りを描く旅 第19回

  • 彩蘭弥 
  • 8 時間前
  • 読了時間: 5分

彩蘭弥 


私の経験したスランプのお話


 記憶のある限り絵を描き続けている私だが、画家人生で一度だけ本気のスランプに陥ったことがある。真っ白い画面を前に腕組みしてウンウン唸るばかりで何もアイデアが湧いてこない。こんな症状は生まれて初めてで、絵が描けないとはこんなにも苦しいのかと驚いた。

 それは2020年コロナ禍のことだった。世界中が塞ぎ込み、私も取材の旅に出られなくなった。心が沈み、家に閉じこもり、次第に筆を持つことができなくなった。

 漉かれたままの和紙と何時間睨めっこをしたところで埒が明かないが、手を動かし続けなければ本当にこのまま何も描けなくなってしまうような気がして、アニメや漫画の模写に毎日明け暮れていた。後から思い返せば、違う分野の線や影の描き方などを学べたのは新しい発見があって無駄ではなかったが、この時は手を止めないことに必死だった。

 

 スランプにはもう一つの大きな原因があった。大規模な川の開発工事である。私の家の前には多種多様な動植物が生息する豊かな川が流れており、幼い頃から川と共に過ごしてきた。春には桜や菜の花が咲き誇り、夏は川面に映る入道雲が眩しく、秋にはトンボが空を飾り、冬は枯れ枝の作る影が美しかった。季節の花が咲き、カワセミやサギ、カモ、セキレイやシジュウカラと野鳥の宝庫であり、亀やスッポン、コイやオイカワなど数え出したらキリがないほど命あふれるビオトープなのだ。そこがある日、東京外かく環状道路開発のための地下高速道路掘削と河床整備の名目で、川の地下と地上同時に大規模工事が始められた。東京外かく環状道路、通称「外環道プロジェクト」は首都圏の渋滞緩和を目的として約85kmの環状線を通す計画のことだ。興味があればぜひ詳しく調べていただきたいが、ここでは私の見える範囲の話にとどめておく。さて地下トンネルの掘削工事が始まり、我が家は朝8時から5時頃まで毎日家がガタガタと揺れるようになった。「がるるん」と「みどりんぐ」というふざけた名前の直径16mのシールドマシンが私の足元40mの地下を掘り進んでいた。一般公募で命名された「がるるん」と「みどりんぐ」はキャラクター化され、HP上で力こぶを作って見せていた。食器や重ねた絵皿がカチャカチャと鳴り止まず、筆洗に溜めた水がチャプチャプ音をたて神経を逆なでる。微振動に晒され続け、動悸が治らなくなった。

 目に見える実害も出ていた。工事の過程で猛毒である高濃度の酸素が漏れ出す事件や、ついには2020年10月18日調布市東つつじヶ丘で地面が大きく陥没し、地域住民の家屋の移転などを余儀なくされる事態となった。工事に伴う地盤沈下の問題は2025年現在未だに解決されていない。

 

 川の氾濫を防止する目的で着工した河床整備にも心を痛めた。水を堰き止め、ショベルカーが列を成して川岸をえぐり、川床は黒光りした土嚢で覆われた。緑生い茂り、美しい曲線を描いていた川は金網で四角く真っ直ぐにされ、コンクリートを流し込まれ、死んでしまった。大水対策とのことだったが、私は20年以上この地に暮らし、幾度となく嵐に見舞われているが川が氾濫したことはない。川岸の木を引き抜き、コンクリートで真っ直ぐにしてしまったらむしろ鉄砲水になるのではないかと素人考えでは思うのだがどうだろうか。

 「この機に外来種駆除を行いました!」と自慢げに水生生物を何匹殺したかをグラフにした看板も立てられた。在来種は保護したとも書いてあったが、何だか納得のいかない気持ちだ。カワセミの巣も、カルガモの巣もショベルカーに潰されてしまい、見る影もない。この現状に疑問を持ち、幾つかの住民説明会に参加したが、こちらの質問にまっすぐ答えてくれる人は誰もいなかった。説明会のパンフレットに印刷された「かわいこちゃんファミリー」という東京都建設局のキャラクターを見て吐き気がした。東京都の川に愛着を持ってもらうために生まれたキャラクターだが、これが心底かわいくない。その後「かわいこちゃんファミリー」は横断幕になり、工事中の川の欄干に掲げられた。

 コロナで世界中の人の命が危機にさらされ、目の前では長く親しんできた川の小さな命が奪われてゆく。私の中から色が消え、世界は灰色になり、何も描けなくなった。

 

 そんな日々が数ヶ月ほど続いた。そしてある日突然に私の堪忍袋の尾が切れた。もうたくさんだ! 私は世間に対して何の発言力もない、川の工事を止めることはできない。しかし、ガタガタ揺れる家で鬱々とステイホームしている人生なんてまっぴらごめんだ! 怒りが私を奮起させた。そこから120号というサイズのパネルを4枚購入し、それを繋げて縦194cm×横388cmの大作を描き始めた。相変わらず家は揺れるし、バクバクと動悸がして手元が定まらなかったが、それでも構わず筆を動かし続ける。完成した作品は「せせらぎの咆哮」と名付けた。屏風絵のように右から四部構成になっている。物語の始まりである作品の右側には命あふれる川の記憶を表現し、咲き乱れる桜や緑、そして水の神である龍神を描いた。そこから左の方へ目を移すと、ギザギザの歯を生やしたショベルカーや掘削機が川を破壊する様子が見えてきて、さらに左へ見進めるとタヌキやイタチ、鳥などの失われた魂が子供の姿で現れる。そして最後には汚染された川と完成した道路を描いた。蓮や仏の手、そして清流にしか住まないとされるカワセミを描くことで再生への願いを表現した。岡本太郎がベトナム戦争時にワシントンポスト紙に出した「殺すな」の文字もオマージュとして入れた。

 

 ありがたいことに、この作品は「Artist Group - 風 -」という公募展で評価を得て東京都美術館で展示されることになる。その際、絵を見にきた多くの人たちと言葉を交わす機会を得た。自然破壊を憂う人がいれば、渋滞緩和のための道路拡張は必要不可欠だという人、また実際にこのような道路工事の仕事につく人の話も伺うことができた。自分の無力さに打ちひしがれて、一時は筆を持つことすら出来なかったが、改めて芸術の持つ力に救われ、この問題を多くの人に共有し、対話の場を設けるにまで至った。これを境に、私はまた絵を描けるようになってゆく。私の経験したスランプのお話。








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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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