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魚仏誕生—アジアの祈りを描く旅 第18回

彩蘭弥 


ネパールで死と向き合う


1ヶ月間のネパールの旅を通して、私は多くの死に直面した。

 大きな飛行機墜落事故がおきたこと、ネパール最大のヒンズー教徒寺院・パシュパティナートの火葬に参列したこと、そして再会を約束していた2人の友人の死だ。今回は、死について向き合い考えたことを書き記しておこうと思う。

 

飛行機事故

 2023年1月15日午前10時半頃、首都カトマンズからネパール第二の都市ポカラに向かっていたネパールのイエティ航空691便がポカラ国際空港付近で墜落する事故が発生し、乗客乗員72名全員が亡くなった。72人のうち韓国、ロシア、フランス、インド、アイルランドなど出身の15人の外国人も搭乗していた。機体は真っ二つに割れ、もうもうと黒煙と炎を上げる中で、救助隊や野次馬がごった返しになり、大混乱している映像が現地のニュースで報道されていた。乗客乗員以外にも飛行機の下敷きになった人も3人いた。

 実はこの航空会社、この航路、そして機体、全て私がつい数日前に乗ったものと完全に同じ便なのだ。他人事ではない、自分がその機内にいても何もおかしくない、私にとって全てが手に取るようにリアルに感じられる事故だった。ニュースを見て目眩がした。私の知人の息子さんもこの飛行機に乗っていたらしい。

 ネパールは飛行機事故超多発国だ。飛行機に限らずバス事故など多くの交通事故が頻発している。ネパールは世界一高い山エベレストがある国として有名で、8000m級の山々が連なる山岳国だ。その絶景の山々の周りには強風が吹き荒れ、濃霧が発生し、とにかく気候が激しい。以前訪れたエベレスト街道の入り口“ルクラ“には「世界一危険な空港」として悪名高いテンジンヒラリー空港があり、幾度となく死亡事故が起きている。

 ヒマラヤ地域の激しい気候や、国の財政難によるインフラ整備不足、祈りに頼ってメンテナンスを怠りがちな国民性など、あらゆる要因が重なって残念ながら事故の起きやすい地域になってしまったネパール。私の大切な心の故郷であるからこそ、このような悲しい事故がなくなる日を願ってやまない。ニュースからネパール語で流れてくる悲痛な叫びの内容を、聞き取ることができるようになった今、もう他人事ではいられないのだ。

 

コール&レスポンスのあるお葬式

 ネパール最大のヒンドゥー教寺院である聖地パシュパティナート。インドのガンジス川の支流であるバグマティ川の川岸に建てられた寺院はヒンドゥー教徒の人生最期の地、火葬場として長く大切にされてきた。遺体はじっくりと時間をかけて燃やされ灰となり、バグマティ川に流される。輪廻転生を信じて墓を造らないヒンドゥー教徒にとって、それは理想的な死の形とされているそうだ。

 私はこの時期身内に不幸があり、死について思い巡らせているうちにここへ辿り着いた。

 火葬は毎晩ガートと呼ばれる河岸で行われる。私は階段状になっているそこに腰を下ろし、その時を待った。日が落ちるにつれ、どこからともなく人が集まり、気付けばガートは数百人の人で溢れた。最も川に近い下段には故人と最後の別れを惜しむ幾つかの家族の姿があり、マリーゴールドの花などの供物が手向けられ、泣いている人の姿も見られた。   

 すっかり日も暮れ、数人の僧侶があちこちで金剛鈴と香炉を掲げ、朗々と歌い始めた。死者を送るための祈りの歌は徐々にテンポアップし、熱を帯びてゆく。集まった人々もこれに加わり、最後は数百人での大合唱となった。僧侶が何やら掛け声をかけ、それに「おー!」と人々が応える。アリーナでのライブのごとく、このコール&レスポンスは火葬の最中、延々と繰り返される。驚愕だった。遺体が焼かれてゆく様を赤の他人の大群衆に公開するのみならず、盛大に歌って送り出しているのだ。天を仰いで泣き叫ぶ遺族、マイクを持ち群衆を盛り上げる僧侶、歌い踊る数百人のヒンドゥー教徒たち。渦中にいる私はこの時、誤解を恐れず言えば、死もまたあの世への立派な旅立ちであり、祝福の対象になり得るのだと肌身で感じていた。これは祭りだ。最初は自分の先入観から少し不謹慎に感じていたこの光景が、いつしか憧れへと変わっていった。見ず知らずの大群衆に音楽と花と光と香りとをもって凄まじいエネルギーで送り出してもらえる。こんな最期もあるものなのか。

 

友人の死

 同時期に2人の友人の訃報を受けた。1人目はシェルパ族の山岳ガイド、パサンさんだ。私の連載第7回8回にパサンさんとの冒険を詳しく綴っているが、私を山の世界に連れて行ってくれた恩人である。彼と久しぶりに会おうと連絡をとっていた矢先、私のネパール滞在中に彼は死んだ。詳細は伏せるが事故死だった。最初訃報だけを耳にして、とても信じられなかった私は彼の死の真相を尋ねるべく、ネパール第二の都市ポカラから首都カトマンドゥへ行き、ツテのない中で人伝いに話を聞き、シェルパ族のコミュニティーにたどり着き、ついに親族に話を聞くことができた。本当に数日、タッチの差で再会は果たされる事なく空中分解してしまった。またここでモモ(餃子)を食べようと約束した店に、ついに行くことはなかった。

 

 2人目の友人はインド人のおじいちゃんだ。2017年に滞在していた時に3ヶ月間毎朝一緒にチャイを飲んでいた茶飲み友達だ。友達と言っても、言葉を交わしたことはないし、名前も知らない。彼は無口な上にインドの部族言語のみを話し、標準的なネパール語では会話しなかった。歯を食いしばって新しい言語や文化を吸収しようとしていた私にとって、ただ横にいてお茶を飲んでくれる彼は心安らげる存在だった。帰国の際、ネパール語で別れの挨拶をし、またいつか帰ってくるねと言った。彼はほんのり白く濁ったガラスのような瞳で私を真っ直ぐ見つめるばかりで、何も返事はしなかった。

 5年後、私は再びこの地を訪れた。思い出に浸りながら散歩していると、突然「あーーーー!!!」と大声で私を呼び止める声がした。声の主はそのおじいちゃんの息子で、面識のある人だった。そして、あのおじいちゃんがつい最近亡くなったと聞かされた。息子曰く、彼は私が帰国してから亡くなる日までずっと「あの日本人の女の子はどこか」と聞き続けていたらしい。認知症の気があったそのおじいちゃんは、私がいなくなった後も、毎日ずっと私の帰りを忘れず待っていてくれたのだ。もっと早くネパールへ帰ればよかった。ネパールを思い出さない日はなかったが、コロナ禍で身動きが取れず、気付けば5年の歳月が経ってしまっていた。後悔の念は拭えないが、私たちはお互いに生涯忘れない友人を得た。

 

 

 あちら側へ渡った人々のために、そして私自身のために、チベット仏教でもっとも有名な真言を唱えて終わろうと思う。

 

Om ma ni pad me hum オンマニペメフン





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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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