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魚仏誕生—アジアの祈りを描く旅 第21回

  • 彩蘭弥 
  • 9月30日
  • 読了時間: 6分

彩蘭弥 


龍を探して──夏の京都の取材記

 

 夏の京都は、ただ息を吸うだけで胸の奥に熱がこもる。アスファルトに反射した陽光が目を突き刺し、真っ直ぐに伸びる四条通りの遠くの方は蜃気楼で歪んで見えた。そんな酷暑の京都を、私は龍を探して歩いている。これから日本画で描こうとしている龍シリーズの取材のためだ。

 

嵐山・天龍寺で出会った奇想の龍

 

 最初に向かったのは嵐山の天龍寺。京都の龍と言ったらまずここは外せない。法堂に足を進めると、加山又造(1927-2004)の天井画《雲龍図》が広がっていた。杉板159枚を組み合わせ、全面に漆を塗り、さらに白土を塗った上に描かれた直径9メートルの龍。八方睨みでこちらを見据えるその姿は、墨の濃淡によって背鰭や爪の立体感までも巧みに表現している。休日の嵐山は、コロナ禍を経て急激に増えたインバウンド客でごった返していたのだが、法塔の中には偶然私ひとり。龍と私だけの静謐な時間に、思わず居住まいを正した。

 

 天龍寺の大方丈へ進むと、今度は曽我蕭白(1730–1781)の《雲龍図》の高精細複製が展示されていた。曽我蕭白は「奇想の画家」と呼ばれる人物で、34歳の若さでこの龍を描いた。寄り目でひょうきんな表情ながら、画面は凄まじい迫力を放ち、全体が揺らめくように見える。現在は襖八枚に仕立てられているが、中央部分の噛み合わせから考えると、当初はさらに長大な構図だったのかもしれない。蕭白が描いた原画は現在ボストン美術館に収蔵されている。金地に墨で描かれたその龍からは、身震いするほどのエネルギーをもらった。

 

東福寺と瀧尾神社の龍

 

 次に訪れたのは東福寺法堂。ここには堂本印象(1891-1975)が昭和9年の再建時に17日間で描き上げた《蒼龍図》がある。普段は非公開だが、参拝所の上に開いたわずかな隙間からその一部を覗くことができる。見えた龍の顔は、どこかユーモラスで、胴体との繋がりはつかみきれない。だがその曖昧さが、かえって龍の神秘性を際立たせているようにも思えた。

 

 瀧尾神社では、江戸後期の彫刻家・九山新太郎による木彫りの龍に出会った。全長8メートルもの巨体が社殿の天井に張り付いており、悠々と天を泳いでいるようだ。その姿があまりに生き生きとしていたため、「夜な夜な水を飲みに出る」と噂されたという。金網で閉じ込めたという逸話まで残っているから驚きだ。その時期ちょうど頭部のみ大丸百貨店に貸し出されていたのが、胴体だけでも圧巻だった。鱗一枚一枚のそり返り、ふっくらとした胴体のフォルム、手足の盛り上がりに至るまで、彫刻の緻密さに息を呑んだ。この後大丸京都店のショーウィンドウに飾られた頭部にも会いに行ったのは、言うまでもない。

 

建仁寺で浴びる白龍と双龍

 

 東福寺駅近くを散策していると「ドラゴンバーガー」というバーガー屋さんが目についた。お昼ご飯はここで決まりだ。九条ネギのバーガーに、お茶のペアリングという一風変わったメニューで一息つく。暑さでバテかけていたが元気を取り戻し、午後は建仁寺の西来院へと向かった。そこには中国人アーティスト・陳漫(Chen Man)が描き、2024年に奉納された天井画《白龍図》がある。東西13メートル、南北6メートルの巨大な空間に二頭の白龍が睨み合う光景に息を呑んだ。よく見ると描き込みは驚くほど少ない。だが鼻の毛や舌のざらつき、つるんとした立体的な目など、要所の表現が新しく、リアルさを感じさせる。私は畳に寝転び、長いことその気配を浴びていた。

 

 さらに建仁寺法堂には、小泉淳作(1924–2012)の《双龍図》が天井いっぱいに広がっている。2002年、建仁寺創建800年を記念して約2年の歳月をかけて完成した大作だ。阿吽の二匹の龍が法雨を降らせるかのように雲間を舞う。畳108畳分の壮大なスケールに圧倒されながらも、その表情はどこか愛嬌があり、可愛らしい。他の龍の絵では見たことのない角ばった筆致から、自由にのびのびと表現する作者を想像して嬉しくなった。

 

 また、建仁寺には桃山時代の画家・海北友松(1533–1615)が描いた《雲龍図》もある。重要文化財に指定されるこの大作は、没骨法による暗雲と奔放な筆線の対比が冴えわたる。龍という画題がいかに画家の力量を試すものであったかを如実に物語っていた。

 

祇園祭の龍たち

 

 取材の時期はちょうど祇園祭と重なっていた。ジリジリと照りつける太陽と共に市内を歩き回り、山鉾の装飾に潜む龍を探した。

 

 船鉾の船尾には、螺鈿細工で表された不思議な龍がいた。短い胴体に翼を持ち、鳥のような姿をしている。これは「飛龍」あるいは「応龍」と呼ばれ、雨を呼び大地を潤す瑞兆の霊獣だという。波しぶきをあげて飛び回る姿は自由で力強く、神秘的だ。

 

 山伏山の装飾品には、金糸の刺繍や綴織で数多くの龍が登場する。正面を飾る懸装品《雲龍波濤図》は重要有形民俗文化財に指定され、波に挑む龍の群像が見事に表されている。背後を飾る《双龍額飛龍波濤図綴織》もまた江戸前期の作で、当時の記録にも詳しく記されている。だが最も印象的だったのは、水引幕に刺繍された龍。なぜかその顔はキジそっくりで、見たことのない面妖な姿だった。祇園祭の山鉾は、遠くヨーロッパや中東など世界中から伝わった宝物をふんだんに使って装飾されており、「動く美術館」と言われるほど様々な地域の文化が混ざり合って出来ている。なので、このような姿の龍が信じられている地域も、もしかしたらどこかにあるのかもしれない。

 

この他、熱中症になるギリギリ手前くらいまで、とにかく出来る限りの山鉾を巡ったが、思いのほか沢山の龍に出会うことができた。オーソドックスな龍もいれば、「これは、龍?なのか?」と首を傾げたくなるような微妙な姿のものもいて、その自由な想像力に惹きつけられた。



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大雨の巡行と妙心寺の龍

 

 2025年の祇園祭・前祭の山鉾巡行は、稀に見る大雨の中で行われた。私も土砂降りに打たれながらの参戦だ。龍は火事から家屋や人々を守る火伏せの力を持っており、水を司る神である。私は、龍が連日のあまりの猛暑を鎮めるために、その力を発揮したのかもしれないと思った。実際、毎年祇園祭では熱中症で運ばれる人が出るのだが、今年はいなかったそうだ。山鉾の引き手の方々はご苦労されただろうけれど、私にとってはむしろ快適だったように思う。

 

 巡行を見届け、この旅の締めくくりに妙心寺へと向かった。法堂の鏡天井に描かれた狩野探幽(1602–1674)の《雲龍図》を訪ねるためだ。探幽が8年の歳月をかけて完成させたと伝わる大作は、彩色が鮮やかに残りながらも、修復はされておらず描かれた当時のままの姿を保つ。見る角度によって、龍が天から舞い降りるようにも、空へ昇るようにも見えるのが特徴で、どこから眺めても目が合うため、「八方睨みの龍」と呼ばれてきた。

 この天気のせいもあるだろう、境内にいるのは受付の方を除いて私ひとりだけだった。屋根から流れ落ちる水は滝のようで、十数メートル先は白く霞んでいてよく見えない。堂内に響く雨音に浸りながら、私は長い時間その龍と向き合った。

 

瑠璃光龍図へ

 

 こうして京都で数多の龍と出会うことができた。はじめは先達たちの描く龍を見て、その様式美や決まりを学びたいと出発したのだが、「型」を学ぶほどに、むしろ自由に自分の理想を描いてもよいのだと気づかされた。

 

 旅から戻った私は、S50号(116.7×116.7cm)の日本画を描いた。タイトルは《瑠璃光龍図》。力強く、優しく、美しく、天へと昇っていく青龍。その姿に未来への希望を託した。今回改めて龍に向き合ったことで、新たな謎も多く見つけてしまった。アジアの人々の心に住まう龍という存在。そして西洋では恐れられているドラゴンにも興味が広がりそうである。これからも龍を探しに旅を続けることになりそうだ。


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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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