彩蘭弥
神々の祭り、マニリンドゥ
その日、カトマンドゥ盆地にある仏教の聖地ボウダナートには雹混じりの小雨が降っていて、シンと寒さが身に染みるような朝を迎えた。携帯電話の電源を入れ、時間を確認する。まだ太陽の気配すらない午前4時。カギュ派のゴンパの隣に位置するロータスゲストハウスには、朝のお勤めのお経とブオーという低音のチベタンホルンの音が届いていた。重い気持ちで目を覚ます。悪夢を見たようだ。昨日のバス事故のことが頭から離れない。ボウダナートに充満する祈りの空気にどこか空々しささえ感じた。さて、何故私がブルブルと震えながらカトマンドゥの夜を耐えているのか。それは山奥のチベット僧院で、マニリンドゥという、年に一度の祭りに参加するためだ。ここに行かなければ今回のタンカの修行が完成しないような気がして、突き動かされたようにポカラを飛び出して来たのだ。13日間の旅の中の旅がはじまる。
マニリンドゥはネパールの数ある民族の中でも、シェルパ族と呼ばれる人々の祭りだ。限られた時間の中で出来るだけ多くの事を学ぶ為、シェルパ族のガイドさんと訪れることにした。ガイドのパサンさんは丸いお鼻が特徴の優しそうなおじちゃんだ。浅黒くて日本の漁師さんなんかにいそうなタイプ。ポーターの仕事を経て、山岳ガイドとなり、イギリスのチームと7000メートル超えの山にアタックするような、過酷な生活をしてきたそうだが、今は中年になり日本語のトレッキングガイドとして生計を立てている。頼りになりそうな方で一安心!
朝5時半、お経の声に背中を押されるようにボウダナートを出発した私達は、トレックングを開始するルクラまでの飛行機に乗るため、出発予定時刻の1時間前にチェックインを済ませ、空港の出発ゲートでアナウンスを待っていた。しかし待てど暮らせど音沙汰がない。1時間程度の遅れならよくある事と大きな気持ちで待っていたのだが、2時間、3時間、4時間と過ぎる内にどんどん不安が募ってきた。今日はまさかキャンセルなの!?キャンセルなら何故アナウンスが無いんだろう?
「霧が濃いせいですよ。」とパサンさん。
とにかく深い霧が晴れるのを待つより他にない。そのうちに、フライトに乗れないあらゆる乗客達が狭い国内線待合室に溜り始めた。ベンチはとっくに満席なので、みな思い思いの場所に座り込んでいる。インド人団体客がワーワーと大声で文句を喚き散らす。それに引き換えじっと静かに虚空を見つめ続けるシーク教の集団。お目目がクリクリのお化粧バッチリな赤ちゃんを連れたネワール族の家族。世界中のトレッカー達は不安そうに携帯をチェックしたり、頻繁にカウンターへ足を運んでいる。実家に帰省するのであろうシェルパ族やライ族は文句も言わず、ただ静かに数珠玉をいじって待っていた。ふと天井を見上げると、そこにはなんと、人の大きさに近いような大きなサルの群れが我が物顔で縦横無尽に動き回っているではないか!天井の梁でうんていでもするようにスイスイと移動し、ターゲットをしぼって飛行機を待つ人から食べ物などをかすめ取る。らんらんと光るハンターの視線を感じ、こちらも気が抜けない。5時間、6時間…。もうここは民族の満員電車。それぞれの体臭や食べ物の臭いが狭い空間にグワーっと充満している。7時間半後、ようやく乗り込む事が出来たのは、15人程乗ったら満席という小さなプロペラ機。最前席に座ったので、コックピットがよく見えた。バタバタバタと大きな音を立ててプロペラが回り始める。いよいよ出発の瞬間、大きなサングラスをかけた機長がこちらを振り返り、親指を立ててグーサイン。ニッと笑って見事なドヤ顔を決めた。いやいや、カッコつけてないで安全飛行でお願いしますよ! 30分間のフライトは、山間を抜ける強風に煽られ、所々ヒヤリとする所を通過し、なんとか無事到着した。ネパール北部、標高260メートルの村ルクラ。この石畳の小さな村に、ヒマラヤ山脈に向かう世界中のトレッカーが滞在する。空港の滑走路が一本しかなく、長さ460メートルという世界一危険だと噂されるルクラ空港に無事着陸した時は、乗客みんなで拍手と歓声をあげ、機長と、7時間半苦労を共にした自分たちを祝福し合った。カトマンドゥとルクラを繋ぐこの経路では過去何度も墜落事故が起きている。幸運にも私達は生きてこの旅を始める事ができた訳だ。
あたりを見渡すと、そこはもう別世界だった。鼻の奥にツンと来る冷たい空気を思いっきり吸い込む。霧がかかりはっきりと景色を見る事は出来ないが、雄大な自然の匂いがして思わず背筋が伸びた。牛とヤクの掛け合わせである、ジョッキョの首に付けた鈴の音がカランコロンと山間に木霊する。靴紐をきつく結び直し、登山用のストックを伸ばした。
「急ぎましょう、日が暮れます」
パサンさんの顔つきが、都会にいた時のそれとは変わっていた。疲労の色は見えるものの、自らの文化圏に帰って来た事への高揚がハッキリと見て取れる。
パサンさんの背中を追い、岩だらけでアップダウンの激しい道を、半ば走るようにして進んだ。脚にだいぶ負担がかかっているのが分かる。次第に空気が重く暗くなり始め、ヘッドライトを着けた。山々は幻想的なシルエットを空に映し、月が姿を現す。道は鬱蒼と茂った森の中にあり、足元はすぐに見えなくなった。ネパールの多くの祭りと同様に、マニリンドゥも満月に合わせて行われる。満月は明々後日。木々の間から漏れてくる月明かりが山道を照らした。今日の目的地であるパクディンに着く頃にはあたりはすっかり真っ暗になっていた。
パクディン、川沿いにある標高2610メートルの小さな村。たどり着いた宿はシェルパ族の経営する、実にシェルパ色の濃い場所だった。あぁ、文化圏が違うんだ。人々の口から出るのは、私の知っているネパール語ではなく、シェルパ語になっていた。彫りの深い、浅黒いアーリア系の民族はここにはいない。今晩お世話になるのはサンライズ・ゲストハウスという山のロッジ。仏教の8つの吉祥モチーフがあしらわれた扉を開け、カランカランというカウベルの音と共にロッジの中に足を踏み入れる。ギシギシと木の軋む音。壁にはチベットの高僧達の写真が貼られ、床には紅色を基調としたチベタンカーペットが敷かれていた。部屋の隅にはバター茶を作る為の、金で細工された細長い木筒があり、立派な木の食器棚には龍や唐草紋様が描かれた中国風の皿や茶碗が、所忙しときれいに並べられていた。
「タシデレ!(こんにちは)」
唯一 知っていたチベット語で挨拶をしてみる。
「オォ、タシデレ~」
陽気なオーナーさんが暖かく迎え入れてくれた。こういうオッチャン、日本にもいるよなー。 餃子によく似たモモを頬張りつつ、パサンさんとの話に花が咲く。 外国人が払わなければならない入山料はポーターの保険になっていること。一昔前までのポーター達に宿はなく、洞窟の中で夜を過ごしていたこと。今の若い人達は学校を辞めてポーターに成りたがっている子が多いこと。この辺はライ族のポーターが多いこと。若い人の民族語離れが進んでいること。昔はテントや食料を持ち歩く必要があり、コックも雇って火を起こして料理するのでポーターもガイドも大変だったけど、今はロッジがあるので仕事が簡単になったこと。この地域の水道や電気はゴルカ兵の人達が年金を使って作ったこと。全てのストゥーパやオボーなどの仏教モニュメントは必ず右回りに回ること。お金持ちのラマや有力者は積極的に大きなマニ車などを作って徳を積もうとすること。でもカトマンドゥから資材を運ばなければならないので1つ建てるのに150万円くらいはかかること。ヒマラヤの青いケシや鳥やシャクナゲの話。ロバはネコみたいに決まった場所でおしっこすること、でもウンチは何処でもすること。地震の時の話。パサンさんの手首についていた数珠玉は朝と夕にお祈りする為の道具だということ。輪廻転成のことや、32世トゥジェリンボチェの話も聞いた。
あ〜、もっともっと話が聞きたいっ!
「それで? それ で? あの道具はなに? もっとシェルパのこと、仏教のこと、山のことを教えて下さい!!」
まだまだ知りたいことは星の数ほどあるのに、今日はもう寝なさいと部屋に帰されてしまった。これからは体温を維持することが高山病対策で最も重要になる。言いつけ通り、シャワーは浴びず、ニット帽の上からフードをかぶり、コートも靴下もネックウォーマーも全て着たまま眠りについた。
「うおーっ!朝が来た、晴天だ!」
昨日とはうって変わって、晴れ渡る空にくっきりと浮かぶ周囲の山々の姿が目に飛び込んできた。一気に視力が良くなったみたい! 山と山の隙間から御来光を拝む。すこぶる明るい雰囲気のサンライズ・ゲストハウスを7時に出発し、いよいよトレッカーの聖地、ナムチェバザールを目指し、エベレスト街道をいざゆかん!
滝や遠くに光る雪山を横目に、勾配のきつい登り道を進む。目の前を歩いていたポーターが突然脇道にシュッと消えていった。時間短縮のため獣道を行くようだ。何十キロもの荷物を担いでいるのに、なんて軽い身のこなし! 岩にお経を彫り込んで出来たマニ石が道々に置いてある。ラマ達が3年3ヶ月3週間と3日、洞窟の中でひたすらお経を読んで過ごす孤独な修行場も通り過ぎた。この修行を終えたラマ達は特別の尊敬をうけるという。日本で言うところの千日回峰行のようなものかしら。
動物達が噛みちぎるので吊り橋の金具はボロボロだ。ギシギシと派手な音を立てて軋む。1番大きな高い吊り橋にカタという白いスカーフを括り付けて旅の安全と良い天候を願った。透き通るような真っ青の空に五色のタルチョと純白のカタがはためく。ヒマラヤの山間を吹き抜ける風で踊る無数の布はここを通った人々の祈りの痕跡だ。ある人は私のように楽しく観光して帰るだろうし、またある人はエベレスト登頂を目指し、再びこの橋を通れなかった人も大勢いるのだろう。
キツイ登山道では世界中から来たトレッカー達とおしゃべりして励まし合いながら登るのがイチバンだ。そんな中の1人にひょろっと背の高い若いフランス人の女性がいた。彼女の夫は昨年ローツェというエベレストの南にある標高8516mの山に挑戦し、そのまま帰らぬ人となった。世界第4位の標高を誇るこの山の東峰、シャール峰にアタック途中だった。地上の3分の1の酸素濃度という気薄な空気に加え、非常に急峻で、高度な登山技術が要求される想像を絶するような厳しい環境。今回彼女は夫が最後に賭けた山を目指し、鎮魂の旅をしていると言った。愛する家族が命を落とした危険な場所に、私だったら向かえるだろうか。気丈そうな彼女はその長い脚でスタスタと私を追い越して行った。
100キロ近い荷物を運ぶポーターや、ラバの隊列が次々に私を追い抜かしてゆく。狭い山道なので、ラバやジョッキョの群れが通る際は、崖にはりついて彼らが通り過ぎるのを待たなければならない。カランコロンという鈴と、ポクポクという蹄の音が山々に木霊して、あぁヒマラヤにいるのだと旅情を誘われる。ひっきりなしにオナラをするラバの強烈な臭いには閉口したけれど。
眼下には現地の言葉で“ミルク川”という名の付いたドゥードゥ・コシ川が轟々と音をたてながら流れている。でも川の色はミルクというより、薄緑色に白濁してミント味のアイスクリームみたい。毎年雨季になると橋や民家が流されるようで、その残骸があちこちに放ったらかされていた。
コンデリ山が夕陽に染まる頃、標高3440メートルのナムチェ・バザールに到着。突然開けた大パノラマ。壮大な山々に囲まれた、すり鉢状の土地にトレッカー達の宿や登山グッズの店やお洒落なカフェなどが折り重なるようにして建っている。大自然の中を這うように登ってきたので、突如現れた都会に少々困惑しながらも、今晩お世話になるヒマラヤン・シェルパ・ロッジに辿り着き、熱いチャをいただいた。ロッジは普通ゲスト用のダイニングとネパール人のガイドとポーター用のダイニングとで分かれているのだが、私はいつもネパリ席でご飯を食べたり、ゆっくりと過ごすことにしていた。ネパール語が話せることと、顔がシェルパ族にそっくりなので、ずいぶん得をしていたように思う。ネパリ席で見られる彼らの気取らない態度がたまらなく愛おしかった。歌って、踊って、下ネタ飛ばして、お酒を煽って、どんどん勧められて、高山病対策で控えようと思っていたのに、結局彼らと一緒にドンチャン騒ぎ。最後にみんなで大盛りのダルバートを手で捏ねくり回しながらお腹いっぱい食べて、満天の星空を眺め「明日は晴れるね〜」なんて言ったりして。寝袋やダウンジャケットやあらゆる防寒具で身を固め、ごろりと雑魚寝。こうしてヒマラヤの夜はふけてゆく。
翌朝、寒さで身震いしながらダイニングへ向かうと、パサンさんが何やら茶色いモチモチした物をお椀で混ぜて食べていた。
「パサンさん、おはようございます! 今日も本当にいい天気ですね。ところで何食べてるんですか?」
「おはよう! あぁこれ? これはツァンパですよ。麦とヤクバターとお湯と砂糖や塩を混ぜてこのようにお粥にして食べるんです。チベット系民族のソウルフードですね」
「へぇ! なんだか粘土みたいだけど、面白いですね。私も頼んでみます」
「なら是非バター茶も飲んでみて下さい。チベット人の心ですから」
麦にヤクのバターとお湯を入れてモッチャモッチャと練る。さらに塩と砂糖を加えモッチャモッチャ。スプーンで口に運んでみると、
「おぉ、意外といける! 見た目はイマイチだけど、腹持ちも良さそう!」
「ツァンパは持ち運ぶのにも便利だし、保存食になる。バターやお湯の量を調節してお粥のようにしたり団子のようにしたりして食べるんです。このお粥の状態だと私達はチョムドルと呼んでいます」
「へー、色んな呼び方があるんですね!」
「バター茶も飲んでみて下さいね。好き嫌いが分かれると思いますが」
「うわぁ! コンソメスープみたいな味だ! イメージしていたお茶ではないけれど、美味しいです!」
周りにいたガイドやポーター達もニヤニヤしながら私のチベット文化体験を見守っている。
「タンブー?(お元気ですか?)」
と覚えたばかりのシェルパ語で周りに話しかけてみる。元気だよ、ありがとね! なんて笑顔で答えてくれるシェルパの皆んなが私はすっかり大好きになっていた。
出発前にナムチェ名物の天空市場を冷やかしに行く。ここから山ひとつふたつ離れた所からも人が来るような大きなマルシェだ。攻撃的な紫外線が降り注ぎ、あわててサングラスをかけた。色とりどりのフルーツや野菜、クルサニと呼ばれる鮮やかな赤や緑の唐辛子の山。ヤク一頭分の巨大な肉の吊るし売り。石鹸や靴下、鍋などの生活用品も所狭しと並べられている。パサンさんと私はみかんを袋いっぱい買った。店主のオッチャンと値段交渉しつつ、悪くなったものがないか一つ一つ確認しながら袋詰めしてゆく。それからアンバンという梨のようなパッションフルーツのような不思議なフルーツも。みかんとアンバンをホテルの人にお裾分けし、絵のプレゼントもした。みんな満面の笑顔だ! やっぱり絵の力は凄いなぁ。描き上がった絵とともに記念撮影をし、素晴らしい天気の中、軽快にロッジを後にしたのだった。
道中、鹿や野生のジョッキョ、キジやオナガ、リスも姿を見せてくれた。黄色や青の色鮮やかな鳥や高山カラスも元気そうだ。このカラス、なんと標高5300メートルもあるエベレストベースキャンプでも問題なく活動出来て、エベレスト遠征隊の食料を盗むのだそうだ。なるべく荷物を軽く、日々の食料も計算して持ってきた遠征隊の人にしてみればとんでもなく困った存在なんじゃなかろうか。
そしてこの日、初めて“世界の屋根”エベレストを拝むことが出来た。世界一高い山なんていうから、私はすっかり富士山の縦長〜い版みたいな山を想像していたけれど、実際は山脈の中の一地点がエベレストなんですね。測るとここが地上で最も宇宙に近い所になるみたい。なんだかちょっと拍子抜けしちゃう。逆にエベレストの手前に見えるアマダブラムと言う山の凛とした立ち姿がカッコよくて惚れ惚れした。アマダブラムとはシェルパ語で“母の首飾り”という意味で、まるで母と子が寄り添っているように見えることからこの名がついたそうだ。6812メートルの切り立った山肌と稜線が人を寄せ付けない緊張感を漂わせる。
そんなルンルン気分で登山を楽しんでいたのに、この直後、あんなことになるなんて… 。お昼休憩後、何故か急に左膝に激痛が走り、すっかり機能しなくなってしまった。さっきまでの快調な歩きは何だったんだよと自分でもツッコミを入れたくなるが、もうどんな景色も楽しめない。膝が少しも曲がらないのだ。痛みに顔を歪めつつ、歩みはとんでもなくスローになった。ジョッキョを避けるのも一苦労。心の中で“オンマニペメフン”とチベットマントラを何度も唱える。パサンさんのストックを貸してもらい、松葉杖のようにして山登りと山下りを繰り返した。まだ旅は始まったばかりだっていうのに。やっとのことで目的地プンギタンラに到着し、ベニヤで出来た川沿いの掘っ建て小屋に倒れ込んた。弱った膝にギシギシと寒さが染み込んでくるようだ。宿のお兄さんがストーブに松ぼっくりで火を付けてくれた。薪は貴重品でなるべく節約しているとのこと。聞けばネパールでは今、薪不足が深刻な問題になっているそうだ。まだ多くの家が薪ストーブや薪で火を起こし料理をしているのだが、森林伐採のスピードがあまりにも早く、植林の観念が無いことから急速に森が消えているのだ。また平地の少ないネパールでは次々と段々畑を切り開いているので、その度に木々が姿を消している。山道を歩いていても山肌が見えて禿山になっている所がいくつも見受けられた。その結果、生活必需品の薪の値段は近年爆発的に高騰して人々の生活を苦しめている。
同じ山小屋に宿泊していたイギリス人のアラムとドイツ人のティモが痛み止めを分けてくれた。人の優しさにジワーッと心が溶かされてゆく。ここには高山病になり下山してきたスペイン人の女性もいた。高山病も最初は吐き気や頭痛程度で、少し休めば順応出来る場合が多いのだが、ひどくなってくると心臓に異常な負担がかかり、目が充血して真っ赤に大きく腫れ上がり、パサンさん曰く、落っこちそうになるそうだ。おぉ、怖!
幸い内臓系はすこぶる元気だったので、夕飯のチャーハンに青唐辛子とヤクのチーズをたっぷりとかけてモリモリ食べた。電気も通っていないのでストーブとランプの明かりだけで外も中も真っ暗だ。
「ズーン ラギョ〜(月が出たねぇ)」
なんて言って青白い月が川面に映るのを眺めながら眠りについた。
ぎゃー! 寒い〜! あまりの寒さで目が覚めた。ベニヤ板で出来た掘っ建て小屋の隙間という隙間から早朝の冷たい風がビュウビュウ吹き込んでくる。布団の中で呼吸をしてもふぁーっと白い息が出た、なんてこった! あぁ私はこんなにも右往左往としているのに、今日も変わらず凛と美しいヒマラヤ。膝は相変わらずズキズキと疼く。さて、どうしよう? と、そこへ屈強なシェルパ族のお兄さんが一案を思いついた。
「ばぁちゃんが愛用している痛み止めをつけるといいよ! こいつぁ効果テキメンさ! なんたって標高4500メートル以上のヒマラヤにしかない高山薬草を調合してつくったスペシャルブレンドなんだから。おーい! ばあちゃん、あれ持ってきてよ」
ガラスの小瓶を持った小さなお婆ちゃんが奥の台所からゆっくりと出てくる。
「痛みの原因があるところがね、赤くなるから。そうしたら痛みが表面に浮き上がってきた証拠なんだよ。ここにしかない貴重な薬さ」
そう言ってお婆ちゃんが私の膝に薬を数滴垂らし、手で揉み込みながらモニョモニョと呪文(お経か何かだったのかしら)を唱え始めた。
「ギエーッ!!! 痛っったーーーっっ!!!!!」
あまりの刺激に涙がボロボロと落っこちて止まらない。膝全体が真っ赤に腫れ上がっていく。痛みと薬の刺激とお婆ちゃんの謎の呪文に混乱しながらも、会ったばかりの私に対する親切心だけは凄く伝わってきて、心はほんとうに救われた。みんな、ありがとう! 正直痛みが取れたようには思わないけど、ええい、ままよ! とにかく出発してしまえ〜! と杖をついて歩き出したのだった。“馬の鞍山”や、“鳥のクチバシ山”や“ヤクの小山村”というユニークな名前の土地をゆっくりゆっくりと通り過ぎてゆく。晴れてはいるが、珍しく早い時間から雲が出ていた。雪山の白と太陽光で目の奥がチリチリする。グミやシャクナゲの木が茂り、見たことのない植物を観察しながら一歩一歩慎重に進む。背中が青くてお腹が白い鳥がスーッと頭上をかすめていった。毛足が長く、立派な角を持つヤクの群れともすれ違う。ヤクは私が今までの人生で見てきた中で最もカッコイイ動物かもしれない。
そして、ついに憧れのタンボチェ僧院に到着した。標高3867メートル。粉雪が舞う、冬の始まりにあたるこの季節。天界に迷い込んだかのような圧倒的異界感。360度見渡す限りそそり立つ山、山、山。そして遥かに臨むエベレスト! 眺めていると山がぐんぐんこちらに迫ってきて、そのまま後ろにひっくり返ってしまいそうな感覚に陥る。タンボチェの“タン”とはシェルパ語で“背伸び”という意味だそう。昔々ここへ飛んで来た神様が背伸びしてこの地を見て、ここにお寺を作ろうかな~と思ったからだそうな。思いのほかかわいい由来なのね。タンボチェの山小屋は満室だったので、ストック2本を松葉杖にして、25分程急な山道を下ったディブチェの宿で、辿り着けた喜びを噛み締めながら夜を明かした。
カランコロンという澄んだ鈴の音。うーんと伸びをしてカーテンを開ける。室内ではく息はやっぱり真っ白。寝ている間に帽子が脱げていたようでズキズキと頭痛がする。客室がいっぱいで物置小屋に泊めさせてもらっていたので、格安で泊まることが出来て大満足だ。そんな私を見て、
「あんた、根性あるねぇ。ネパール人なんじゃないの?」
と宿のお姉さん。さばさばしていて素敵な方だった。さて、ロッジを出てディブチェから再びダンボチェへと向かう。昼の間人や動物が歩いてぬかるんだ道が凍り、ボコボコの足跡がツルツルになって非常に歩き辛い。ふと視線をあげると坂の途中からエベレストがスッキリと見えた。
「今がチャンスですよ! 見えているうちに写真を撮っておきましょう」
とパサンさん。
「え、でもあと10分歩けばタンボチェに着くじゃないですか。やったー! 登頂したー! って写真撮りましょうよ」
「山の天気は1分1秒刻々と変わっていくんです。まあ悪いこと言わないので1枚記念に撮っておきましょう」
カシャリ。そのほんの数分後、タンボチェの頂上に着く前には雲が出てきてエベレストはすっかり姿を隠してしまった。写真を撮っておいて良かった。その日はもう本当に完璧な朝だった。そこかしこに落ちているヤクのフンは霜でキラキラと輝き宝石のようだし、空は透き通るように青く深く、静寂につつまれた、宇宙と地上の調和がとれた朝。スケッチブックを開き、この調和を乱さぬよう、そっと筆を走らせた。気がつくと日差しが出てきて、みるみるうちに気温が上昇していきた。真っさらなスケッチブックが光を反射し、目を刺す。よほど集中していたのだろう、顔の横に何やら生温かい気配を感じ、振り向くとぬ〜っと大きな動物が私の絵を覗き込んでいる!「うわぁ、ジョ、ジョッキョ⁉」ほんとうに心臓が止まるかと思ったけど、私のスケッチを見て楽しんでくれていたのなら画家冥利に尽きるというもんです。
次回、いよいよシェルパ族の祭り“マニリンドゥ”に潜入! そこで私はまさかの神の使いっ走りとして一躍注目を浴びることとなるのだが…!? この話はまた今度。乞うご期待。
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