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魚仏誕生—アジアの祈りを描く旅 第2回

彩蘭弥 


 

命の恩人に仏画を描く



 私が初めて仏画を描いたのは、ラオスの貧しい青年とのひょんな出会いからだった。



 象の親子が気持ち良さそうに水浴びをしている。


 さっきまで1時間も壊れて動かなかったモーターボートのエンジンはまだ調子が悪そうで、ゴポゴポと呻きながら川を進んでいた。その振動がお尻に伝わってきてむず痒い。モン族の家族が板切れのような船に乗り、川海苔を取っているのを横目にナムウー川を北上する。コバルトブルーの空には眩しいくらいの入道雲。オリーブグリーン色の水面に純白の雲が映り込んでキラキラと輝いた。頬にあたる風が心地よく、行く手には巨大な生き物のような黒々とした奇岩が林立していた。


 ここはラオスで2番目に大きな川、ナムウー川の上。黄金の宗教都市ルアンパバーンからノーンキャウという小さな村へ。ノーンキャウで数日過ごし、日本の原風景のようなのどかな風景をスケッチブックに収め、そこから更に川を北上し、今はムアンゴイという小さな集落を目指しているところだ。川の左右にそそり立つ断崖絶壁に思わず息を呑む。川幅の広いナムウー川だが、時折急に狭くなる所があり、渓谷に押し潰されてしまうのではないかとヒヤヒヤした。ポンコツボートは不規則に振動しながらも、ぬかるんだ船着場に到着。もしや到着出来ないのではないかと心配したけれど、何とか無事に到着した。やれやれ。辿り着いたのは土の一本道の両脇に、家や店が少しあるばかりのこじんまりとした集落。5分も歩けばメインストリートは全て見て回れる。一本道の突き当り正面にぬうっと大きくて真っ黒い山が聳えたち、村を強く印象付けていた。道端の七輪で川魚を焼いていて、香ばしい匂いが漂ってくる。こまかな文様の入った巻きスカート風の民族衣装に身を包んだオバちゃんと、匂いに誘われて群がる裸足の子供と鶏たち。道端に出した鉄板でクレープのようなものを伸ばしているお姉さん。オヤジさん達はのんびりタバコをふかして何をするでもなさそうにしゃがみ込んでいる。静かで、奇岩のある川岸の集落。なんて絵になるんだろう! 私はすぐにここが気に入って何泊かすることにした。さっそくスケッチブックと、手製の43色入り水彩パレットを片手に、落ち着いて絵が描けそうな場所を探す。川辺で1枚描き終えて、別の場所を描こうと林の中に足を踏み入れようとしたその時、

「危ないっ!!」

突然後ろから強く腕を引かれる。

「えっ!! 何!?」

浅黒い肌の青年が怖い顔をして立っていた。

「なんて所に入ろうとするんだ。この林の中は地雷だらけだ。死にたいのか!!」

 

 そう、この時身をもって知ったのだけれど、ラオスにはベトナム戦争の時に埋められた地雷がまだまだ残っていて、今でも誤って地雷を踏んで手足を無くしたり、命を落とす人があとを絶たないという。村の周辺には洞窟が点在し、戦争時には防空壕として活用されたのだそうだ。


 この、やや面長のラオス人の青年はサイと名乗った。田舎のヤンキーといった感じの出で立ちで、ロゴの入った革ジャン風の上着を着ている。もう日も暮れかかっていて、絵は描けないし、彼と共に地元の食堂で一緒に夕飯を食べることにした。


 氷の入ったグラスにビア・ラーオがシュワシュワと注がれる。竹で編んだ小さなおひつにカオ・ニャオという餅米が入っていて、酸っぱ辛い鶏肉のミンチと一緒に手で練って口に運んだ。噛むほどにレモンやライム、レモングラス、香草などの香りがすわーっと鼻に抜ける。


「さっきはごめんなさい。何も知らなくて、あの林の向こうの景色が描きたかっただけなの」

「え、君絵が描けるの!?」

「うん、私日本で絵描きをやってるんだよ」

「あぁ、やっと巡り合えた! 僕の願いを聞いて欲しいんだ!!」


 そう言って彼は自分の悩みについて話し始めた。サイの家は敬虔な上座部仏教徒の家だった。サイの家だけではない。ラオスは国教として仏教を厚く信仰し、ルアンパバーンの町では右を向いても左を向いても黄金色のお寺ばかり。男子の多くは本格的に僧侶にならずとも、一定期間は出家するものらしく、オレンジ色の袈裟を着た、お坊さん達のながーい早朝の托鉢の列は、世界中の旅行客、とりわけ写真愛好家たちに絶大な人気があった。私も古都ルアンパバーンに1週間ほど滞在し、美しいお寺や仏塔などを描き、ラオスの人々は生活と祈りが密接に結びついているんだなぁと感心していた。そんな国の北の外れの小さな集落で生まれ育ったサイ。貧しいながらもラオス和紙を加工し、何とか生計をたてていた彼なのだが、このところずっと悪夢を見続けるのだという。聞けばこの悪夢の原因は、家に仏画が無いからだと分かったんだ! と彼は確信を持って言うのだ。けれどお金が無くて、遠い町まで出て仏画を買うことも叶わない。


「頼む! 何日かかっても構わない。僕の家に来て、ブッダフェイスの絵を描いてくれ!」


 これは大変なことになった。普通の絵なら喜んで描くけれど、仏教徒でもない私が、仏のお慈悲にすがるブッディストの為に仏画を描くなんて荷が重すぎる。第一、仏の絵など一度も描いたことがないのだから。目の前には真剣な眼差しでこちらを真っ直ぐに見つめるひとりの青年。私は、この命の恩人のお願いを断る事が出来なかった。


 次の日から早速制作に取りかかった。サイがいつも使っているラオス和紙に、大きく金色の仏の顔を描くことで話は決まり。サイズは縦約90cm、横約60cmくらいでかなり立派だ。この紙に、私が持って来ていた水彩絵の具をたっぷり使って描く。鉛筆で大まかなアタリを付けて、その後は絵の具を塗り込めていった。朝から晩まで金ピカの仏の顔と向き合うこと数日。慈悲深い、悪夢から救ってくれそうなお顔ってどんな顔だ!? あーでもない、こーでもないと格闘するうちに、噂を聞きつけた村人達が制作現場を見に集まって来るようになった。観光していただけの頃は相手にしてくれなかった村人達が、仏と対してウンウン唸っている私を見て、毎日沢山の差し入れを持って来てくれるようになったのだ。軽く手を合わせられることもあり、慌てて私も合掌してペコペコしたり。中には何時間も隣に座り続け、じーっと画面を凝視していく人もいた。私をからかいに来る若者連中もいる。子供達は勝手に私の画材で遊ぶようになっていた。サイの弟も時々覗きにやって来た。彼は地雷で右腕を失っていた。


 数日後、ついに絵は完成した。ちゃんとした仏画という訳にはいかないけれど、初めてにしては上出来なんじゃないかと我ながら思う。


「サイ、気に入ってもらえるか分からないけど、ベストを尽くしたよ。この絵をプレゼントするね」

「本当に君は最高だね、枕元の壁に飾るよ。これでやっと救われた、大事にする」

そう言ってサイはそっと絵を受け取った。


 この一見チャラいお兄さんの篤い信仰心に、私は心打たれた。仏を描いた事で急速に距離が縮まった村人達の信仰心にも。この一体感はなんなんだろう。私たちは同じ仏の子、家族であるというような安心感。ムアンゴイの村とお別れし、川を南下してルアンパバーンに戻った時、人々の祈りが、今までに無くリアルに感じられた。


 私はこの旅を、縦162cm、横130cmの絵にした。私が旅で出会った人や見た光景を1枚の画面にギュギュっと詰め込み、見て下さる人が私の旅を追体験して一緒に旅しているかのような感覚にさせる絵に。旅は画面下方から始まる。ルアンパバーンの朝市を物色し、トゥクトゥクというオート三輪の走る通りを抜けて、青い滝で白人観光客が水浴びする様子や、象乗り体験で遊ぶ人を横目に川を北上して行く。画面の上半分には昔ながらの田園風景が広がり、田植えをする人や水牛に出会うことになる。左上にはひしひしと中国がラオスの川や森を壊してゆく様子を描き、右上には地雷処理をする人を描いた。どれも実際に私が見たものばかり。ラオスでは、楽しい風景も、残酷な現実も、この国で起こる全ての事を仏さまの慈悲が大きく包み込んでいるように感じた。それは、私が出会ったどのラオス人もみな祈っていたからなのだと思う。仏さまの慈悲にどっぷりと浸かったこの国の黄金色の空気と、祈るだけではどうにもなりそうにない悲しみを、この絵で表現した。




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