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魚仏誕生—アジアの祈りを描く旅 第16回

彩蘭弥 


「宇宙にもっとも近い深海」後編


 ついに、夢にまで見た“幻の都ローマンタン”の門をくぐる。足元には相棒の黒い犬。眩しい朝日に照らされながらツァランを出発し、荒野を5,6時間ほどひたすら歩いた。

 「ツァランからはほんの目と鼻の先! 近所さ!」

と聞いていたのでここまでの厳しい道のりを思うと恨めしい気持ちも多少あるが、何にせよ生きてここまで歩いて辿り着いたのだ。仏教五色の聖なる旗、タルチョのはためく門を抜けた。真冬のオフシーズンである。アッパームスタンの都とは言え人の気配が感じられない。ひとまず数少ない宿をあたり、宿泊の許可を得た。

 

 ローマンタン、ネパールの中にかつて存在したムスタン王国の首都。標高3,760mの城郭都市で、周囲1km、高さ11m〜15mの塀で囲まれている。チベット語で、「薬草の豊かな町」という意味の人口数百人の小さな都である。チベットの岩塩をインドへ運ぶ「塩の道」の中継地点として栄え、今でも中国と国境を接している。ぼんやり散歩していたら村人に呼び止められた。 

 「君、あの丘のテッペンに小さな小屋が見えるかい? あれは国境付近の中国政府の見張り台さ。あそこに近づけば問答無用で射殺されるから気をつけな!」

 やれやれ、あまり端の方を歩くのは賢明ではなさそうだ。

 

 閑散期に来てむしろ良かった。1人ゆっくりと細密なチベット壁画の美しい僧院を見学したり、かつてこの地域を支配していた王の王宮広場で地元の仏画師とチャイを飲みながら絵の話をすることも出来た。宿に帰り、ヤクの糞を固めて乾燥させたものを燃料に火を起こす。火元はここ1箇所のみ。この火を使い、オーナーさんがモチモチの刀削麺を作って下さった。ヤク肉の出汁の効いたスープの野趣溢れる香りが口いっぱいに広がる。電波塔は凍て付いていて電波は届かない。水道管も凍っているので水洗トイレは使えず、極寒のボットン便所で踏ん張るより他ない。自室に戻りそそくさと毛布にくるまり、そのまま泥のように眠りについた。

 

 ローマンタンには三日間滞在した。中でも印象深かったのが“ジョン・ケイブ”である。作曲家でもなければ、西部劇の俳優でもない。約二千年前に人が暮らしていた天然の洞窟群のことだ。ローマンタンから馬の背に跨り、1時間ほど経った頃、突如として巨大な一枚岩の岩壁が眼前に聳え立った。砦のようにも見えるそれに目を凝らすと黒い小さな点が見える。古代人が使っていた窓の跡なのだろうか。どこまでも続く乾燥した黄土色の大地と時折起こる砂嵐、吸い込まれそうなほどに深い群青の空と刺すような太陽光、そして吹き荒ぶヒマラヤの寒風に、自分の目や肌や髪や、手足が悲鳴を上げているのが分かる。それでも心は未だかつて無いほど大きく、自由に大空に解き放たれているような感覚がした。

 洞窟の入り口にはハシゴが架けられており、よじ登って中に入ってみる。気分はインディ・ジョーンズだ。洞窟内部は無数の部屋があり、アリの巣のようにどこまでも広がっていた。標高が4000m近くある上に、天井が低く閉塞的な空間で屈んで進まなければならず、はぁはぁと息が切れる。元は自然の洞窟だが、約2000年前に人が住み着き、人口的に穴を広げて住居として活用していたそうで、煮炊きの跡やトイレなど色々な痕跡が見られた。真っ暗な洞窟内部から小さな窓を通じて外の世界を覗いてみた。大空をハゲワシが旋回している。昨晩村人と死について語り合った記憶が蘇った。彼らは人間を「空気・火・土地・水」の四つの構成要素からなり、それぞれに神がいると考えているそうだ。このうちどれかが欠けたら死ぬらしい。その中でハゲワシは空気を司る神であり、死んだら彼に体を食べてもらい、御霊を天に帰してもらうのだと言う。あのハゲワシも何かの命を天に届けるお勤めを果たしている最中なのだろうか。二千年前に生きた人々と、いつか同じ場所へ帰る自分を重ね、天高く昇ってゆくハゲワシを見送った。

 

 ローマンタンへ帰り、仲良くなった村人に案内してもらって、旧市街の伝統的な家にお邪魔することにした。彼の実家は土で出来た二階建てで、一階は牛や馬の小屋、二階が人間の部屋になっていた。年老いた母が1人で暮らしているが、今は冬で山を下りているため、家主はいない。息子である彼が、毎日来て動物たちの世話をしているようだ。入り口にはヤクの骨に糸やお札を絡ませた魔除けが飾られている。祈りの部屋に通され、バターの灯明に火を灯し、お線香を立てた。土のひんやりとした感触が伝わってくる。彼は急速に進むローマンタンの過疎化についてポツリポツリと話し出した。

 「立派な家が多いように見えるだろうが、そのほとんどが空き家なんだよ。本当は長男が家を継ぎ、次男が僧侶になってお祈り部屋の管理や僧院の仕事をする伝統があるんだけどね、若い世代はそれに耐えられないのさ。みんなカトマンドゥやヨーロッパなんかに働きに出てしまったよ」

 実際、近年の地震で多くの土製の家は崩れ、老朽化しているのだなと見て分かった。

「屋上へ行きましょう」

と彼が言った。ちょうど遠くの山に日が沈もうとしている。迷路のように入り組んだローマンタンの旧市街を見渡すことが出来た。どこからともなく人々がマニ車を手に家から出てきた。夕暮れ時の祈りの時間だ。城壁に沿って右回りに回りながらお経を唱え始める。あちこちでマニ車の鈴の音が静かな村に響いていた。あぁ、ここは町全体が大きな祈りの場なのだ。

 

 現在、町の一部を通る形で、中国からインドまでの巨大な高速道路を建設中だ。近くの山も丸々中国に買われている。静かな祈りに満ちた幻の都は、数年以内に本当に幻になってしまうのかもしれない。

 

 私は澄んだ空気を胸いっぱい吸い込み、彼らと共にマントラを唱えて合掌した。



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