彩蘭弥
ルーツをめぐる旅 in 台湾・美濃
2018年、94歳の祖父が亡くなって、様々な遺品が出てきたが、その中でも最も衝撃的だったのは家系図だ。私の祖父は台湾人で、その中でも客家族という民族だということだけは朧げに知っていた。祖父は生前あまり生まれ故郷である台湾の話を私にはしなかった。彼が元気な頃は私が幼なすぎたし、後年は認知症もあり、私もあえて昔話を聞こうとはしなかった。そんな謎に満ちた祖父の名前が書かれた家系図が偶然にも私の手に渡った。それによれば私は“呉”という一族の第125代に当たるそうなのだ。あまりにも前まで遡れるので、最初は冗談なのではないかと思うほどだったが、興味を持って本を読んだり客家(はっか)の文化を調べてゆくうちに、詳細な家系図を残したり、血縁を非常に大事にする民族なのだという事が分かり、信憑性が増してきた。よし、ならば台湾へ行って実際に調べてみよう!そう決意したのが2020年。しかし、その決意も虚しくコロナの蔓延によって海外渡航は諦めざるを得なかった。コロナ禍で外出が制限される中、それならば中国語を勉強しようと色々な台湾のYouTubeやドラマを観始め、なんとかヘッポコな日常会話が話せるようにまでなった。その副産物と言うべきか、今では中華系留学生の為の美術予備校で教鞭を取るまでになり、これならばもう台湾へ行っても大丈夫なのではないか?と自信がついた頃、やっとコロナが明けた。満を持しての台湾行きだ!
事前に親戚のおじさんのFacebookページを見つけていたので、Messengerでのやりとりを何度か試みたが上手くいかず、もう現地でどうにかしよう!と飛行機に飛び乗った。結論から言えば、その唯一繋がった親戚とはとても煩雑なルートを辿ってなんとか連絡が取れた。私は祖父の生まれた築100年以上になる生家を訪ねる事を目標にしていたので、あわよくばその親戚に連れて行ってもらいたいと考えていたのだが、様々な理由から断念。代わりに住所を教えて欲しいと尋ねたところ、彼からの返事は
「美濃という村に農協があってな、その道挟んだあっち側さっ!」
という、なんともざっくり過ぎるものだった。やれやれ、こりゃあ大変な旅になりそうだ。この情報を頼りに、私は台湾人の友人家族に全面協力してもらい、聞き込み調査とGoogle MAPを駆使して、なんとかこの家だろうという場所を探し当てた。
ここで、祖父の生まれ育った美濃という土地と客家族について少しだけ触れてみるとしよう。台湾の南部の都市、高雄の高速鉄道左営駅からバスに揺られること1時間。高雄市郊外に位置する美濃は、中国大陸から渡ってきた客家の人々が多く暮らす伝統的な客家の郷だ。人口約3万7千人。日本の岐阜にも美濃市という土地があるが、ここでは中国語の発音で「メイノン」と呼ばれている。山に囲まれた緑豊かな農業地帯として知られ、最近はその素朴な風情や、客家族の伝統的な暮らしぶりを求めて観光客も増えているそうだ。私の見たところ、とにかく広大な平野が広がっていて、マンゴーや椰子の木、サトウキビなど南国らしい植物が生え、水田の景色の中にぽつんぽつんと民家があるような印象を受けた。古くはさとうきびの栽培などが行なわれていたが、日本統治時代に灌漑用水路が整備されてからは稲作が盛んになり、同時に、タバコや野菜などの栽培が奨励されるようになった。今では黄色いミニトマトが名産品らしく “トマトの収穫体験できます” という看板をちらほら目にした。
客家族は中国大陸南部の福建省などから台湾に渡ってきた民族で、美濃の他にも台湾北部の新竹(しんちく)などにも多く暮らしている。彼らは独特な客家語という言語を話し、自己流で北京語を勉強した私など全く歯が立たない。とても興味深いが、今回は勉強する時間は無いので、音やリズムのイメージに慣れるにとどめることにした。漢族の友達に言わせれば、客家族は金儲けがうまい印象があるとのことだ。勤勉で非常に頭が良いが、裏を返せば金にがめついとか、ずる賢いとかそんなイメージも持たれているようである。調べると客家族は東洋のユダヤ人とも呼ばれ、安住の土地に恵まれなかった民族同士、強く生き抜かなければならなかった、やむにやまれぬ背景があるようだ。その他、油紙傘という美しい文様の施された唐傘が有名だったり、独特な食文化や信仰などが形成されており、どこまでも魅力的な民族だということが分かった。
さて、大変な思いをして祖父の生家を発見した時点へ話を戻そう。コの字型の客家の伝統的な家の造り、わずかに残った大ぶりのレンガの壁、独特な瓦葺きの屋根。祖父の遺品整理で発見した古い写真に映っている賑やかな頃の家の面影がありながらも、そこはもう誰も住んでおらず、屋根が飛び、レンガの剥がれたボロボロの廃墟となっていた。ここにはまだ人が居る、遠い親戚についに会えるのだと期待に胸膨らませていた分、落胆は大きかった。スマホにかつての写真のデータを入れて来ていたので、何度も見比べてみたが、やはりここのようだ。当時の有名な画家が繰り返し描きに来たという村一番の立派な家は、もう見る影もない。しかし、多くの人の協力を得て、やっとここまで辿り着いたのだ。そのことに感謝し、気持ちを切り替えた。どうせ打ち捨てられた廃墟なのだ。私は生い茂るバナナを掻き分けてその家に入ってみることにした。これは不法侵入にあたるのだろうか、いや、帰省と言い張ればなんとかなるかしら。家の中は家財がそのまま放置されていて、乱暴な空き巣に入られたのではないかと思うような荒れようだった。きっと物をそのままにして、管理もしなかったので、台湾特有の強い台風によってグチャグチャになってしまったのだろう。遺品の写真には、家族団欒の場面が沢山写されていたので、懐かしいような切ないような、でも、遺跡を発見した探検家のような興奮もあり、複雑な気持ちがした。所々に見え隠れするかつての暮らし。鮮やかな水色の台湾マジョリカタイルや、客家族の伝統的な編み椅子、親族の医師免許取得を称える大きな祝い額(祖父を含め、この一族は皆医者である)。そして家の最も大切な中央部分には先祖を祀る祭壇が設けられており、長年お線香をあげ続けたのだろう、真っ黒に煤けている部分などが見てとれた。100年の内に増改築が繰り返され、もっとも美しかった時の面影はもう無いが、南国の風吹き抜けるこの立派な古民家は、間違いなく私の台湾の実家と思える場所だった。滞在時間は短く、最後はどこからか入って来た黒い野犬に吠え立てられ、逃げるようにして家を後にした。
前述のとおり祖父は医者で心臓医だったが、趣味で多くの絵を残した。そのうち美濃で描かれたものを幾つか発見し、描かれた絵と同じアングルを探して今度は美濃の村のあちこちを巡った。高雄で二番目に大きく、南国情緒溢れるのんびりとした風情の美濃湖。文字を重んじる客家族の習慣で、文字が書かれた不要な紙を焼却処分するための特別な炉である、敬字亭(ジンジーティン)。清代の1755年に建てられたと伝わる、反り返った屋根が美しい美濃のランドマーク、東門楼。そしてお昼ご飯に有名な刀削麺や、ピーナッツ粉のお餅などをいただいた。客家料理には高頻度でピーナッツが登場するようで、やたらとピーナッツ好きだった祖父の好みに今になって合点がいったりする。2月だというのに30度以上ある南国の農村の景色を、体も心も自由だった頃の祖父に想いを馳せながら、目に焼き付けていった。
今回の旅では祖父の生家を初めて訪ね、客家文化の表層を知るに留まった。美濃の村へ辿り着くまでに必要な切符は中国語だったが、ここから先、さらに客家の世界に深く入り込むには客家語が必要になってくるかもしれない。また、親戚を通じて今度は墓参りや一族の行事に参加できないかと画策しているところだ。いつかは福建省にまで行き、伝統的な円楼などをこの目で見てみたいが、それはまだ少し先になりそうだ。私のファミリーヒストリーは始まったばかり。
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