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魚仏誕生—アジアの祈りを描く旅 第11回

彩蘭弥 


西陣のチベット 


 ヒマラヤチベット圏から帰国してすぐに銀座で個展を開き、休む間も無く京の都へと再び修業の旅に出た。奈良や京都はシルクロードの終着点だと言われるくらい、実は大陸の文化と深い関係にある。今度は自分の国の事を学びたいと思った。


 京都では水墨画の先生と仏画の先生にそれぞれ師事し、かけがえのない豊かな時間を過ごしたが、そのお話はまた別の機会に。今回は高級絹織物で有名な、西陣でのお話。


 京都の洛北、千本通沿いに石像寺と呼ばれるお寺がある。通称〝釘抜地蔵〟。私はこのこじんまりとしたお寺に、なんだか心惹かれるのだ。もともと船岡山から紙屋川あたりのこの地域は蓮台野と呼ばれ、鳥辺野、化野と並んで平安時代に風葬の行われていたところだった。平安時代は仏教の影響で身分の高い人物は火葬を行っていたが、火葬には木材が必要で、庶民の遺体は洛外へ運び出し、埋葬せずに風にさらし風化を待つ風葬や鳥葬が一般的だったそうだ。ちなみにチベットの鳥葬も輪廻の考えに基づいた天へのお布施なんて言うけれど、地盤が固すぎて土葬出来ないことからやむを得ずあのような形になったというのも大きな理由のようだ。千本通はその蓮台野へ死者を運ぶ道だった。


 千本通を上ると、船岡山の手前に閻魔前町という地域がある。これは閻魔様の住む場所としてつけられた地名で、閻魔前町にはあの世に通じる出入口があるのだそうだ。ここに引接寺、通称千本ゑんま堂がある。ご本尊の閻魔大王像は大迫力。大きく口を開け、目を釣り上げた怒りの表情で見るものを圧倒する。


 さて、千本ゑんま堂をさらに南下するとひっそりと石像寺が現れた。入り口が地味なので、うっかりすると通り過ぎてしまいそうになる。狭い参道を進むと、大きな釘抜きのオブジェと、「釘抜地蔵尊」と書かれた沢山の赤提灯が目に飛び込んできた。西陣の町中に突如として現れた異空間にドキドキしながら本堂へと進むと、おびただしい数の釘と釘抜きが本堂の壁という壁に張り付けてある。なんだここは!? 石像寺のご本尊は遣唐使として唐に渡った弘法大師が、日本へ持ち帰った石を自ら彫り、人々の「諸悪・諸苦・諸病を救い助けん」と祈願されたお地蔵さんだ。元はと言えば、諸々の苦しみを抜き取って下さるお地蔵様ということから「苦抜地蔵」と呼ばれていたが、「くぬき」がなまり「くぎぬき」の名で知られるようになった。体や心の痛みを治癒に願をかける人が絶えず訪れ、苦しみがなくなった人は2本の八寸釘と釘抜を貼り付けた絵馬を奉納する。その絵馬が貼り付けられた本堂の周りを、ひとりの男性が何やらブツブツと唱えながら時計回りにぐるぐると回っていた。一見変なおじさんだが、私はこの光景に見覚えがあった。


 「あぁ、ネパールやブータンで見た祈りと同じものだ!ストゥーパの周りを回り続けて煩悩を取り払ったり、願かけをしたりするアレだな」


 本堂の後ろにはマニ車のように円柱を回す仕掛けもあり、私はますます懐かしくなってしまった。ここで絵を描かない手はない。さっそくパレットと筆を取り出し、釘抜きだらけの本堂と、ぐるぐる回りながら祈りを捧げるおじさんをスケッチブックにおさめる。この日は梅雨の晴れ間で、6月だというのに33度にもなり、ムシムシとする炎天下の中、吹き出す汗にも構わず一心に筆を走らせた。集中して描いていたのだろう、気がつくとご住職が側で絵を見ていらっしゃった。


 「いやぁ、ほんまに感じが出ていてえぇ絵ですわ。ほんまおおきに」

 「ありがとうございます! あの、さっきから本堂を回っている方は何をしていらっしゃるのでしょうか」

 「あぁ、あれはね、お百度参りや。数え年の数だけこうして本堂を回って、お願いごとをすんねん。やってみはりますか?」

 「はい! ちゃんとお参りしてみたかったんです! ぜひやらせて下さい!」


 この石像寺、実はこのお百度参りをやらないとご朱印をいただけない。絵馬も、お願い事が叶った人しか奉納することができないのだ。なかなか厳しいが、本来はそういうものだよな、とも思わせてくれる。線香とろうそくに火を灯し、本堂正面の地蔵菩薩に手を合わせた。石像寺のお百度参りは数え年の数だけ回るので、途中で数が分からなくならないように、年の数と同じ本数木の棒を持って、一周するごとに一本箱に収めていく。本堂の正面で1回、そして裏で1回祈りを捧げ、一周するごとに一本木の棒を手放すのだ。心を静かにし、時計回りに回る私のお百度参りが始まった。足の裏に石畳のボコボコとした凹凸が伝わってくる。家族と、お世話になった多くの方々の顔を思い浮かべ、彼らの体と心の釘が抜けますようにと祈った。手に持ったすべすべの棒が一本、また一本と減ってゆくごとに、終わりが見えて寂しい気持ちになってゆく。もしかしたら私達はみんな、こんな棒を抱えて生まれてきて、ある人は100本だし、ある人は60本だし、ある人は10本かもしれないけど、その棒を一本ずつ神さまの箱に戻していっているんじゃないかな。ゆっくりと歩き、この贅沢な時間を噛み締める。一周回るごとに本来の自分に戻っていくような気がして、スッキリとした心で終えることができた。


 「ようお参りでした。えぇ顔されてはりますな。これきりでなく、またのご縁にさせて下さいね」

ご住職と奥様にそう言われ、西陣のチベットとご縁が結ばれた私は、軽い足取りでお寺を後にした。


 その足で船岡山に向かう。気がつけばもうすっかり日が傾いていた。戦国時代の応仁の大乱の際、この船岡山が西軍の陣地となり、それ以来この船岡山あたり一帯を西陣と呼ぶようになったのは有名な話だ。心霊スポットとしても名高い船岡山の建勲神社までの参道はうっそうとしていて薄暗く、足元に注意しながら苔生した急な石段を登っていった。少し足を止め頭上を見上げると、朱を滲ませたような茜色の空が木々の隙間から垣間見えた。山頂に到着、遠くには大文字山の大の字。


 ところで私、今どこに立っているんだろう? 洛外と洛内、過去と現在、あの世とこの世、京都とチベット……。1日の中で目まぐるしく境界を越えては戻りを繰り返しているうちに、一体自分が今どこの世界にいるのか分からなくなってしまった。山は昔から異界の門とも言われている。黄昏時、誰もいない船岡山にひとりで来てしまった私はきっとまた何かを踏み越えてしまったに違いない。山を下りたら、そこは、昨日まで生きていた世界とは似て非なるパラレルワールドが広がっているのかも。京都の街を一望しながら、一段一段とまだ見ぬ世界へ降りていった。






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