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追悼 鎌田東二先生

  • 辻信行
  • 6月30日
  • 読了時間: 18分


 ウェブマガジン「なぎさ」に「スサノヲの冒険」を連載してくださっていた鎌田東二先生が、2025年5月30日、盲腸がんのため逝去されました。享年74歳でした。ここに生前の鎌田先生のご尽力に心より感謝し、ご冥福をお祈り申し上げます。鎌田先生を偲び、編集人の辻信行が追悼文を寄稿いたします。



<追悼 鎌田東二先生>

パチンコ玉から指きりげんまん

辻 信行


 羽田空港で講演会とは、前代未聞である。会場に行ってみると、そこは空港の中にある体育館のようなスペースで、へぇ~、こんなところもあったんだと感心しきりである。講演会が終わり、トイレに寄って空港の外に出ようとする。しかし道に迷ってしまう。あっちに行ったりこっちに行ったりしているうちに30分も経ってしまった。あまりに方向音痴な自分に腹が立ってくる。ようやく外に出ると、本日の講演者・鎌田東二先生が向こうで関係者たちと談笑していた。


 ぼくは直感的に感じ取った。これが最後になると。先生にゆっくり近づいていく。向こうも気付いて、歩み寄ってきてくれた。今日は車いすも杖もない。


 「先生!」そう声をかけただけで、少し涙ぐんでしまった。

 目の前の先生に向かって声を振り絞って言う。

 「本当は、もっともっとお会いしたかったんですよ。憎まれ口もいっぱい叩いたけど、まだまだ話したかったんですよ。これでお別れとは、寂しすぎます」

 「うんうん、そうだよね」と頷くと先生は両手を差し出した。こちらもとっさに両手を差し出して握り返す。

 「辻君、指きりげんまんしよう!」

 「えっ?」

 戸惑っている暇もなく、なぜか両方の手で指きりげんまんが始まった。鎌田先生の右手の小指は問題なくやれたのだけど、

 「左手は力が入らないから、君が手を添えてよ」

 「はい、分かりました」

 ぼくは鎌田先生の左手の小指に手を添え、自分の小指に絡ませる。



 その瞬間、目が覚めた。まだ早朝である。ひどく胸騒ぎがした。スマートフォンが点滅している。画面を明るくする。普段ではあり得ないほど多くのメッセージが届いている。覚悟を決めた。そのうちの一通を開く。


 「昨夜、鎌田東二先生が旅立ちました」



 ありがとうございました。ぼくは自然に声を出していた。

「ありがとうございました。ぼくの夢に出てきてくれて。大切な何かを託してくださって。最期まで信頼してくださって」



 さて、困ったことにこの夢の話をしてもほとんどの人は信じてくれない。「また虚言癖が始まった! さすが法螺吹き先生の弟子だよね」などと言われる。法螺貝を携帯し、ここぞという時に吹き鳴らした鎌田先生は「法螺吹き先生」と呼ばれたり、「法螺吹き東二」と名乗ることもあった。たしかに法螺貝を鳴らすのは上手だったが、日常生活において嘘をつくのは下手だったのではあるまいか。


 もちろん、誇大妄想的なロマンに満ち溢れた嘘をつくのは得意であったが、何が本当で、何が嘘か分からなくなるような嘘のつき方はしない人であった。それゆえ若き日に俳優として参加した寺山修司の詩劇「A列車で行こう」では、劇の最後で台本を無視して「こんな演劇は嘘っぱちだ!」と言って乱入し、自作の詩を朗読して照明係と殴り合いになり、寺山の元を去ることとなった。そんな鎌田先生はしばしば言っている。


  体は嘘をつかない。が、心は嘘をつく。しかし、魂は嘘をつけない。


 つまり嘘をつけない魂にこそ、我々は耳を傾けその声に忠実に生きるべしというわけである。しかしながら、鎌田先生は最晩年の著書で次のようにも語っている。


 日本ウソツキクラブ初代会長の臨床心理学者・河合隼雄と朋友「狐狸庵山人」こと遠藤周作のついた数々の「ウソ」は、ゴータマ・シッダルタが唱えた道とは異なるとはいえ、オルタナティブな心の浄化法といえるものである。そもそも、ウソをつくには実に複雑な心のはたらきと洞察が必要となるが、そのウソを自他を傷つけるものとしてではなく、愛と慈悲の「方便力」の表現として用いたのが「狐狸庵山人」の真骨頂ではなかったか。遠藤の癒しがたい孤独や幼少期からの心の傷はウソという緩衝地帯を設けることで哀しみと優しさを伴うユーモアに転じることができた。ウソが笑いや開放や寛容につながる時、それは人の心をほぐし、慰め、鎮魂し、勇気を与えることがある。

――鎌田東二『日本人の死生観 第二巻: 霊性の個人史』(作品社、2025年)


 「ということは、結局お前が冒頭で書いた夢の話は、嘘だったんだろ?」とみる向きがあるかもしれない。しかし、あれだけは嘘ではないのである。仮に嘘であるならば、あまりに出来過ぎていてつまらないだろう。嘘を越えた本当であるゆえに、噓らしさをまとっているのに過ぎないのである。



 ぼくが鎌田先生と出会ったのは、大学3年生の2010年4月であった。自分の大学の講義とバイトの隙間時間に、様々な大学を訪ね歩き、変わった研究者のおもしろい講義に潜ることを好きこのんでいた。その一環で早稲田大学で開講されていた鎌田先生の比較宗教学の講義に潜入した。


 全身緑色のコーディネートでサングラスをかけ、不思議な厳かさをまといながら現れた彼の姿に瞠目した。鎌田先生はマイクを手に取ると、大教室を埋める学生たちに問いかけた。


「北海道から来た人、手を挙げてください!」

3~4人の学生が恐る恐る手を挙げる。


「ほぉ。では、東北地方から来た人!」

さっきより多く、20人ほどの手が挙がる。


 鎌田先生は、関東・中部・近畿・山陰・四国・九州・沖縄・海外を順番にきいてゆく。ときにパラパラと、あるときはドドーッと挙手する学生たちの表情は、新年度最初の講義を迎える期待と緊張感で引き締まっている。


 一通り出身地をきき終わると、鎌田先生は大教室の巨大な黒板に、白いチョークでおおまかな日本地図を描き始めた。次に赤いチョークを手に持つと、その地図をバッサバッサと四分割した。そして最後に青いチョークで真っ直ぐな縦線と横線を描き、すべての線が本州のちょうど真ん中で交わるようにした。


 「日本列島は、四枚のプレート上に載っています。そしてそれが交わる中心の近くにあるのが、諏訪大社。縄文時代から信仰されており、七年に一度行われる御柱祭が有名ですね。もう何年も前ですが、私のすぐ隣でこの祭りを見物していた男性は、巨大な御柱が転がってきて、逃げ切れず死にました。死者が出ても、この祭りは絶えることなく続けられているのですよ」


 大教室は水を打ったように静まり返る。


 「今日、この教室に集まっているみなさんが多様なDNAを持つように、宗教にも多様性があります。そしてみなさんがそうであるように、共通性があります。この講義では、宗教における多様性と共通性を明らかにしていきたいと思います。ではまず、『風の谷のナウシカ』を見てみましょう」


 見事な滑り出しだった。地方から、あるいは海外から、ここ早稲田大学に入学し、正真正銘この講義で大学生活をはじめる学生もいる。また、都会育ちでそこまで肩ひじ張らず、ワクワクした面持ちでこの講義に臨む学生もいる。そんな彼らに自らのアイデンティティーと教室に居合わせた仲間たちのアイデンティティーを意識させ、それを講義のテーマと結び付けてゆく。ダイナミックな知の脈動が、いまここで生成されている。


 講義の後半、鎌田先生は映画『2001年宇宙の旅』を見せた。一人の人間が宇宙空間で老化し、やがてスターチャイルド(星童)として蘇る物語は、キリスト教が2000年間にわたって夢見つづけてきた人類進化=神化と黙示的救済が色濃く反映されており、宗教学的にも興味深いという。この映画はぼくも好きだ。キューブリック監督は、『時計仕掛けのオレンジ』と『博士の異常な愛情』も傑作だと思う。だから講義が終わった後で鎌田先生に話しかけた。


「先生、ぼくも『2001年宇宙の旅』、好きです」

「そう、嬉しいね。ぜひ最初から最後まで観てごらん」

「はい、もう全部観ました」

「そう。この映画はいいよねぇ」

「はい!」


 教室を出て階段を下り、校舎の外に出るまで、自分が宗教学に関心があること、中央大学の学生であることなどを話した。この日からぼくは毎週、鎌田先生の早稲田での講義に淡々と出席し続けた。


 前期の最後の講義が終わってから鎌田先生に言った。

「後期のこの時間は自分の大学で必修科目があるので、鎌田先生の講義には来れないんです」

「別にかまわないよ」

「先生は早稲田の後、夕方に國學院で講義をしてますよね。教室番号を教えてください」

「えっ?」


 そして夏休みを終え、教えられた國學院の教室で先生がやって来るのを待っていると、彼は杖をついてヨタヨタ入ってきた。教室中の学生が驚いてまじまじと見つめる。「実は那智の滝から落ちて死ぬところだったんですよ」などと話し始める。なんでも那智の滝の上に広がる山中を歩いていたところ、崖下を流れる川に転落した。痛みのあまりそのまま流れに身を任せていると、ゴーゴーと轟く音が聞こえてきたという。見ると前方は那智の滝で、このままでは落ちると思い、持てる力をすべて出し、対岸へと泳ぎ切り、事なきを得たという。


 「私が死ぬときは突然死ですよ」と鎌田先生はしばしば言ったが、「きっとそうだろうな」とその度に思ったのは、このときのエピソードが脳裏に刻まれているためである。


 後期の講義の最終日、「もしこのあと空いてたら、一緒に夕食を食べて、東京自由大学の運営委員会にオブザーバーとして出席してみない?」と誘われた。大変光栄なことであるが、あまりに恐れ多い。まず大学教授と二人きりで食事をするということ自体、はじめてだったし、その後の「オブザーバー」とやらは何だろう?よく分からないが、ついて行ってみることにした。


 食事場所に向かう途中、ぼくが生まれ育った横浜の小さな町は、鎌田先生が学生時代9年間住んだ町であることが発覚した。目ん玉が飛び出るほど驚いたが、さらにぼくが10歳のときに家族旅行で四国一周をした際、なんとなく惹かれて登った津乃峰山の津峯神社は、鎌田先生の実家のすぐ近くだということも判明した。


「へぇ~! 面白いねぇ! 奇遇だねぇ!」お互いの生まれ育った土地とご縁のあることが分かり、鎌田先生はにこやかである。


 「私の人生はパチンコ玉だよ。こうやってパチンコ玉が杭に当たるみたいに、次から次へと色んな出会いがあって、思いもしなかった方向に飛んで行く。そこでまた別の出会いがあって、違う方向に飛んで行く。その繰り返し。いつか穴から外に出るんだから、そのときまで流れに身を任せて生きていたいと思ってるんだよ」


 これが鎌田先生からマンツーマンで受けた最初の人生教訓めいた教えである。自らを「縁の行者」(縁(えん)と緑(みどり)をかけている)と名乗った鎌田先生らしい生きざまが滲んでいる。鎌田先生と出会うことによって、ぼくはビッグバン的にとても多くの素晴らしい人々と出会うことができた。また逆に、それに比べて非常に少ないものの、ぼくもそのときどきで鎌田先生にユニークな人たちを紹介してきた。これを読んでくださっているあなたも、そんな縁のネットワークに関わりがあるかもしれないし、これから関わりを持つことになるかもしれない。そのような意味においても、鎌田先生には本当に感謝の気持ちしかない。


 牛タン丼を食べながら、先生はこれから向かう東京自由大学について、次のように説明した。


 「私は阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件の後、世直しの必要性を強く感じて、1998年に東京自由大学を立ち上げたんだ。日本には、どんな一宗一派にも捉われないで、宗教について考える場が不足している。それに、宗教・芸術・学問の三つの分野を創造的につないで探求してゆく視点も必要だと思ったんだ」


 ぼくが5歳のときに発生したオウム真理教事件には関心を抱いていた。自分が入学した中央大学総合政策学部は、地下鉄サリン事件が教団による犯行だと分かると、それまでオウム真理教に寛容な態度を見せていたとして、中沢新一教授(当時)へのバッシングが苛烈化し、その批判の矛先は、ときとして学部そのものへと向けられるようになった。渥美東洋学部長(当時)は、冷静な見地から世間の批判(「中沢教授を更迭せよ」という意見を含んだ)に対処し、中沢教授を守り抜いた。大学入学後、この話を耳にしてから、オウム事件はとても身近に感じるようになり、自分でもいろいろと調べ始めているところであった。


 この事件をきっかけの一つとして生まれた東京自由大学とは、どのようなところなのだろう? ネット上でその存在を知ってはいたが、実際に訪れるのは初めてだった。神田駅近くの雑居ビルに入ると、階段を上って2階にゆく。そこは小さな事務所のような空間で、折り畳み式の机を囲んでパイプいすが並べられ、会議をしている最中だった。


 「ねえねえ、聞いてよ。彼が生まれ育ったのは、私が学生時代9年間住んでたところなんだよ。それで彼は10歳のとき阿南の津峯神社に来ていてね、それは私が生まれ育ったところなんだよ」

 「へぇ~、面白いですねぇ」と会議中の人たちが異口同音に言う。


 これが2010年12月10日の出来事で、それ以来、ぼくは東京自由大学のスタッフとして運営に携わるようになった。単なる事務所と思っていたこの小さな空間が実は教室で、それまで「漂流教室」のように引っ越しを重ねながら、美輪明宏・細野晴臣・松岡正剛・姜尚中・立松和平といった人たちを、講師に招いてきたという。


 1998年に設立趣旨が書かれ、1999年2月20日に最初の企画「ゼロから始まる芸術と社会」というシンポジウムで東京自由大学は始まったが、立ち上げシンポジウムの質疑応答で、「このような活動はオウム真理教のようになる危険性があるのではないか?」という発言がフロアーから出た。これに対して鎌田先生は、マイクを口元に近づけて、思いっきり、「バカヤロー!」と叫んだ。


「その時のわたしはとても冷静だった。自制しようと思えばできた。

しかし、ここで自制してはいけないのではないかという思いが湧いてきた。はっきりと、「それは違う!」と言う必要があるのではないかと思った。それも、理路を持って答えるのではなく、どうしようもないNOを突きつける感情を持って。

そんな判断が一瞬にして生まれ、わたしは「バカヤロー!」と発していた」

――鎌田東二「アースフリーグリーン革命あるいは生態智を求めて その3」

『ウェブマガジンEFG』


 バカヤローから始まったことが功を奏してか、東京自由大学の船出は前途多難でさまざまな困難にぶち当たったが、当時のスタッフの尽力と多くの方々の協力により17年航海し続け、2016年度には新しい世代の運営スタッフによる<セカンドステージ>へと移行し、現在に至っている。鎌田先生は言っている。


「ぼくは宗教を信じない。神々や仏菩薩や霊は存在する。そう思わざるをえないけれど、しかしいかなる宗教的権力や教義も信じることができない。むしろ、宗教が宗教を超えていこうとする衝動と力と痛みと苦悩と、そしてその時輝き出る叡智の光をぼくは信じる」

――鎌田東二『天河曼荼羅』(春秋社、1997年)


 それゆえ、初めてのシンポジウムで言われたように、東京自由大学が教団になることはなかった。だからこそ島薗進先生を学長にしたセカンドステージへの移行が可能であったのだ。鎌田先生が逝去した後も、東京自由大学はどのような一宗一派にも捉われず、航海を続けていくこととなる。鎌田先生の超宗教への思いは、後に宗教臨床師やグリーフケアをめぐる研究・活動にもつながり、そのなかで今日的な問題への重要なアプローチを支える思念として継承されている。


 東北の被災地や沖縄の久高島、大阪の上智大学サテライトキャンパスや京都大学吉田キャンパス、そして京都のご自宅など、鎌田先生と会う場所、旅する場所は全国に及び、そのときどきで様々な会話を交わした。あるとき、沖縄の新聞社の就職試験に落ちたぼくの友人を囲んで食事会をすることになった。その友人のことは鎌田先生もよく知っていて、就活上のアドバイスもしていた。鎌田先生は最初に彼を慰め、次に落ちたと思われる理由をいくつか挙げ、最後にその友人とぼくに向かって、このように言い放った。


 「君たち二人には共通する課題があります。それは、もっとアホになれということです」


 完全にとばっちりを受けた形であったが、後から聞くと、鎌田先生は日頃からぼくに対しても、「もっとアホになれ」という思いを抱いていたらしい。しかしながら、ただでさえアホで困っているのに、これ以上アホになったらどうなってしまうのだろう。食事会の最後で抱負を語る段になり、ぼくは間違えて「これからはもっとバカになります!」と言ってしまった。すると鎌田先生は、「アホとバカは全然違うんだ!」と怒り出した。なるほど、アホとバカを取り違えるのは、アホではなく、バカなんだなと感心したのであるが、その後で鎌田先生が送ってきたメールには次のようにある。


 「「阿呆になる」というのは、どこまで深く人の心や輪の中に入っていけるか、という問題の一つの答えです。その精神はわたしの中では、子どもの頃から阿波踊りで諭され続けました。

 「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」の精神です。

 その「狂育」の結果、わたしは踊りが大嫌いな、自分では踊れない「阿呆」になっちゃいました~! (→故に、代替案として、「神道ソングライター」に!)


 次に、「バカ」というのは、「馬鹿」と漢字で書きます。

 神様の乗り物としての「馬」(特に白馬)も、「シシ神」の森の「鹿」も、わたしはとても好きで尊敬していますので、「馬鹿になる」というのは「神様になる」ということに近いのです。

 端的には、「馬鹿になる」というのは、どこまでも深く自然の中に入り、自然と一体化できるかという課題です。=荘子の「斉同」。

 阿呆も馬鹿もとても大切、大変深い課題であるというのが、吾が阿呆・馬鹿論です」


 どこまでも人の心や輪の中に入ってゆくアホ、どこまでも深く自然の中に入ってゆくバカ。鎌田先生はアホにもバカにもなれたけれど、歩いて比叡山に登り続け、独自の東山修験道を確立した点において、とくにバカになることにかけて天才的であったように思う。


 世間体を気にせずに、アホとバカの道に邁進することは、上京した鎌田先生にお母さんが「人に笑われない、立派な人間になってください」と手紙を送ってきたのに対し、「ぼくは、人に笑われるリッパな人間になる」と志を立てたときから明確な主題になったのであろう。鎌田先生から「アホになれ!」と言われて10年が経とうとしているが、アホにもバカにもなり切れていない中途半端な自分を見出すだけである。


 さて、鎌田先生は2022年の年末に上行結腸・盲腸にガンが見つかり、年明けすぐの手術となった。術後の再検査で転移していることが分かり、ステージ4という診断が下った。それからは「ガン遊詩人」を名乗り、相変わらず全国を飛び回ってライブや講演を繰り広げた。


 自他共に「鎌田東二は突然死」と思っていたので、このままガンで他界するのだとしたら意外だという気持ちが強かった。しかし、余命宣告を受けた鎌田先生の日々は、プライベートな家族会議を含め、そのすべてが本人によってYouTubeで公開され、さらけ出された。これにより、どれだけ多くの人々が励まされ、勇気づけられたか分からない。これは鎌田先生が最晩年に成し遂げたもっとも大きな仕事の一つと言えるだろう。


 2025年1月18日。この日は午後から横浜の反町でプリツカー賞を受賞した山本理顕さんを囲んで、鎌田先生と島薗先生とで鼎談をおこなう講座があった。鎌田先生は学生時代、反町を最寄り駅にしており、ぜひとも再訪したいという思いが強くあった。反町駅から徒歩圏内の小さな町に、鎌田先生のアパートもあったのだ。ぼくは先生と新横浜駅で待ち合わせ、そのアパートがあったと思われる場所を案内した。驚くべきことに、アパートはまだあった。そしてそこはぼくが幼い頃、祖父と散歩でよく通っていた道に面していた。アパートは建て直されていたものの、たしかにその場所に、当時の趣を彷彿とさせるように建っていた。アパートに隣接する崖は、当時のままであると鎌田先生は感慨深く語った。そこからしばらく二人で散歩をした。


 「この町はすり鉢状になってて、切り立った急坂がものすごい景観をつくってるでしょう。坂の途中に広大な墓地も広がってるしね。まさに生と死の境界なんだよ。19歳の鎌田東二君は、本当にいい町を選んで住んだよなぁ。『水神伝説』とか私の初期の詩集は、全部この町で、この風景を見ながら書いたんだよ。つまり辻君は、本当に素晴らしい町に生まれ育ったんだよ」


 歩きながら鎌田先生は、「今日はなんていい一日なんだろう」「神が与えてくれた僥倖だなぁ」と何度も繰り返した。こんなにも機嫌の良い鎌田先生を見るのは、初めてであった。講座会場の近くにある海の見えるレストランに入り、一緒にランチをした。


 着席してしばらく経つと、鎌田先生がおもむろに言った。

「辻君は、私の息子なんじゃないかと思う」

驚いて見つめ返すとニヤリと笑い、

「私の魂の息子や娘たちは、世界中にたくさんいるんだよ。君もそんな一人だと思って生きていって欲しい」

「もちろんです。ありがとうございます」

胸がいっぱいになり、そう返すのが精いっぱいだった。


 それから一週間後の1月26日。ぼくは鎌田先生が18歳のときに書いた歌謡詩劇「ロックンロール神話考」の舞台に立っていた。前述した寺山修司の「A列車で行こう」をぶち壊した後、鎌田先生は大阪の心斎橋でオリジナル脚本による「ロックンロール神話考」を仲間たちと上演した。それを再演したいということで、東京自由大学のメンバーに配役され、上演されることとなったのだ。天気予報官による「みなさん、天気は死にました」という台詞がリフレインされ、最後の「いのちのうた」は、「やさしさ うつくしさ いのりのふかさ」と歌い込まれる。この「ロックンロール神話考」は、鎌田先生の「死後百日祭」や毎年の命日あたりに行われる「鎌田東二祭り」で、これからも繰り返し上演されてゆくこととなる。


 鎌田先生とは死の一ヶ月ほど前まで、メールでのやり取りが続いた。本人自ら構想した没後の「百日祭」や「鎌田東二祭り」についての打ち合わせメールの中で、「先生、当日は怪奇現象を引き起こして、盛大にいたずらしてくださいね!」と書いたところ、「もろもろ了解です」という返事があった。なんだこの日常感は。鎌田先生にとって冥界からいたずらを仕掛けることは、日常業務に過ぎないということなのだろう。そしてこのやり取りをしてから日を待たず、冒頭の夢を見ることとなったのである。


 この世における鎌田先生とぼくの交流は、パチンコ玉の人生論に始まり、両手での指きりげんまんに終わった。しかし、「終わった」という気はまったくもってしていない。鎌田先生のことを思えばすぐそこにいるような気がするし、鎌田先生は空気中に偏在し、自分の心の中にも生息しているように感じる。これからの自分の人生は、いままでよりさらに身近に鎌田先生の存在を感じながら、歩んでゆくこととなるのだろう。


 「君は本当に素晴らしい町に生まれ育ったんだよ」

 「君は私の息子なんじゃないかと思う」


 この言葉を支えに、ぼくはこれからの人生で待ち受けるありとあらゆる困難をパチンコ玉のように正面からぶつかり、弾き、弾き返されながら切り抜けてゆくだろう。


 鎌田東二先生、ありがとうございました。どこの馬の骨ともわからないぼくに目をかけてくださって、本当に心から感謝しています。最後に指きりげんまんしてくださったこと、忘れません。先生と無事にあの世で再会できるよう、アホを究めます。


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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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