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島々の精神史 第15回

  • 辻信行
  • 54 分前
  • 読了時間: 8分

水俣の中の朝鮮

辻 信行



 少年時代に朝鮮から日本人漁師と共に来日し、日本国籍に入った洲上朝市。私たちはこれまで2回にわたり、朝市の生涯の軌跡を見てきた。今回は朝市のケースとは別に、いわゆる在日朝鮮人として水俣に居住していた人々の水俣病への罹患状況に迫りたい。水俣病が公式確認される前後、水俣市内に居住する在日朝鮮人がおかれていた状況について、元チッソ工員の中村和博(1923~2023)は、次のように語っている。


 朝鮮の人は終戦になったら、岡部病院の向かいに衣料品の大きな店を作っていましたよ。

 それと、八幡宮の通りに朝鮮人の集落があって、戦後そこの人たちが焼酎の製造を始めたんです。密造酒ですから、水枕に入れて売ってました。昭和二五年、私たちの結婚式ではそこの焼酎を使いましたね。焼酎は貴重品でしたもん、まだまだ昭和二五年じゃ。i)


 闇焼酎については、筆者の聞き取りにおいても、当時のことを記憶する複数の人々が自明のこととしてその存在について語っている。中村の証言にある通り、朝鮮人集落の居住者たちが闇焼酎(カライモ焼酎)を製造し、日本人がそれを買っていたというものである。


 朝鮮人集落は、戦中から濱八幡宮の近隣に存在した。それと同時に、岡部病院の向かいと旭町商店街にも朝鮮人が集住している地域があった。濱八幡宮の神社関係者・Oさん(1951~)は筆者の聞き取りに対して、濱八幡宮近隣の朝鮮人集落は、アジア・太平洋戦争中から存在したものの、周辺と対立・抗争が激しく、盗難も頻発していたと語った。Oさんによると、行政によって1961年に強制撤去されたという。


 同時期、在日朝鮮人の帰還事業によって北朝鮮に帰国する人々と、水俣に残る人々とに分かれることとなった。チッソの労働組合が発行している新聞『さいれん』1959年10月30日付には、次の記事がある。記事の前半を抜粋する。


祖国への歸還

おめでとう

在日朝鮮人帰国祝賀会開催

すでに新聞、ラヂオなどで発表されておりますので、みなさんもご存知と思いますが、朝鮮の人たちが、晴れて祖国へ帰還されます。

水俣からの帰国者は二一〇名とのことです。水俣地協では、市当局その他の諸団体の協力を得て「朝鮮人帰國歓送市民の夕べ」を開催することになりました。ii)


 第1次帰国船が新潟港を出港したのは、1959年12月14日である。上記の記事にある祝賀会は、それに間に合う日程(1959年11月2日)に水俣市公会堂で開催された。水俣からは210名が帰国すると記載されている。帰還事業において、北朝鮮は「地上の楽園」と標榜されたが、実際に帰還者たちが北朝鮮で味わったのは、楽園とは似ても似つかない差別と苦しい生活であった。iii) Oさんは「水俣に残って商売した人たちのほうが、豊かな生活を送った」と一般的に言われていると語るが、無理のない話である。


 村上文世さんは90歳代の男性から聞いた話として、戦時中にチッソ裏門の近くに女郎屋(風俗店)があり、そこでは在日朝鮮人の女性も女郎(娼妓)として働いていたという。その朝鮮人の女性に対して、子供ながらわいせつな言葉を発したことを、男性は記憶している。


 チッソの従業員としてチッソの社宅の中で守られて暮らす在日朝鮮人が一部存在したものの、朝鮮人集落や女郎屋の従業員など、厳しい環境下で生活する在日朝鮮人が大半であった。また、村上さんの小学生時代の話として、同級生が友人の家に行き、その家のお母さんが片膝を立てて座っている姿を見て、初めて在日朝鮮人だと気付くケースもあったという。在日朝鮮人であることが分かったからと言って、子供同士で仲が悪くなったり、いじめたりしたという話は聞かなかったという。


 このように、あくまでも日本人の子供の目からは、在日朝鮮人が違和感なく社会のなかに溶け込んで暮らしているかのように見える一面も確認できる。iv) そのような中、在日朝鮮人の水俣病の罹患状況について調査を求める動きがあった。1984年6月5日付『朝日新聞』に次の記事が掲載されたのである。


朝鮮人の水俣病調査を訴え

患者連盟の川本委員長

チッソ水俣病患者連盟の川本輝夫委員長は四日、熊本県水俣市で開かれた社会党熊本県本部と同県労評の合同水俣病問題調査団との話し合いの中で「水俣病発生当時、水俣市内で生活していた朝鮮人が多数、水俣病に侵されて帰国したり、県外に出た可能性が強い」として調査の必要を訴えた。これに対し馬場昇団長(党県本部委員長)は調査を約束した。

川本委員長の説明によると、昭和三十一年の水俣病公式発見当時、水俣市内に約百七、八十人の朝鮮人が住んでいたことが熊本県などの調査で明らかになっている。うち八割が三十六、七年ごろまでにかけて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に引き揚げ、残りの一部が京阪神方面に転出したという。ところが川本委員長が調査した結果、市内在留の朝鮮人のうち二人が水俣病患者としてすでに認定されていたことがわかった。v)


 上記の記事が掲載された後、在日朝鮮人の水俣病罹患状況に関する調査が、実際になされた形跡は、管見の限り見つかっていない。記事中にある川本輝夫(1931~1999)の長男、川本愛一郎さん(1958~)に聞き取りしたところ、「その後、動きがあったとは父からも周囲からも聞いていない。そのまま止まっているのでは?」ということであった。また、チッソ水俣病患者連盟事務局長の高倉史朗さん(1951~)も、「記事が出た記憶はあるが、その後どうなったかは覚えていない」と筆者に語った。記事中にある馬場昇(1925~2015)の著作にも、在日朝鮮人の水俣病被害の調査についての言及は見当たらない。今のところ、残念ながら調査はおこなわれなかったか、おこなわれたとしてもその成果は公開されていないと判断せざるを得ない。


 水俣病センター相思社の資料室には、在日朝鮮人の水俣病罹患について触れられた資料として、以下の書簡が保管されている。これは、自らの日本国籍を主張し、日本政府の在日朝鮮人関係の政策を追求してきた宋斗会(1915~2002)に関するものである。


 昨年、宋さんが水俣を訪れ、在日朝鮮人で水俣病にかかっているものがいないかどうか聞いてまわり、事実2~3人いることがわかったわけです。今までの水俣病の闘争の中で、なぜ同じく水俣病にかかった朝鮮人のことがとり上げられないかを質問し、「外国人だからしかたないでしょう」との返事がかえった(ママ)ことをひとく憤がいして、僕に話されたことです。vi)


 上記書簡は、「金鐘甲さんの裁判をすすめる会」の兼崎という人物によって綴られている。宛先と投函日時は不明である。金鐘甲が日本政府に対して日本国籍確認と損害賠償を求めた裁判がおこなわれたのは、1975~89年にかけてであるので、その間に綴られた可能性が高い。在日朝鮮人で水俣病に罹患したのが2~3人とする宋の調査は、『朝日新聞』の記事における川本の「二人」とする調査結果とおおむね齟齬がない。


 しかしながら、日本人の水俣病認定の状況を見ても、認定される患者は氷山の一角である。仮に在日朝鮮人の認定者が1984年時点(『朝日新聞』の記事掲載時点)で2人であったとしても、実数はさらに多いことが予測される。日本人ですら申請することに心理的葛藤がある以上、在日朝鮮人という社会的マイノリティーの人々が申請することに伴う心理的葛藤は、想像するに余りある。


 さて、これまで3回の連載を通して、水俣病に罹患した朝鮮人について論じてきた。まずは洲上朝市のケースを取り上げた。朝鮮に生まれ、日本人漁師の亀次と出会い、天草と釜山を経て水俣に辿り着き、水俣病によって死去した朝市。その生涯の軌跡を、複数の証言から見つめた。戦前の天草において、朝鮮の子供たちが日本人の漁師と共に来日し、戸籍に入ったことは一般的であった。しかしこのこと自体、全国的にどの程度認知されているだろうか。5歳頃に来日した可能性の高い朝市は、戸籍上は「日本人」であるために、厳密には朝鮮人とは言えない。しかし、朝鮮人として朝鮮に生まれたことは事実であり、そんな朝市が水俣病で死亡したことも事実である。


 また、その他の朝鮮人の水俣病の被害を考えるにあたり、まずは水俣病が公式確認された時期における在日朝鮮人の生活状況を概観した。濱八幡宮の近隣に存在した水俣最大規模の朝鮮人集落は、その中で闇焼酎が製造され、日本人によって購入されていた。朝鮮人集落は治安が悪いとされ、朝鮮人集落の内外での抗争も激しかったのである。岡部病院の向かいと旭町商店街の中にも、朝鮮人集落が形成されていた。


 チッソ水俣病患者連盟の川本輝夫は、社会党熊本県本部と同県労評の合同水俣病問題調査団に対し、在日朝鮮人の水俣病の罹患状況についての調査を依頼し、馬場昇団長が調査を約束した。しかしその後、調査がなされた形跡は見当たらない。川本は独自の調査によって、1984年時点で、2人の在日朝鮮人が水俣病に罹患しているとしている。また、宋斗会も水俣を訪れた際に独自の調査をおこない、水俣病に罹患している在日朝鮮人が2~3人いるとしている。しかしながら、川本と宋による調査はあくまでも個人レベルで、これらの調査結果の詳細が広く公に開示されることはなかった。


 また、日本に在留した朝鮮人の水俣病被害についてはもちろん、帰還事業によって北朝鮮に帰国した人々の中に、水俣病の症状に苦しむ人もいたのではないかと推測できる。そのような人々の実態についても現在のところは不明である。


 チッソ水俣工場がメチル水銀を含む排水を垂れ流した1936~1968年の間に、水俣市とその周辺地域に居住し、不知火海の海産物を日常的に口にしていたすべての人は、水俣病に罹患している可能性がある。そこにおいて、民族や国籍の違いは、まったくもって関係ない。いわゆる日本国籍を持たない人々の被害状況について、その把握が立ち遅れている現状に、忸怩たる思いがする。これからも調査を継続し、水俣の中に存在する「見えない島」における被害に光を当てたいと思う。


水俣市街
水俣市街

i) 葛西伸夫(2023)「元チッソ工員中村和博さんインタビュー」『ごんずい』(169)3-4頁。

ii) 『さいれん』昭和34年第22号10月30日付。

iii) 清武英利(2003)「明らかにされ始めた四〇年目の真実北朝鮮帰還事業の悲惨」『中央公論』(118)2

iv) あくまで当時子供だった日本人の視点であり、在日朝鮮人の視点ではない。周知の通り、一般的に日本社会 において在日朝鮮人は進学や就職において大きな障壁があり、それが水俣に存在しないことは確認できていない。

v) 『朝日新聞』1984年6月5日付。

vi) 書簡「金鐘甲さんの裁判をすすめる会・兼崎」。


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