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島々の精神史 第17回

  • 辻信行
  • 2 日前
  • 読了時間: 11分

戦争=戦闘ではない

辻 信行



 バシー海峡戦没者慰霊祭は、2015年から始められた。第1回は防衛大臣から弔辞が寄せられたが、戦没者遺族援護の所轄庁である厚生大臣から弔辞が寄せられたのは、戦後80年を迎えた今年(2025年)が初めてであった。その内容はきわめて凡庸であったが、弔辞が寄せられたという事実そのものに、一定の意味があったと言えるだろう。


 遺族代表の弔辞を読んだ吉岡初枝さんは、生まれる4か月前に父の吉見辰良さんをバシー海峡で亡くした。最近になってこの慰霊祭の存在を知り、今回初めて参加した。父がいないことで子ども時代にはみじめな思いをすることも多かったという。しかし今回、慰霊祭で父に向かって「私の名前は初枝、あなたの娘です!」と呼びかける姿には、人生を逞しく生き抜いてきたことを、晴れやかに報告するような気概を感じた。読経の導師を務めた小城市の禅林寺住職・吉田宗利さんは、撃沈された駆逐艦「呉竹」の艦長・吉田宗雄の遺児である。10年にわたって慰霊祭で導師を務めてきた吉田さんの読経には、力強い使命感がみなぎっていた。


 バシー海峡に散ったぼくの先祖の話に戻ろう。曾祖母の弟・木下市郎は、1919年6月24日、富山県魚津市鴨川町に生まれた。旧制魚津中学卒業後、慶應義塾高等部の入学に伴い、上京する。市郎が卒業した慶應義塾高等部は、現在の高校とも大学とも異なる教育機関で、旧制の「大学専門部」と呼ばれ、実学を中心とした短期課程を設けていた。


 3年間の課程を終えた市郎は、1940年、東邦電力に就職し名古屋勤務となる。しかしそれから丸1年も経たず、1941年2月10日、召集令状によって金沢に向かう。この時、兄の友治が金沢まで市郎を見送りに行った。前日までは大雪だったが、10日は打って変わって快晴であったと友治は記憶している。


 市郎は金沢東部第52連隊に入隊した。2週間ほど金沢におり、それから満州へ渡る。初年兵として配属されたのは、満州第453部隊(樺林453部隊)だった。名取政登編『元満州第453部隊第4中隊戦友会名簿』(津金日出吉、1969-71年)には、市郎と同じ第52部隊から満州第453部隊へ集結した兵士たちの様子が記されている。その記述を参考に、市郎の体験を辿ってみたい。


 神戸港を経て当時の朝鮮全羅南道麗水港に上陸した一行は、朝鮮半島を鉄路で縦断、満州の牡丹江省寧安県樺林の西兵舎へとたどり着く。入営直後に市郎が満州で撮った写真には、戦友と並んで穏やかな表情でこちらを見つめている1枚がある。この後に撮影された初年兵時代の写真は、どれも表情が曇って見える。それもそのはず。第453部隊では1941年7月の時点で、対ソ戦に備えての猛訓練が始まった。兵器・物資・食糧のすべてを著しく節約したなかでおこなわれる厳しい演習に、兵士たちは飢餓状態に陥り、ある兵士は馬のエサである赤大根をかじり、またある兵士は草の実や松傘の実を食べて飢えをしのいだ(「空腹演習」という名の訓練さえあった)。


 石炭輸送、木材輸送の訓練を経て夏が終わると、短い秋を挟んで、満州の大荒野が雪と氷に閉ざされる極寒の冬がやってきた。第453部隊は、市郎と同じく寒さに慣れた北陸人や長野県人の集団だったが、さすがに連日の零下30度を下回る寒さは身に応えた。ペチカが焚かれた室内から一歩外に出ると、吐く息が睫毛や眉毛に真っ白に凍り付き、人糞は排出と同時に凍り、鉾(ほこ)形になった。その中でおこなわれる耐寒演習は、広大な密林を戦場に仮定して、凍てつく森林を駆け抜けなければならない。また、夜間湿地通過演習では、軍馬とともに突き刺す冷たさの泥にまみれたという。あまりに苛酷な演習が続くことから、兵士たちの中には、「早く実戦になって欲しい」と願う気持ちすら生まれた。こうした演習の日々を送る兵士たちを勇気づけ慰めたのが、連隊記念日の演芸会だった。懐かしい祖国の唄や踊り、芝居などが愉快な芸人たちによって演じられた。


 市郎はこの第453部隊で約1年半を過ごし、1942年の秋、戦車第1師団戦車輜重(しちょう)第1中隊(牡丹江119部隊中村隊)に転属する。輜重隊とは、兵站(戦闘部隊の後方)において、物資の輸送を担う部隊のことだ。戦車第1師団の師団司令部は寧安に置かれ、勃利に設けられた第2師団と並び、いつでも「満・ソ」国境に出動できる体制が整えられた。戦車第1師団で防空隊副官の任にあたった鈴木博詞は、戦後に刊行した手記で次のように記している。「この時(1942年)編成された戦車師団は、わが陸軍機械化部隊の精鋭をすぐったもので、海軍の戦艦大和・武蔵に匹敵する強豪な新設兵団であった」(鈴木博詞『戦乱のさなかに』安間仁一郎、1970年、333頁)。市郎が転属したのは、少なくとも軍の内部からは「精鋭」とみなされている師団だったようだ。


 戦車師団に転属してから半年ほどが経過した1943年3月29日、一枚の写真が撮影された。


松花江鉄橋に立つ市郎(カラー補正)
松花江鉄橋に立つ市郎(カラー補正)

 これこそ、生前の友治がもっとも気に入り、拡大コピーして額に飾っていた一枚だ。市郎は軍事演習でハルビンへ行き、松花江鉄橋の上で写真を撮った。「ハルビンに来ており、演習が終われば牡丹江へ帰る」と友治への手紙で綴っている。市郎は同じ写真を、姉にも送っていた。本人もお気に入りの一枚だったのだろう。柔和に微笑みながらこちらを見つめる市郎の表情が印象的だ。横の看板には、この鉄橋や軍関係の建造物、艦船、航空機が撮影禁止である旨が日本語とロシア語で併記されている。


 1950年、市郎の母・木下むら(1892~1976)の元に、厚生省未帰還調査部から「特別審査による死亡認定所見」と呼ばれる文書が届いた。これによると、市郎は満州で無線通信の技術を修得していたことを理由に、戦局が悪化するフィリピン方面へ、航空部隊の補充要員として移転されることになった。


 市郎は1944年6月に満州を出発、7月3日、釜山から「吉野丸」に乗船する。この吉野丸には市郎と同じく、フィリピン方面に派遣される通信技術修得者たちが乗り込んだ。一旦、北九州の門司へと戻った吉野丸は、ここで内地から直接フィリピン方面へ向かう兵士たちを乗せた。そのなかに、軍医の井上悠紀男がいた。井上は戦争体験を綴った自伝的著作『海没部隊:駆け出し軍医のネグロス戦記』(井上悠紀男、1987年)において、吉野丸における一連の出来事を綴っている。その記述をもとに吉野丸の沈没の様子を再現したい。


 1944年7月12日、吉野丸は軍人5,063名、船員153名を載せて門司港を出港する。11隻の輸送船団が6隻の護衛艦艇に守られ、台湾の高雄へ向けて南下するのだ。吉野丸は1906年にドイツで客船として建造され、第一次世界大戦でドイツが敗戦すると、賠償として日本に引き渡された。1937年、日中戦争が勃発すると陸軍が徴用し、軍隊輸送船としての運用が始まる。吉野丸のように客船が軍隊に徴用されるのは、ごく普通のことだった。


 市郎や井上を乗せた吉野丸は内地を離れ、7月21日、台湾の高雄に到着する。ここで燃料や水の補給を済ませ、兵隊たちは10日ぶりに水浴びをして生気を取り戻した。待望のバナナや氷砂糖に舌鼓を打ち、7月29日、吉野丸は高雄を出港する。ここからは7隻の油槽船(石油類を輸送する船)と合流し、合計18隻の輸送船団が6隻の護衛艦艇に守られ、「ミ11船団」(日本本土とボルネオ島ミリとの間で運航した護送船団「ミ船団」の一つ)としての航海が始まる。


 しばらくすると、輸送総指揮官から命令伝達があった。「本船団は明朝バシー海峡に入る予定。各員一層厳戒態勢の万全を期すべし」。台湾とフィリピンの間に位置するバシー海峡は、「魔の海峡」と呼ばれていた。ここで米軍によって次々と日本軍の輸送船が沈められ、のちに「輸送船の墓場」として名高い海域になる。31日午前3時40分、フィリピンのルソン島の北方、ダルビリ島の西方20kmを通過していたときのことだ。吉野丸で当直中の航海士が、黎明の薄明りのなかに間近に迫る2本の雷跡を発見する。次の瞬間、ズシーン、ズシーンという大きな衝撃が2度走る。魚雷が2本とも船倉に命中したのだ。


 命中箇所の船倉内は、兵員の居住区域に改造されており、そこには木製のカイコ棚がギッシリと組み上げられていた。当時の輸送船は「昭和の奴隷船」と呼ばれ、すべてのカイコ棚の上で、船員たちが寝返りも打てないほどぎゅうぎゅう詰めの状態で就寝中だったのだ。魚雷の衝撃でカイコ棚は木端微塵に飛散し、そこで寝ていた兵員のほとんどは吹き飛ばされて絶命してしまった。吉野丸は直ちに救難信号を発信、同時に僚船や護衛艦隊に救援を求める汽笛を鳴らした。隊長らしき人物の声がして、「大丈夫だ!落ち着け!本船は沈まんぞ!」と怒鳴ったが、その声が終わるか終わらないうちに、ものすごい噴流が足首を洗った。井上が「送水管でも破裂したのでは?」と思っていると、数秒もしないうちに両ひざまで水が上がってきた。


 このとき吉野丸は、魚雷によってできた巨大な穴から大量の海水が一気に流れ込み、二番・三番船倉をあふれ出し、破壊された隔壁からボイラー室や機関室に流れ込み、船首方向から急速に沈み始めていた。「船尾へ行け!」と叫ぶ誰かの声に従い、押し合いながら船尾に向かいかけた井上は、白い波頭が目に入った。自分の目の高さに、浮き沈みする兵隊の頭が点々と見えることから、「間違いなく船首から沈んでいる」と判断し、早く飛び込まねばと思ったのだ。


 ところが、すし詰めで身動きが取れず、僅か2メートル先の舷側の手すりまでなかなか近づけない。やっと順番がきて手すりをつかみ、いざ飛び込もうと桟に足をかけた途端、上から襲い掛かる荒波に頭から吞まれてしまう。しばらく渦潮に翻弄されて気を失い、サロンデッキの天井裏に頭を支えた状態でいると、吉野丸はどんどん沈んでいった。


 すんでのところで意識が戻った井上は、自分がまだ船内にいると把握、手に触れた配管らしきものを反射的につかみ、力いっぱい水平方向に押してみる。途端に渦流に乗せられ、猛烈な勢いで船外に吐き出された。すると偶然、長い丸太が身体に当たった。反射的にしがみつくと、グングン浮力を増して海面にぽっかりと浮かび上がった。このとき吸った空気のおいしさを、井上はハッキリと記憶している。それから12時間以上にわたって海面を漂い、翌日の夕闇が迫るなか、井上はようやく救助艦に引き上げられる。


 結局吉野丸は、魚雷の命中から7分間で全没した。乗船していた部隊将兵は5063名、搭載されていた軍需品は4000立方メートルだったが、このうち兵員2,460名、乗員35名が死亡した。そしてこの船団の犠牲は吉野丸だけではない。吉野丸を攻撃した米潜水艦群は、立て続けに船団の4隻を撃沈し、2隻を大破航行不能にした。吉野丸以外の撃沈によって、将兵3,980名と乗組員83名が命を失っている。


 市郎はこのときの攻撃によって生死不明になり、その後フィリピンに到達した記録もないことから、吉野丸と運命をともにしたと考えられる。魚雷の爆破によって死んだのか、脱出できずに溺死したのか、脱出したあとに溺れたり衰弱したりして死んだのかは分からない。吉野丸の沈没による2,495名という犠牲者数は、アジア・太平洋戦争中の日本の輸送船の撃沈時の人的被害として、10番目に位置づけられている。


市郎が乗船した吉野丸
市郎が乗船した吉野丸

 バシー海峡でアジア・太平洋戦争中に亡くなった日本人は、10万人以上と推定されている。長崎原爆で亡くなったのは約7万4千人と推定されているので、この数が示すことの重大さに改めて気が付く。アジア・太平洋戦争の後半、バシー海峡にアメリカ軍の潜水艦が多数配備され、南方の戦線に送られる日本軍の輸送船団を魚雷で次々攻撃し、それがことごとく成功した。この史実は、果たしてどれほど広く知られているだろうか。


 日本人論や『「空気」の研究』で知られる山本七平は、『日本はなぜ敗れるのか:敗因21ヵ条』(角川書店、2004年)において、フィリピンで米軍捕虜となった小松真一の指摘する「敗因21ヵ条」を紹介しているが、その第15条には、「バアーシー(著者注:バシー)海峡の損害と、戦意喪失」が挙げられている。小松はミッドウェーやレイテ島、硫黄島など、日本の敗戦に直結した戦場の地名は一つも挙げず、バシー海峡を挙げているのだ。この姿勢に山本は強く共感している。


 「戦争=戦闘」ではないと山本は強調する。食糧と石油だけによる戦争もあり得るのだと(物価上昇が止まらない今日の経済状況が思わず想起される)。


 日本軍は人と物資を輸送する航路の安全性を確立する努力を怠った。その上で、やみくもに大量の兵士を「死へのベルトコンベアー」に送り続けた。50万人送ってダメなら100万人、100万人送ってダメなら200万人というように、米艦隊が魚雷を携えて待ち構えるバシー海峡に、徴用した非軍用艦に兵士と物資をすし詰めにして、やみくもに送り続けたのだ。それによって甚大な損害を被り、戦意喪失につながったのは言うまでもない。兵站を軽視し、兵士と物資が不足すれば、「戦闘」を続けることはできない。


 山本はバシー海峡における日本軍の精神を、「機械的な拡大再生産的繰り返し」と指摘し、これによって目先の危機を乗り越えるメンタリティーは、戦後も続いていると論じている。山本は具体的な例を挙げていないが、たとえば2021年、コロナ禍で追加予算をつぎ込んで強行された東京オリンピックを思い出せば一目瞭然である。前世紀には経済復興をもたらしたものの、いまでは環境も経済も著しく破壊する巨大なイベントを「機械的な拡大再生産的繰り返し」の発想で強行することは、負の遺産の増大をもたらす。バシー海峡における日本軍のメンタリティーは、今日においても踏襲されているのである。

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