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島々の精神史 第18回

  • 辻信行
  • 2 分前
  • 読了時間: 7分

戦死者としてではなく

辻 信行



 NHK連続テレビ小説『あんぱん』の主人公、やなせたかし(1919~2013)は、弟をバシー海峡で亡くしている。木下市郎が戦死した年の暮れ、1944年12月30日にバシー海峡で沈没した駆逐艦・呉竹に、やなせの弟・千尋(1921~1944)が海軍少尉として乗船していたのだ。このことはやなせの創作に深い影響を与えた。『アンパンマン』を生み出す前、「自分を励ます歌」として1961年に作詞し、空前のヒットになったこの曲から見ていこう。


「手のひらを太陽に」

作詞:やなせたかし

作曲:いずみたく


ぼくらはみんな 生きている

生きているから 歌うんだ

ぼくらはみんな 生きている

生きているから かなしいんだ

手のひらを太陽に すかしてみれば

まっかに流れる ぼくの血潮

ミミズだって オケラだって アメンボだって

みんな みんな生きているんだ

友だちなんだ


 「生きているから かなしいんだ」という歌詞が印象的である。ここには諦念があると同時に、生きることを鼓舞するような力が込められている。この歌はNHK『みんなのうた』で紹介されてレコードが発売され、やなせは詩人としてヒット作に恵まれるようになる。そして1973年、弟の千尋をモデルにした一冊の絵本が出版された。それが、『あんぱんまん』である。


 お腹の空いた子どもたちに、自分の顔を食べさせる主人公・あんぱんは、最初のうちは気味悪がられたが、75年に続編の絵本『それいけ!アンパンマン』が刊行されると、静かなブームを巻き起こした。そして1988年、日本テレビでアニメ番組『それいけ!アンパンマン』が放送され、人気に火が付く。アニメ版で放送された主題歌を見てみよう。


「アンパンマンのマーチ」

作詞:やなせたかし

作曲:三木たかし


そうだ うれしいんだ 生きるよろこび

たとえ 胸の傷がいたんでも

なんのために生まれて なにをして 生きるのか

こたえられないなんて そんなのは いやだ!

今を生きることで 熱い こころ 燃える

だから 君は いくんだ ほほえんで


そうだ うれしいんだ 生きるよろこび

たとえ 胸の傷がいたんでも

ああ アンパンマン やさしい 君は

いけ! みんなの夢 まもるため


 ここでも「生きる」ことが高らかな喜びとともに歌い上げられている。「胸の傷がいたんでも」生きることはうれしく、喜びであるのだ。「アンパンマンのマーチ」は、哲学的な問いが畳みかけられるようにして続出し、この歌詞を仏教やキリスト教の教えに通じると指摘することもできる。


 やなせは語っている。「アンパンマンをかきはじめたとき なにか不思議ななつかしさをおぼえた どこかぼくの弟に似ている」「アンパンマンについて話すことは あるいは自分史と重なるかもしれない お恥ずかしいがしかたがない」(『やなせたかし全詩集 てのひらを太陽に』北溟社、2007年)。


 初期の絵本に登場するアンパンマンは復員兵のような格好をしていたが、それが段々と現在のような親しみやすい姿になり、いまや海外でも知られる作品になっている。バシー海峡で戦死した千尋への想いは、このように普遍的な作品へと昇華されていったのである。


 市郎の乗船していた吉野丸が沈没してから約一か月後、バシー海峡で12日間漂流した末、奇跡的に助けられた通信兵がいる。中嶋秀次(1921~2013)だ。彼は戦後、バシー海峡で死んでいった多くの仲間たちを慰霊するため、この海が見渡せる台湾南部の猫鼻頭(マオビトウ)に、慰霊施設を建設しようと尽力した。戦時中、近くの海岸には大量の日本兵の遺体が打ちあげられていた。中嶋の純粋な熱意は、当時のことを記憶する地元の人々から支持される。そして1981年、中嶋の私財と日本各地からの寄付により、「潮音寺」が建設された。落慶法要では曹洞宗の総本山である永平寺から副貫主の丹羽廉芳が訪れ、導師を務めた。現在は地元台湾の人々の善意によって支えられており、日本人の参加者を募って毎年慰霊祭がおこなわれている。


 市郎は戦地から母・むらへ送った手紙に、「もし私が助からなかったとしても、遺族年金が支給されるので安心してください」と書いていた。姉・梅子への手紙には、「どうか私の分も生きてください」と書いていたという。梅子はその言葉を守るように97歳の生涯を全うし、2010年に逝去した。


 もし市郎がバシー海峡を無事に通過し、南島の激戦を奇跡的にくぐり抜け、生きて敗戦を迎えていたら、どのような心境だったろうか。敗戦を内地で迎えた民俗学者の酒井卯作は、その日のことを次のように語っている。


 8月15日は日本晴れでした。焼け跡に僅かに芝生が残っていました。帯剣を外し、鉄砲を捨てて大の字になって空をみました。もう逃げ回らなくていい、もう死ななくてよいのだ、と思いました。戦争が終わって良かったと思いました。実感としてそう思いました。憲法9条をみて涙が出ました。

――講座「戦争の民俗学~無名人の力」での酒井卯作の発言

(2014年12月6日 於:NPO法人東京自由大学)

 

 平和を愛した市郎も、やはり酒井と同じように、晴れ晴れとした気持ちで大の字になって空を見上げたかもしれない。


 市郎の戒名は「眞朗院釈善祥」。1950年の戦死公報を受けた後で付けられているため、「烈」や「忠」の字が含まれることの多い戦時戒名ではない。市郎は靖国神社に祀られているが、当然のことながら家族墓でも祀られている。現在は富山から移動して東京西部に存在するその墓には、「やすらぎ」と彫られ、市郎が戦死した翌年に62歳で亡くなった父の源吾、母のむら、兄の友治、兄嫁のきぬと共に埋葬されている。


 日本各地には戦死者だけを集めた共同墓地が存在し、それらには軍服姿の戦死者像が立てられて戦歴が記されているケースもある。各地で戦死者の墓の実態を見つめてきた民俗学者の岩田重則は、次のように指摘している。


 戦死者たちに対しては、その人生のすべてが兵士であったかのような表象が行われていた。戦死者たちも、その個人性を保存しようとする。しかし、そこで表象された戦死者たちの個人性は、戦死の一点に集中され、他は脱落していた。戦争の非人間性とは、人間の死における個人性においても、戦死者たちを兵士であったことに限定し表現するところにあるのではないだろうか。

――岩田重則『日本鎮魂考』(青土社、2018年、193-194頁)


 市郎の場合、国から送られてきた「砂だけが入った骨壺」が埋葬されている家族墓は、市郎を「兵士」に限定するものではない。しかし靖国神社において、市郎は戦死したゆえに、「神」として祭祀されている。やはりこの祭祀のあり方に、強い違和感を抱かざるを得ない。


 ぼくが忘れたくないことは、市郎が家族想いで気立ての優しい末っ子でありながら、海が好きで、タバコが好きで、友達とはしゃぐのが大好きな青年であったということだ。市郎も私たちと同じようにさまざまな面を併せ持つ一個人であり、平和を愛し、戦争には行きたくないと母・むらに漏らしていた。


 社会を構成している私たち一人一人は、それぞれが個人の物語を生きている。それが、国の作り上げる強大な物語に吞み込まれ、犠牲となる最たる例が、「戦争」なのだ。読者のみなさんのご家族や親戚・縁戚、身近な方の中にも、戦争を体験された方がいらっしゃることだろう。戦争で亡くなった方もいるかもしれない。その頃の話を、ぜひ聞いてみてほしい。そして、少しでも当時の手がかりをつかめるアルバムや日記、資料などが残されていたら、覗いてみることを薦めたい。


 当時を生きた一人一人の物語に光を当て、「戦争」という強大な物語に呑み込まれる過程を振り返ることが、バシー海峡に代表される日本の負のメンタリティー、「機械的な拡大再生産的繰り返し」から脱却する一歩につながるのだ。


 戦後80年のバシー海峡戦没者慰霊祭を終え、ぼくは恒春半島の猫鼻頭(マオビトウ)の渚で献花をした。市郎を乗せた吉野丸が沈没したのは7月31日。ぼくが訪ねたのは8月3日。ほぼ80年の時を経てたどり着いた曽曾伯父の眠るバシー海峡。正面のルソン島方面から強烈な潮風が吹きつけるなか、砂浜で靴を脱ぎ、裸足になって波打ち際に歩いてゆく。つま先に触れたのは、真夏のあたたかな海水だ。やがて少し大きな波がやってきて、足首をやさしく洗った。



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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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