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島々の精神史 第16回

  • 辻信行
  • 9月29日
  • 読了時間: 9分

雨の潮音寺

辻 信行



 台風は逸れ、雨は止んだ。それはまるで奇跡のような一日だった。当初のルートを台風が進んでいれば、ぼくは成田から台湾・高雄に飛び立てなかった。


 また、台湾南部は連日の激しい雨で、このままでは戦後80年のバシー海峡戦没者慰霊祭は開催が危ぶまれた。どうなるかは出たとこ勝負。しかしその日、台風は逸れ、雨は止んだのである。


 慰霊祭には高雄からの参加者が3台の大型バスに分乗し、約2時間かけて恒春半島猫鼻頭の潮音寺へ向かう。バス車内で隣に乗り合わせた80代の男性は、「人生を振り返ったとき、いろんな困難があったの。でもそのときどきで、信じられないほど幸運な出会いがあって、なんとか乗り越えられた。これもバシー海峡で死んだ親父のおかげだと思ってね」と語ってくれた。


 行きの車内では一人一言ずつ自己紹介の時間もある。バスに乗り合わせているのは7割方が遺族である。初参加の人もいるが、2015年から始まったこの慰霊祭に、毎年のように参加している人もいる。その中には元自衛官や日本会議のメンバーなど、ぼくが普段接することの少ない政治信条の人たちも一定数いるように見受けられた。遺族以外にも、台湾の駐在員で一度慰霊祭に来てみたかっと言う人や、大手新聞社から取材目的で来ている記者もいた。


 猫鼻頭に着き、バスは潮音寺への細い一本道に入る。「この道はずっと砂利道だったのですが、お寺を管理する鐘佐栄夫婦が私費を投じて、アスファルトに舗装されたんですよ」と説明される。


 本堂の前に着いた瞬間、バチバチという音で、いきなり大粒の激しい雨が降り始めた。あまりの急転直下に車内がどよめく。ぼくには何度かこのような経験がある。たとえば、15年ぶりに帰郷する祖父と一緒に氷見の山奥の墓を訪ねたとき、雲一つなく晴れわたっていた空から、いきなり車軸を流すような激しい雨が降り、雷が轟いた。


 台湾のパイワン族は、このような雨のことを「祖先が嬉し涙を流して歓迎している」と捉えるのだという。バシー海峡に散った10万人を超える戦死者たちの霊魂が、我々を嬉々として迎えてくれているのだろうか。


潮音寺(バシー海峡戦没者慰霊祭の会場)
潮音寺(バシー海峡戦没者慰霊祭の会場)

 なぜぼくがこの慰霊祭に参加することになったのか、ことの起こりは4年前に遡る。


 2021年の夏、『しかたなかったと言うてはいかんのです』(NHK名古屋放送局・大阪放送局制作)という一本のテレビドラマが放送された。アジア・太平洋戦争末の1945年、九州大学で実際に起きた米軍捕虜8名の生体解剖事件をもとにしたドラマである。興味深い内容だったが、個人的には内容以上にタイトルがやたらと胸に響いた。『しかたなかったと言うてはいかんのです』。


 ぼくは子どもの頃、戦死した身内がいると祖父母から聞いた。それは祖母の叔父、正確に言えば母方の曾祖母の弟(曾祖叔父/そうそしゅくふ)にあたる。彼がどのような人物で、どのような戦争体験をしたのか、詳しいことを聞いた覚えはない。祖母は90歳を超え、認知症の症状が少しずつ進行していた。このままではそう遠くない将来、聞いておけば良かったと後悔する日がやってくるだろう。「しかたなかったと言うてはいかんのです」という言葉に背中を押され、ぼくは戦死した身内について、調べてみることにした。


 まず祖父母の暮らす家に電話をかけた。酷暑にしては元気な声の祖父・雨池勇(1931~)は、戦死した身内の名前が、木下市郎(以下、市郎)であると教えてくれた。勇にとって義理の叔父にあたる人物だ。富山に生まれた市郎は、慶応義塾大学入学に伴って上京し、在学中に学徒出陣する。しかし戦争反対の立場で軍部に反抗的だったため、激戦地のビルマ戦線へ送られた。敗戦後、送られてきた骨壺の中には、白い砂が少しだけ入っていたという。勇は自分が知っている情報は不確かだということで、祖母に受話器を渡した。


 市郎の姪にあたる祖母・雨池昌子(1933~2025)の記憶は曖昧で、客観的な事実よりも、自身の体験にもとづく断片的な記憶に終始していた。市郎は当時昌子たちが暮らしていた家にやって来たことはなく、市郎の兄・木下友治(1915~1999)のように、家の中庭で一緒に池の鯉を見たという記憶もない。昌子の母・木下梅子(1913~2010)からは、市郎がまじめでおとなしい人だったと聞いている。その一方、兄の友治は社交的でよく喋り、無事に戦争から復員したので、そちらとの思い出はいろいろあると語る。


 祖父母への電話から、市郎についてほんの少しだけ情報を得ることができた。しかし、これだけではよく分からない。祖父の勇の証言が事実なら、なぜ市郎はそこまで戦争に反対したのだろう。なぜ自らの命の危険を顧みず、軍部に反抗したのだろうか。


 ぼくは親類への聞き取りと並行して、これまで心理的に避けてきた靖国神社にコンタクトを取ってみることにした。戦死者を神として祀り、A級戦犯をも合祀する靖国神社のスタンスにぼくは反感を抱いている。しかし靖国神社には、ここで祀られている戦死者の基本情報を遺族に開示する「御祭神調査」というシステムがある。市郎の情報を得ることができるならと電話してみた。市郎の名前と本籍の都道府県、遺族代表者の名前(市郎の場合、母の木下むら)などを告げると、祭神として登録されているという。3日ほどで、手元に書類が届いた。


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 ここに記載されている情報は以下の通りだ。


 1、階級・陸軍曹長

 2、所属部隊・戦車第一師団司令部

 3、死歿年月日・昭和19年7月31日(戦死)

 4、死歿場所・バシー海峡

 5、死歿時本籍地・富山県

 6、合祀年月日・昭和32年4月21日


 祖父の勇から聞いた情報と食い違っている項目が散見される。陸軍曹長とは、旧日本陸軍で下士官の最上位にあたり、軍曹の上、准尉の下に位置する。所属していた部隊は、戦車第一師団の司令部ということだ。戦死したのもビルマではなく、台湾とフィリピンの間に位置するバシー海峡になっている。靖国神社によると、上記情報の出典は各都道府県に保管されている「旧陸軍から引き継いだ資料」であるという。そこで次に、市郎の本籍地である富山県に問い合わせてみた。


 富山県の厚生部厚生企画課恩給援護・保護係によると、軍歴資料(旧陸軍)の提供を受けるためには、申請者と市郎との続柄が分かる戸籍資料が必要である。そこで申請者を祖母にして、祖母と市郎との関係性が分かる戸籍謄本を取り寄せた。その上で、祖母の身分証明書と一緒に申請書類を送った。一週間ほどで届いた「戦没者カード」は、以下の通りである。


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 靖国の資料と比較して新しく分かったこととして、死没場所の緯度経度がある。これによって、死没時に乗船していた船が特定できるかもしれない。また、旭日勲7等を叙勲されたことも判明した。旭日勲7等はしばしば戦死した兵士に叙勲されるものだから、市郎も例に漏れずということだろう。


 さらに詳しい軍歴を知りたかったが、あいにく富山県では軍籍が大量に失われており(これは富山県に限ったことではない。詳しい経緯は近藤貴明による一連の研究「終戦前後における陸軍兵籍簿滅失の原因とその類型化」『立命館平和研究』(17)、2016年などが明らかにしている)、これ以上のものは富山県には存在せず、そうである以上、厚生労働省にも存在しないということであった。


 そうこうしているうちに、祖母・昌子の妹である澤田怜子(1935~)が、重要な手紙を送ってくれた。怜子が、市郎の兄・友治から1996年に受け取った手紙である。市郎について、次のように書かれている。


 母が死亡した後(編注:1976年)、遅きに失したが、私は新聞に弟の動静依頼投稿(編注:戦死者の情報提供を呼び掛ける投稿)を、朝日、毎日、読売に出した。九州~山形に亘り、返信が来た。その中に佐賀の人が上京の折、小平(編注:友治の自宅)へ来てくれたり、そして又、小杉町の大沢円定氏が便りをくれたり。(中略)でも、大澤円定氏の便り「19年1月頃の木下軍曹(編注:市郎のこと)はよく知っているが、急に見えなくなった。」すべて頼りない内容ばかり。

(注)戦況の資料によると…。(編注:この(注)は、友治が記している)

 南方の戦況日増しに悪化、昭和19年2月末第31軍の創設発令。5師団、7ヶ旅団を左の島々へ転進させた。即ち、サイパン、グアム、トラック、パラオ、硫黄島、その他テニアン、ペリリュー島へ。(すべて全滅です)

 弟はその内のどこかへ転出したはず。昭和19年末、私は弟からハガキを貰った。「俺は死なないだろう」とね。別に転出命令を受けたとか何とか一切記入なし。でも読んだ私「南へ出るな…」と解釈したものです。

――友治から怜子への手紙(1996年10月6日消印)


 この手紙によれば、友治は1976年以降、市郎の消息について新聞各紙で尋ねている。全国から返信が寄せられたものの、市郎の最期について直接知る人からの連絡はなかったようだ。友治は戦後に刊行された資料を用い、市郎の南方移転を推測している。戦車第1師団の拠点は満州だったので、南方の戦局の悪化に伴い、移転の命令を受けたのだと。それにしても「俺は死なないだろう」という一言から、「南へ出るな…」と直感したというのは、どういうことだろう。比較的安全な満州に留まるという意味ではなく、南方へ行けという命令が下された後で、「俺は死なないだろう」と書いていて、それを友治が感じ取ったのだとしたら…。兄弟ならではの勘の鋭さが働いたということだろうか。


 だんだんと市郎についての情報が集まってきた。市郎は独身で子どもがおらず、兄弟たちも他界しているが、市郎の消息を懸命になって探した兄・友治の息子が健在だ。ぼくは怜子に仲介してもらい、友治の長男の一郎(1948~)に連絡を取ってみることにした。


 一郎は、かなりの遠縁にあたるぼくが市郎について調べていることに驚いているようだった。しかし、自身の「一郎」という名前は、「市郎」からとって友治が付けたのだと教えてくれた。友治は、1943年にハルビンで撮影された市郎の写真を拡大コピーして額に飾り、大切に眺めていたという。その写真の裏には、市郎の軍歴が書かれているという。また、数年前にアルバムの整理をしていたところ、市郎の写真が複数枚見つかった。ぼくはさっそく、そのアルバムを見せてもらうことにした。


 西東京にあるホテルのロビーで、一郎は稲架掛けと農村の絵が施された美しい布張りのアルバムを取り出した。表紙をめくると、魚津大火についての説明が記されている。1956年9月10日に魚津市で発生した大火事によって、市郎の実家は全焼してしまった。その際、友治がなんとか持ち出した押し入れの3箱の一つに、このアルバムが入っていた。市郎が戦地から家族に送った手紙も、この魚津大火ですべて焼失してしまったということだ。


 アルバムのページをめくっていくと、戦前に市郎が家族と一緒に撮った写真、中学から高校時代にかけての写真、そして戦地で撮った写真が続々と出てきた。これらの写真の周囲には、友治の小さな文字で説明が書かれている。次回はそこから知り得た情報と、ぼくが文献で調べた情報とを総合化して、市郎に迫ってみたい。

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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