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島々の精神史 第14回

  • 辻信行
  • 7月24日
  • 読了時間: 6分

天草から水俣へ

辻 信行


 朝鮮の漁港で親なしの不遇な少年時代を送っていた洲上朝市(1900~1972)。天草からやってきた日本人漁師の洲上亀次との出会いが、その後の運命を決定づけることとなった。朝市と亀次の出会いについて、荒木幾松・ルイ夫妻が証言している。荒木夫妻は後に水俣において、亀次から生活面で頼りにされていた。


●湯堂荒木幾松(明治33年生)・ルイ(明治43年生)の話

じさん 朝市は死んだもね。ありゃ、終戦になって朝鮮から引き揚げて来たっです。

ばさん その人のじいさんにならっとが亀じいさんて、ここに居らったったい。

じさん 天草の宮田で、朝鮮に一本釣り行きよって。

ばさん そして、朝鮮人の子ば、朝市どんば拾うて来たち、俺共にゃ語って聞かせよらったったい。朝市な、子供(こまん)かとき海辺に居ったっば、「助けてくれろ」て、言うたっば、乗せ来たち、亀どんが言うて聞かせよらったったい。亀どんな、天草からガンタレ(ぼろ)船に乗って、俺が如(ご)てガンタレ着物どン、ひっ切れ帯どン来て、この人(幾松)のおっ母さんの名前ば言うて、うち尋ねて来らったわけたい。そン親共がおっ母さんば知っとったわけでしょう。そげンして名乗って来らるもンじゃっで、可哀想(ぐらしか)で、まあ助くるち意味じゃなかばってんさい、お互いカライモでン食い合わせたりして、何の彼(かん)のしよるうち、湯堂が良かろうちことで引き揚げて(移住して)来らった。そして、亀どんを頼って、朝市どんも来らったわけ。そりゃ、戦争に負けてからたい。

(中略)                                                                                      

じさん 朝市どんな、魚の好きじゃったもン、どもこも。

ばさん 魚でンタコでン釣って来て朝も晩も食うてさい。魚でン何でン板の上に乗せてこしらえるどが。刺身してから醤油も何もつけでな、刺身ばする方で(にするそばから)食わったっちもね。そげン好きち。醤油つけりゃ甘味がないち。タコも人一倍(よこれ)上手やったもンな。釣って来られば、俺共もまたドッコイショでうんとこせ貰うて噛むしてさい、あーあ、もう。誰も彼もやられてしもうて。朝市どんな、俺共が裁判するときゃ、生きとらったっじゃ。裁判の証人には俺が立つち言うつな。「俺がボラ釣り行くときは会社が汚なか品物ば流しとって、俺見とっとざン、何ば会社が暴言ば言うか」ち、その余の立腹ちゃなかったな。そるばってン、何処にも行きゃ得られるん如つならったがな。月の間に。

じさん 水俣病に認定されて、下痢するとか何とかで山田先生の所行って、儂も胃のカメラ見たっじゃが、つまらんち言うつ市立病院で手術ばしたっですたい。手術してみたら、開けてみたらそれで仕舞(しめ)えやった。どもこもしやならんち、言うてな。

ばさん もう痩せてなあ。一週間ばっかり生きとったですばってン、何もしや得でな、オロンオロンして、飯も食やならん、何もしやならんち、まこてーかわいそうかったっですばい。

じさん 親の亀どんも早う水俣病で死なったもンなあ(未認定)。i)


 証言の前半では、朝市と亀次の出会いについて、ii) そして終戦後に朝市が亀次を頼って朝鮮から水俣に引き揚げてきた経緯が語られている。後半では、朝市が水俣病に発病した当時の状況について語られている。朝市は魚が好きで、タコを獲ることに長けていた。荒木夫妻も朝市が獲ったタコを貰うことがあったという。そして荒木夫妻の患者認定裁判の際には健在で応援していたが、一ヶ月間でどこへも行けないほど症状が悪化してしまったといいう。


 次に、朝市の妻・マサの証言を見ていくこととする。マサは1908年に新潟県の高田に生まれ、東京の警察病院での就労に伴い上京。10年間勤めた後に朝鮮へ渡り、京城の病院で勤務した。その地で結婚して男児を出産するも、伝染病で夫が他界。子供を新潟に預けて釜山で看護師として働き仕送りを続ける。そのころ朝市を紹介され、1942年に結婚。子供を引き取って釜山の学校に行かせ、日本人漁師町の釜山の牧島に住む。敗戦により、当時亀次が天草から移住した水俣の湯堂に引き揚げてくる。水俣に来た当初、朝市は漁師として、マサは公共職業安定所の職員として労働していた。しかし水俣病で魚が獲れなくなると、マサは朝市に安定所の仕事を譲り、自らはチッソの請負業者である西松組に勤める。それから4~5年が経ち、ついに朝市の症状が悪化する。


 主人は、原田先生に診断書書いてもらって市立病院に入院しました。私は付いてないといかんし、どもこもならんから、生活保護してもらいました。で、開けてみなったね、手術したわけなんですよね。開けてみたら、腸もね、腹の中も全部くさってたのね。手術の時間、長くかかりましたもんね。普通なら縫合しますけど、縫合しないで開けっ放し。中がザクロのようになってました。そのとき私も退院して間もなかった。病み上がりだった。あ、これはだめだなと思いました。手術して10日ばかりで死にました。子供とその嫁さんに手取られて死んだ。だから満足したんじゃないですか。

 死ぬ前に、主人も私も水俣病に認定されました。判決の前ですよ。金額がまだ決まってないから、100万か200万かくれるだろうて思ってたんでしょう。(中略)(主人は)死人ですから、一番に下りたんじゃないですか。補償金は子供にやらんばしようがないでしょうが。そのとき1800万に利子やら付いて2000万ちょっとでしたかね。iii)


 朝市の最期に関する生々しい証言である。市立病院に入院して手術を試みたものの、開腹したところすでに手の施しようのない状態で、縫合すらしないまま10日ほどで亡くなったという。死亡する前に朝市もマサも水俣病と認定され、朝市に対する補償金は利子などを入れて2,000万円強であった。


 水俣市湯堂に生まれ育ち、洲上マサのことを記憶する村上文世さん(1951~)は、こちらの聞き取りに対し、マサが標準語で話し、物静かで上品で落ち着いていたと語る。いつも自宅で縫物をしており、村上さんの実家が営んでいた雑貨屋に買い物にくることもなく、つましい生活をしていたように感じるという。一方、朝市を見かけるときは、着物姿が多かった。当時、老人が着物を着るのは一般的で、冬は長めの綿入れを羽織っていた。また、岡本達明の聞き書きに同行したほたるの家の伊東紀美代さん(1942~)は、朝市が体格の大きな立派な人であったことを覚えていると聞き取りに対して語った。


 天草の漁師に連れられて日本にやってきた朝鮮人の子供は、岡本達明『近代民衆の記録7――漁民』(新人物往来社、1978年)の証言に見られる通り、数知れない。また、天草から水俣に移住することは、「天草流れ」という言葉が存在するように一般的だ。しかし、朝鮮出身で天草を経由して水俣に辿り着き、水俣病を発病したケースについては、現在のところ朝市の一例しか確認できていない。iv) ここではそんな朝市の生涯を辿ってみたが、実際には他の事例があったとしても不思議ではないのである。


水俣・湯堂
水俣・湯堂

i) 岡本達明(2015)『水俣病の民衆史第五巻補償金時代1973-2003』日本評論社、319-321頁。

ii) マサの証言の中に、「主人の話では、もう五つぐらいから船に乗ってたていうもの」(岡本、2015年、327頁)とある。ここから、朝市と亀次の出会いは、朝市が5歳ぐらいの頃と推測することができる。

iii) 岡本達明(2015)『水俣病の民衆史第五巻補償金時代1973-2003』日本評論社、330-331頁。

iv) 朝市の場合、正確には天草から釜山に移住し、そこから水俣に移住している。


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