角谷郁恵
見立ての浜
陶芸の技法を用いて『陶の石』という作品シリーズを作っている。
石の中にはいくつもの風景があり、私たちの記憶を呼び覚ます。それは、美しい抽象画と同じようだ。海辺で石を捨う時、私の中でいくつもの「見立て」が生まれる。
石の中、山々がそびえたつ
石の中、風は甘く薫る
石の中、波は大きくうねり白いしぶきをあげる
石の中、彼は椅子に腰掛け物思いに耽る
石の中、夕日が沈む
焼き物の中にも、釉薬や土の表情から景色を読み取ることができる。熱によって変容した釉薬や土に含まれる鉱物やガラス成分が混ざり合い反応し、冷却し結晶化されて生まれた肌理(きめ)は様々な物語を見せる。石の造形が永い年月といくつも自然の事象を受け入れて現れたように、陶の石を作る時も私の意図を超えた素直な形になるように、削り、転がし、そぎ落とす。そして最後は窯の中、炎の力に委ねるように現象が引き起こるのを待つ。
出来上がった陶の石を見ていると、春の野原のくすぐったさと冬の終わりの嬉しさのようだった。また別の石からは雨上がりの帰り道の匂いがする。
この小さな4、5センチ程度の陶器の石ころを個展で発表した際、鑑賞者は思い思いの見立てを聞かせてくれた。ある人はチョコチップクッキーだと言う。また別の人は過去の自分に重ねた。お風呂上がりのシワシワの指先、王様の椅子、私の知らない深海魚のこと。他にも色々あった。
絵画や器を展示しても、こんなにも多くの鑑賞者から見立てや解釈を聞くことはなかった。人々はタイトルを探し、理由を問う。制作コンセプトやステイトメントは観る人を安心させる。これは自戒も込めたことだが、分からないことは不安であり、我々はすぐに、理由や正解を尋ね、意味を求めてしまう。でも本当はわからないことが沢山あって、多様な仮説を立てることの方が豊かさだと私は思う。また、解はひとつとは限らず、与えられるものでもない。
ところが、『陶の石』を前に鑑賞者は思い思いの景色を見立てはじめた。そこに正解も不正解もないことを自然に受け入れる。自分で仮説を立てること、その仮説は他者と比べられるものではないことも知っている。
矩形に切り取られたキャンバス(絵画)でも、機能を携えた道具(器)でもない、この陶で出来た石ころは記憶を呼び覚ますスイッチのようだ。転がる石ころの中にいくつもの景色が移ろっている。
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