角谷郁恵
土に触れる
陶芸を始めたのは、友人であり、尊敬する作家であるKさんの影響だ。
Kさんが言った「いくちゃんも陶芸をしてみるといい、土に触れると救われるものがあるから」という言葉がずっと心の片隅に残っていた。
そして今、私は土の前にいる。
土に触れる。
粘土は指で押せば凹み、掌を押し当てれば平たく延びる。
湿度を携え、ひんやりと冷たい。
熱を帯びすぎた私の頭と身体が土に飲み込まれるように沈んでいく。
深く息をするような安堵、私はずっと昔からこの感覚を知っていたように感じる。
それと同時に、浮ついた落ち着きのない自分自身が浮き彫りになる。
指先を通じて、土の”音”がする。この”音”は粒子のざらつきであり、土の(または私の)機嫌・性格でもあり、硬度であり、厚みや質量でもある。
視覚や認識、触覚というよりも、小さな音に耳を澄ますような感覚に近い。もしかしたらそれら全てかもしれない。
頭で考えたことよりも、多くのことを私の”手”は知っている。
言葉になる前、形に現れる前、その微かな兆しに私よりも先に”手”が気付く。
この"音"に神経を澄ましていくと、深く深く土の中に潜っていくようで、土が私の過剰な熱を優しく引き取ってくれるように感じる。
手は何よりも優れた道具にもなる。手は土の"音"を聴き、加える力の強弱、高低を調整しながら土と会話する。
土はするすると、時にこつこつと姿を変容させていく。全てを受け入れる器にもなり、高らかにそびえる塔にもなる。
先史時代の人々にとっても、きっと、自らの手によって土が形を変え、暮らしの道具にそして祈りのモチーフにもメタモルフォーゼしていく様子に、純粋な喜びがあったのだろう。
自らの身体をもって土塊が姿を変え、新たな形を創造できるのだ。
なんて素晴らしいことなんだろうと、嬉しくて心がふるふると揺れる。
しかし、いつも思うように造形ができるとは限らない。
うまくいかないこともある(その方が多いかもしれない)、逆らえないこともある。
土には性格も意志もある。土は元あった形に戻ろうとする性質があり、一方向から力を加えればそれに反発する。
急かされることも嫌がるし、私のついた嘘もすぐに見破る。
土は大らかで、そして正直だから、土の前では真摯でいる必要がある。
作業を終え自宅に戻る。身体は疲れているのだが、それは消耗ではなく、心は落ち着き、満ち足りたものがあると気づく。
土に触れ救われている私がここに在る。
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