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転がる石ころ日記 第5回


角谷郁恵



目地を描く 石を畳む






霰零し(あられこぼし)という、美しい名前の敷石の手法がある。

空から降る霰が地面に満ちているかのように、小石が敷き詰められている。

桂離宮にある御幸道はこの霰零しによって造られている。

雨に濡れた小石たちが、月の光に照らされてきらきらと輝く様に思いを馳せると、時間は永遠になり、かつての人々の感じる美しさの普遍性に触れる。


とても緻密で繊細な佇まいは、作り手の技術、施主の思い、この庭がいかに贅沢で粋なものであるかを知らしめる。途方もない造形物である。


加茂川から運ばれた小石たちは選別され、置かれる位置までも指定があったという。

小石は上部の平らな面だけを覗かせ、残りの体積のほとんどは地中に埋まっている。

この端正な美しさは徹底された美意識と技術によって支えられている。



私はこの桂離宮の庭に憧れ、作品を作り始めた。


        

               

桂離宮の霰零しの写真を撮影し、石の形を薄葉紙に写し番号をふり、同じ形の石を紙で作り、並べていく。

以前、実物を元にせず、適当な形に紙の石を作り、それを敷き詰めて並べてみたことがあるが、石はそわそわと定着せず、なんだかしっくりと来なかった。この庭を作ったかつての職人たちの技巧を思い知った。

まずは、この庭と向き合おう。そう思って、紙の石で庭を作り10年近く過ぎた。

歩けば歩くほど、観れば観るほど、作れば作るほど、知らないことは増え、偉大さを増すこの庭に飽きる日は当分来ないのだと思う。




ある時、幸運にも庭師の方に石畳みの敷き方を教わる機会があった。

紙の石なら敷き詰めて来たのだが、本当の石を敷いたことはなかった。

当たり前だが本物の石は重たく、石の形は歪で、平らな面を他の石の高さと揃えて並べるためには想像していたよりも深くしっかりと土を掘る必要があった。また隣り合う石同士のバランス、大きさや形など留意しなければならない点が幾つもある。全体のバランスを見ながら敷き詰めていくが、途中で辻褄が合わなくなりせっかく置いた石を外し、正しい組み合わせを探し直す。

身体と意識を強く結びつかせながらひたすら石を観て、土を掘る。





作業を進める中で、庭師の方から「石だけを意識するのではなく、石と石の間、目地の形を美しく描くように」と言葉を掛けられ、はっとした。

観ていた世界が反転し、図(主体)と地(背景)の関係が入れ替わる。余白は無ではなく、確かにそこに在るのだ。石と石との隙間が単純な十字路のようにならないように、少しずつ目地の交差点をずらしながら石を配していく。すると、今まで見えていなかった網目が連綿と大地に張り巡らされていく。




この時の図と地の反転、意識の切り替え、私の知覚に起こった出来事を形にしたいと思い、霰零しの目地を陶器で成形することにした。

敷石の石のない部分、余白に実体を与える。すると、現れたのは、木漏れ日のようにも、光る水面のようにも見えるしなやかな造形だった。敷石という人の手によって生み出されたものが、自然界の美しさととても親密な関係にあるように捉えられた。優れた美意識によって作られた庭の中には、美しさを支える秩序があり、そしてそれは自然界が生み出す美と通じていた。実際に庭石を敷き身体を持って実感したことを、造形に変換していくことで、私なりにまた世界を感知するための目盛りのようなものが細かくなった気がする。私が手を動かし何かを作るのは、世界や現象を、もっと繊細で鮮明な手触りや実感を持って知りたいからなのかもしれない。



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