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転がる石ころ日記 第3回


角谷郁恵



かたちになる



この夏、私はひたすら、土塊を削り小石を作っていた。



陶土を丸め、ある程度乾いてきたところで、ヘラなどの道具を使いひとつひとつ削りながら、「石ころらしい」かたちに掘り起こしていく。

だが、ただ単純に、丸く均していっても石ころにはならないので注意が必要だ。

手の中に土塊を収めながら、石が転がり、川を流れ、波にゆられ、角が取れていった時間や道のりの情景を思い描く。すると、土塊の中に自ずと石ころの稜線が現れる。削り取るべき線と残すべき線があるのだ。もし誤った選択をしてしまうと、急に石ころとは異った内側から膨らむハリのようなものが生まれてしまう。丸々としたわざとらしい塊になってしまうのだ。

石が石になるには、風や水、時間、辿ってきた道程、といった周囲と作用しあった関係がある。



同じような丸みでも、種子や風船などの形状は、内側から外へ広がる向きで形成されたものだが、石の場合は周囲との関係性によって時間をかけて現れる外から与えられた形だ。そして、外から加えられた影響が、その石固有の強度であったり成分などの石ひとつひとつの本質をより露わにしていく。そこには、受け入れた形がある。まだ角が残る石は若く、小さく丸くなった石には長い道のりがあった。そのすべての形に現象や時間など周囲との関係性が刻まれている。

石ころというのは、地球がデザインして生まれた造形なのだ。



土塊をころころと転がしながら、石ころを作ることは、風になり、水を描き、時間をなぞる行為だった。私は石を作っていたはずが、現象や時間を描きたいと願っていることに気付かされる。そしてそれは、途方もない行為なのだと自らの愚かさを知る。愚かな私は夏が終わっても、まだ石ころを作り続けるのだろう。

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