角谷郁恵
色が濡れる
雨が降るのを待っている。
雨に濡れた世界に柔軟で透明な皮膜が施される。そして、色彩は深度を持ち鮮やかさを増す、光は伸びやかに拡散しはじめる。私はその濡れた色彩を見逃すまいと思う。
水に触れた草木や石は、乾いていた時には隠していた色や模様、光を現す。
浜辺に何気なく転がる粉っぽく白けた石は、雨や波に触れると色彩に青い奥行きが生まれ、秘めていた縞模様を表し出した。さっきまでのなんの変哲もない石ころが、喜んでいるように艶々と光りだす。粉っぽく白けた石/艶やかな光を放つ石、どちらがこの石の本当の姿なのだろう。やがて石は乾き、また元の白ちゃけた姿に戻ってしまう。私には、どうもこの石が本性を隠し、陸地では何食わぬ顔で転がっているように思える。やがて潮は満ち、石は海の中でいきいきと鮮やかな色彩を放っている。
植物染料から糸を染める時、その工程のほとんどは水の中で行う。染液の中をユラユラと揺蕩う白い絹糸に植物が持つ色の性質が吸い込まれていく、そして、アルミや鉄などの鉱物を溶かした媒染液に絹糸を潜らせると植物・絹・鉱物は互いに反応し合い、新たな色彩を引き出し、色を留め結びつかせる。最後に雑味や余剰な成分を水で濯ぎ落とす。水中で行われる、この少し魔法じみた一連の過程の中だけで見ることのできるあの色彩は、生命味を帯び、自ら光を持つように見える。しかし、濡れたままでは織ることも、纏うこともできないので、絹糸は捌き、乾かされてゆく。糸は乾くと穏やかに色彩を包みこむ。乾いた後も、もちろん美しいのだが、あの水の中で起こっていた色彩の煌めきに、どうしても心惹かれる自分がいる。
石も、絹糸もその色が濡れた時、生命味を帯び、輝き始める。色に深度が加わり、透明な中に光を含む、そして色彩という現象になり、絶えず運動し揺らぎ表情を変える。水は奥深くへと浸透し内側にあるそのものの本質を誘い浮かびあがらせる。そして水自体が柔らかなレンズとなり、私たちがそれぞれに持つ網膜は、その現象を感受して色彩を写す。水に触れたそのものが美しいのは、生命のはじまりを思えば当然のようにも感じる。
日本画を描く時に用いる岩絵具や水干絵具では、水分や膠を含ませ濡れた状態で描き、そして乾かし定着させるのだが、この時のそれぞれの色の状態を「濡れ色」、「乾き色」と呼び分けるそうだ。日本庭園も、雨の日こそ訪れるのが良いという、雨に濡れた庭石と、碧々と茂る苔は雨粒に触れより一層、色彩を深める。
いつか、濡れた色彩を持つ作品が作れないだろうか。
雨が降るのを待ちながら、ぼんやりと思う。
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