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走ってゾウから逃げる 第8回

  • 7 日前
  • 読了時間: 9分

美しいゾウ

大石友子


 ある日曜日の夕方四時過ぎ頃、移動販売のアイス屋さんから購入したココナツアイスをホストマザーと食べていると、少し離れたところから悲痛な叫びのようなゾウの鳴き声が聞こえた。


 ゴーーーー。


 私は、その声が約四ヶ月間治療を続けてきた四歳のオスゾウ、ブンサム*の母ゾウ、ブンリーのものだと感じた。根拠はないけれど、そうとしか思えなかった。そして、先天的な病が原因と思われる背骨の異常を抱えたブンサムが、この世界から旅立ったことを悟った。


「どこのゾウかしらね」


 ホストマザーがそう言ったが、私は答えないまま自分の部屋に戻り、ホストファザーがDIYで作った木製のデスクの上に置いてあるスマートフォンを手に取った。その瞬間、私が調査を行っているエレファント・ホスピタルの獣医師、ナット先生から着信があった。すぐに応答する。


「ハロー? 友子、急いで伝えなきゃいけないことがあるんだ。ブンサムが逝った。その、つまり、ブンサムが亡くなったってこと。そう、死んだんだ」


 ナット先生は、私に確実に伝わるように、死を複数の異なるタイ語の言い回しで表現した。


「いま、ブンサムが感染症にかかっていた可能性を検討しているから、友子は家にいて。今日対応に当たったメンバーだけですべてを完結させたいんだ。きみたちがブンサムを、その、あぁ、すごく、うん、とても大事に思っていたことはわかってる。だからすぐに電話したんだ。けれど、お別れの挨拶は明日にしよう。いいね?」


 いつもよりも言葉を丁寧に選びながら、ナット先生は電話を切った。

 ホスピタルでは、毎日ブンサムにレーザー治療を行なっていたため、私を含めた経験の浅いスタッフたちはやんちゃで感情表現の豊かなブンサムとの交流を深めており、特別に思い入れがあった。経験豊富なナット先生は、一頭一頭のゾウを大切にすることは大事なことだけれども、獣医学に携わる者にとって自分のなかで個々のゾウの存在が大きくなることは危険なことだと常々言っていた。そのゾウに何かあったとき、心が乱され、適切に判断することが難しくなることがあるから、と。


 私は、スマートフォンを握りしめたまま、大きく息を吸った。視界がにじみ始めたのを感じ、急いで目を閉じて眉間にぎゅっと力を入れる。私は泣いていい立場にいない。悲しみが涙にならないよう、込み上げてくる感情を息とともにゆっくりと吐き出した。


 ブンサムの家族は、きっと大声をあげて泣いていることだろう。それは、今までに〈ゾウの村〉で何度も目にしてきた光景だ。普段は頑固で無口な男性も、口が達者な女性も、老いも若きも、男も女も、自分が長年ともに暮らしてきたゾウが死んだとき、人目も憚らずに泣き叫ぶ。もう動かないゾウの身体に身を寄せ、顔を埋め、その場を離れようとしない。その姿を見ているだけで、涙が溢れ出そうになる。〈ゾウの村〉における人々とゾウの関係は、それほどに濃密なものだ。


 ふと窓の外に目をやると、沈みかけているどんよりとした太陽が見えた。



 その翌日、私はホスピタルのスタッフたちとともにブンサムの葬儀に参列した。

 この地域では、ゾウは森林において半野生状態で飼育されてきた。そのため、1980年代頃まで、ゾウは森で最期を迎え、その身体は野生動物や細菌によって分解されることで土へと還っていった。しかし、外部者による森林伐採が生じたことでゾウがゾウ舎で飼育されるようになった現代においては、ほとんどのゾウが村のなかで息を引き取る。遺体は、クレーン車とトラックで寺院の境内に設けられたゾウの埋葬地に運ばれ、寺院の僧侶が読経したのちに土葬される。


 葬儀の最中、ブンサムの所有者である50代女性のタムさんはずっと泣いていた。ブンサムが生まれたときから面倒を見ており、孫とともに成長する様子を見ていた彼女は、なぜ他のゾウではなくブンサムがこのような運命を背負わされたのかと問い続けてきた。それと同時に彼女は、背骨の根本的な治療法や、苦痛を取り除く手段がない以上、早く旅立った方が楽になると生前のブンサムに言い聞かせていた。そんな正解のない状況でブンサムのことを想い続け、ケアを続けてきたタムさんの負担の大きさは、私たちには想像し難いものだ。タムさんとともにブンサムの世話をしてきた夫でありゾウ使いでもあるチャートさんは、眉間に皺を寄せながら、何度も鼻を啜っていた。


 タムさんの弟や親戚も集まり、ブンサムに最期の別れの言葉を告げ、マリーゴールドの花を捧げた。


「ブンサム、美しい容姿のゾウだった」

「美しいから、他のゾウより早くあっちの世界に呼ばれた」

「ブンサムだけではない。美しいゾウはみな短命だ」


 人々はブンサムが美しいゾウだったこと、それゆえに短命だったことを口にした。その言葉は、ブンサムの背骨に異常が生じ、段々と体調が悪くなるなかで何度も耳にした言葉でもあった。


 ここでの「美しいゾウ」とは、単に個人の感性として特定のゾウに美しさを感じているということではない。タイには、ゾウに関する知識に基づいて編纂されたインドのテキストを元にした「象学」と呼ばれる古い学問がある。そのなかに、良質もしくは劣質とされるゾウの身体的特徴を記述した「象相学」と呼ばれる領域がある。「象相学」では、身体に悪い部分や不吉な相が見られず、動作が優美なゾウが「良いゾウ」とされる。「良いゾウ」の最たるものが、かつてシャムの国旗にも描かれた白象だ。


 「象相学」は、アユタヤ時代(1350年〜1767年)に、とりわけ国王に献上すべきゾウの具体的な特徴を示す上で重宝された。しかしながら、これは決して過去の遺物ではない。タイでは現代においても、「象相学」を基準として「良いゾウ」とされる「傑出象」、「稀色象」、「短牙象」**を国王に献上する実践が行われている。献上は法律によって義務付けられていることもあり、ゾウとともに暮らすクアイのゾウ使いたちは、何がその特徴であるのかをよく知っている。「美しさ」は、このような「象相学」で規定されてきたゾウの身体的特徴に由来して見出される。



 日本には「美人薄命」という四字熟語がある。これは、中国北宋時代の詩人が書いた詩の一節に由来するものとされている。原文では「薄命佳人」と書き、年齢を重ねて身を隠した芸妓が、人知れず命を終える様相を表しており、必ずしも短命を意味するものではなかったようだ。しかし美人薄命は、美しい人は早くに亡くなるという意味でしばしば使われる。


 「美象薄命」とでも表せようか、〈ゾウの村〉では「美しいゾウの命は短い」と言われる。それゆえ、人々は生まれてきたゾウが美しいと感じたとき、「良いゾウ」の諸条件と照らし合わせ、そのゾウが王室による手厚い保護と世話を受け、良い環境で過ごすことが出来る可能性を探る。誰しもが、自分の家に生まれてきたゾウには健康で、長く生きて欲しいと願う。しかし、すべての美しいゾウが献上すべきゾウの条件に当てはまるわけではない。ブンサムもまた、美しいとされながらも王室に献上されることのないゾウの一頭だった。


 なぜ美しいゾウは短命とされるのか。その理由はゾウ使いたちにもわからない。しかし、彼らにとって、それは言い伝えや何かの隠喩ではなく、まぎれもない事実として経験されている。私自身、彼らが美しいというゾウが生まれてすぐ、もしくは幼少のうちに突然死する様子を目の当たりにしてきた。人々が言うように、まるで美しいから神さまにあちらの世界へ呼ばれたようだった。


「おやすみ、ブンサム。私の美しいゾウよ、生まれ変わったらまた私たちのところに帰っておいで」


 タムさんは、ブンサムの墓でひざまずいて目を瞑り、両手を合わせながらそう言った。チャートさんはそんなタムさんを優しい目で見守っている。私たちは、寺院を後にして、ホスピタルに戻った。


 それから二年経ったブンサムの命日、私たちはタムさんの隣の家で腹痛を訴えるゾウの診療を行なっていた。すると、タムさんの家の敷地内にいるブンサムの母ゾウ、ブンリーが立て続けに何回か鳴いた。それは、ゾウたちが一緒に暮らす親しい人やゾウに対して発する鳴き声だった。


「どうしたんだ、ブンリー。聞いたことない鳴き方だな」


 ゾウ使いがそうつぶやいた。私たちがブンリーの様子を窺っていると、タムさんが家屋から飛び出して、ブンリーに駆け寄るのが見えた。


 ナット先生は何か事件が起きたのではないかと言い、タムさんの元へと走って行った。それを見て、スタッフのマットと私、そしてゾウ使いも慌てて後に続く。ナット先生はタムさんに大丈夫か尋ねた。タムさんは泣いていた。


「大丈夫、大丈夫。ブンサムがいたみたい。命日だから、家のことが気になって帰ってきたのかもしれない」


 ブンリーはタムさんに寄り添いながらも、誰かの「声」を聞き取ろうとしているかのように両耳を大きく広げていた。ブンリーの耳には、もしかしたらブンサムの「声」が聞こえていたのかもしれない。


「タムさんの美しいゾウは、心が美しいゾウだったんです。だから、どれくらい生きたかは重要ではなくて、短い時間だったとしても十分にタムさんの愛を感じていたんだと思います。きっと、だから帰ってきたんですよ」


 ホスピタルのスタッフのなかでも、ブンサムとよく遊んでいたマットがそう言った。マットの目は涙で潤んでいたけれども、それを溢れさせることはなかった。その代わりに、タムさんが大粒の涙を流した。


 容姿が美しいとされるかどうかとは関係なく、〈ゾウの村〉の全てのゾウは、生まれた場所で多くの人やゾウと関係を築き、愛し愛されるかけがえのない存在だ。ゾウ使いやその家族は、ゾウたちがどんな容姿であれ、生まれてきて良かったと思える一生を送って欲しいと願っている。


 そんな具体的な関係のなかにゾウが生きているとき、そのゾウの内面に美しさを見出すことが可能となるのかもしれない。それは「象相学」で規定された容姿の美しさとは異なる、個々のゾウが放つそれぞれの色の輝きだ。


 ゾウ使いではない私たちは、そうした美しいゾウたちの命を見守り続ける。それは、ゾウ使いとゾウの具体的な関係を尊重することであり、葛藤しながらも個々のゾウと向き合い続けることでもある。その先に、ブンサムのような美しいゾウが短命であることを運命付けられることのない未来が来ることを夢見ながら。


*本稿のゾウとその関係者の名前は仮名を使用する。

**桜田育生 1994『タイの象』(めこん)の日本語訳を参照。


写真1:ブンサムの訃報を聞いたときに撮った自室からの景色

写真2:白象を模して色が塗られたゾウ(ゾウの健康に影響のない塗料が使用されている)

写真3:柵の間からこちらを窺うブンサム

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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