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走ってゾウから逃げる 第7回

  • 5月29日
  • 読了時間: 8分

存在しないゾウの神様

大石友子


 灼熱の日差しが降り注ぐある日の午後のこと。〈ゾウの村〉の観光施設でゾウとゾウ使いの相互交渉について行動観察をしていると、突然後ろからドスンと大きなものに追突され、私は勢いよく地面に向かってダイブした。


 膝が擦りむけたように感じたものの、すぐに後ろを振り返り、状況の把握を試みる。私の背後に立っていたのは6歳のゾウ、ボープローイ。予期せぬ衝撃と痛みに足が震えていたが、なんとか立ち上がり、こちらをじっと見ているボープローイと距離を取った。


 人間とゾウは、一生の長さがほぼ同じということもあり、成長のスピードもほぼ同じだとされる。6歳というのは、少しずつ社会のことが分かり始めてはいるものの、まだまだやんちゃな年頃である。それゆえ、このくらいの年齢のゾウは、人間との距離感や人間とゾウの身体的な差異をまだ理解しておらず、人間に怪我をさせることもしばしばある。


 ボープローイの様子を伺いながらゾウ使いを探すと、呑気にエナジードリンクを飲みながら友人と談笑しているのが見えた。私は、ボープローイが生まれた頃のことをよく覚えていた。けれども、これまでに交流があったわけではないため、彼女の性格や行動を熟知しているわけではなかった。そこで、事故が起きないよう、よく知るゾウの後ろにそっと隠れた。


 しかし、その瞬間ボープローイが走り出し、再び私の背後を取ったため、私は二頭のゾウの間に挟まれることとなった。ボープローイがなぜ私を追いかけてくるのかがわからない上に、彼女の行動も予測不可能なため、緊張で冷や汗をかいた。


 ボープローイの鼻が私の腕に伸び、手首を摑んだ。このまま引き倒されて、踏み潰されるのではないかという恐怖にとらわれた。ボープローイは、私の手をぐっと引っ張り、自分の脇の辺りへと誘導した。そして、私の手をまるで拾った小枝のように、ある一箇所に何度も擦り付けた。


「かゆいの?」


 そう尋ねても答えが返ってくるわけでもなく、私はその部分を指の腹でさすってやった。すると、ボープローイは私の方に身体を寄せてきた。その重さに私はまた倒れそうになったものの、全身を使って押し返しながらさすり続けた。すると、ボープローイは気持ちよさそうにゆっくりと瞼を閉じた。その仕草を見てやっと、緊張が解けていった。


「ありゃ、いつの間に仲良くなったんだ」


 しばらくすると、ゾウ使いが微笑みを浮かべながらとことこと私たちのもとへやってきた。私が「仲良くないし、無理矢理お世話させられてる」と言うと、ゾウ使いはニカっと笑った。ゾウとともに外にいることが多いために日焼けした褐色の肌と、真っ白な歯のコントラストが眩しかった。


「ボープローイはお前のことが好きみたいだ。お前、ゾウの神様から愛されているんだな」


 その日から、ボープローイは私を見かける度に突進し、身体をすり寄せるようになった。なぜボープローイはこんなにも私のことを気に入っているのか、なぜ私なのか、その行動にはどのような意味があるのか、私にもゾウ使いにもわからない。だから、私たちは「ゾウの神様」を召喚することで納得することにした。



 タイにおいて、ゾウは神聖な動物とされている。アジアの広い地域に伝播した古代インド思想においては、ゾウを所有することがチャクラヴァルティンという理想的な王の条件の一つとされていたという。とりわけ、皮膚の色が白やピンクに近いアルビノのゾウや、耳や背の形が美しいとされるゾウを多く所有することが、正統な王であることを示す指標とされた。それゆえ、ゾウは王権の正統性を示す象徴的な存在とみなされてきた。


 また、ゾウは宗教的にも重要な意味を付与されている。仏教において、白いゾウは仏陀の生まれ変わりであり、吉祥をもたらすとされている。タイにおいて仏教と同じく広い地域に浸透しているヒンドゥー教では、ゾウの頭を持つガネーシャ神は障害や困難を取り除き、財運をもたらす神として信仰されている。加えて、インドラ神の乗り物とされる三つもしくは三十三の頭を持ったエラワン(サンスクリット語ではアイラーヴァタ)と呼ばれる白いゾウもまた、幸運をもたらす存在として信仰の対象となっている。

 

 こうした思想や宗教のイメージから、ゾウは徳の高い動物とみなされている。タイ東北部を中心とした広い地域において、出家や葬式などの仏教行事でゾウに乗ることは、縁起が良く、豊穣をもたらすものとして捉えられている。それ以外にも、ロート・トーン・チャーンと呼ばれるゾウの腹の下を三回くぐる儀礼を行うことで、あらゆる障害や困難を乗り越え、幸運を呼び込み、不幸を遠ざけることができるとされている。タイ人にとってゾウは、神や仏に近い存在なのだ。


 〈ゾウの村〉でも、学校でヒンドゥー教の行事が行われる際にガネーシャ神への祈りが捧げられたり、村の寺院で行われる出家式にゾウが何十頭も参加したりする。村内にある観光施設には、ガネーシャ神やエラワンの像も設置されている。それだけを見れば、ゾウを飼育するクアイの人々にとっても、ゾウは神聖な動物として信仰の対象となっているかのように見える。


 しかしながら、実際に村で過ごしていると、ゾウは信仰の対象に留まるような存在ではないことがわかる。ゾウとともに暮らしていると、ゾウたちそれぞれが全く異なる性格を持ち、それぞれの仕方で人間やゾウとの関係を築く存在であることを否応なく実感させられる。プーカムスーン(第二回「テントからゾウを覗いて」)のように近づいてくる人を警戒して攻撃する姿勢を見せるゾウもいれば、ジュップジェーン(第三回「声に耳を傾ける」)のように絶えず周りの人々やゾウとコミュニケーションをとっているゾウもいる。なかにはボープローイのように、特定の人に愛着を示し、独特な方法で関係を深めようとするゾウもいる。そんなゾウたちとともに生きるゾウ使いやその家族が、ゾウを神聖な存在とみなしたり、信仰の対象として扱ったりすることはない。


 ただし、彼らによれば、ゾウには精霊のゾウ使いがついているという。その精霊のゾウ使いは、かつて野生ゾウの捕獲を行った経験のあるクアイの祖先かもしれないし、そうではないのかもしれない。いずれにせよ、クアイのゾウ使いとその家族は、ゾウは人間が知覚するよりも多くの存在との関係を築きながら生きていると考えている。そして、そこには精霊のゾウ使いなど、あらゆる目に見えない存在が含まれる。




「あなたはゾウの神様に愛されている。博士課程で成功を収めることでしょう。だから安心して、自分が取り組みたいことに真剣に向き合いなさい」


 私が博士論文執筆に向けた長期のフィールドワークを行っていたとき、ふいに〈ゾウの村〉の母がそう言った。母は精霊に許しを乞うて切ったゾウの尻尾の毛を水に浸け、柔らかくしながら、指輪を編んでいた。


 村の内外には、さまざまな精霊がいる。野生ゾウの捕獲を行った経験のある祖先の精霊、精霊のゾウ使い、土地の精霊、森の精霊、川の精霊、人の姿をした精霊、動物の姿をした精霊。それらは、精霊と呼ばれることもあれば、主や神、天使と呼ばれることもある。私たちとは異なる嗜好や性格を持ち、別様の世界を生きる存在だ。


 そうした精霊たちに言及するように、村の人々は「ゾウの神様」について言及することがある。しかし、彼らが「ゾウの神様」と言うとき、それは多くのタイ人が信仰するガネーシャ神やエラワンを指すわけではない。クアイの世界において、ゾウの姿をした神や、ゾウを司る神は存在しない。「ゾウの神様」は、存在しない神様なのだ。


「ゾウの神様なんていたっけ?」


 私がそう尋ねると、母はおちゃらけた様子でアハハと笑った。


「存在しない神様のこと。私たちの世界にはいない神様。けれども、そんな神様がいたらいいなって思うことがあるでしょう。あなたはまるでゾウを統べる神様からの加護を受けたように、人やゾウに愛され、真っ直ぐで誠実にここでの探究を続けている。だから、そんな神様がいて、あなたを守ってくれているように感じるし、そうであって欲しいと思っているのよ」


 母はそう言うと、編み終えたばかりの指輪を、私の右手の人差し指にはめた。


「右手の人差し指にはめた指輪は、進むべき方向にあなたを導いてくれる。ゾウの神様に導かれてあなたはここに来た。そして、あなたはゾウの神様に導かれて進んでいく。大丈夫。あなたの博士論文は必ず素晴らしいものになる」


 存在しない「ゾウの神様」。しばしば召喚されるその神様には、実体も、歴史も、信仰もない。けれどもその神様が召喚されたそのとき、ありとあらゆる物事が、まるで最初からそうなることが決まっていたかのように腑に落ちるものとなる。


 2026年1月の中頃、博士論文の公聴会と審査を終えた私は、誰よりも先に〈ゾウの村〉の母に電話をかけた。審査員の先生方からのコメントや質問をかいつまんで話し、評価を伝えると、母は「ほらね」と言った。


「ほら、大丈夫だったでしょう。ゾウの神様はあなたを愛し、いつも見守っている」


 その言葉に、フィールドワークでお世話になった人々やゾウたちの顔が思い浮かんだ。高校生のときにはじめて〈ゾウの村〉を訪れたことも、それ以来、多くの人々やゾウたちに出会ったことも、この博士論文を書いたことも、まるで全てが最初から「ゾウの神様」に導かれたことであったかのように感じた。


 「ゾウの神様」は存在しない。けれども、「ゾウの神様」がいるとすれば、それはいつも私を見守ってくれ、愛してくれる一人一人、一頭一頭のことなのかもしれない。


 「ゾウの神様」の御胸に抱かれて、たまにゾウに追いかけられたり、どつかれたりしながら、これからもクアイの人々とゾウとともに研究の道を進んでいく。「ゾウの神様」は、これから私たちをどこに導いてくれるだろうか。




*写真1:ボープローイに調査を妨害されている様子(ゾウ使い撮影)

*写真2:学校の行事でバラモン司祭から頂いたガネーシャ神

*写真3:仏教行事のために模様を描かれたゾウ

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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