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走ってゾウから逃げる 第3回

  • 大石友子
  • 3 日前
  • 読了時間: 8分

声に耳を傾ける

大石友子


 昭和に建てられた木造の長屋が多く残っていた、静岡県静岡市のとある町。そのほとんどは借家で、五歳前後の子どものいるいくつかの家族が暮らしていた。子どもたちは、お互いが兄弟のように一緒に遊び、毎日のように近くの田んぼや溝川へと通っていた。


 そこにいるタニシも、ヒルも、ドジョウも、私たちにとっては遊び相手だった。


 私たちの暮らしていた町は、かつて神さまが足を洗った場所だと言い伝えられている。家の周りにはいくつもの小さな水路があった。私たちは車道ではなく、家の間を流れる水路の脇道を好んで通った。


 田んぼに囲まれた農業用水が流れる水路では、なかに入ってタニシを集めて遊んだ。生活排水が流れる暗い水路では、弟が水に落ちたり、友達がヒルに噛まれたりした。だから、農業用水の水路には親しみやすさを、生活排水の水路には薄気味悪さを感じていた。


 私は、水路の脇を通って、稲を植える準備をし始める前の、レンゲが咲く田んぼに行くのが大好きだった。この季節の田んぼは、まだ田おこしや水入れがされていないため、なかに入って歩くことができる。私は、よく母を誘って一面に咲く桃紫色のレンゲを摘みに行った。母が作ってくれたレンゲの花かんむりは、いまもずっと私の心に残る宝物だ。あたたかい夕陽に照らされてレンゲを編む母は、優しくて、美しくて、絵本のなかのお姫様のようだった。

 

 私と母を包み込む風のなかに、さまざまな音が聞こえた。レンゲやナズナなどの植物が揺れる音。水路を水が流れていく音。虫の羽音。鳥たちの囀り。そして、母の声。あらゆるものたちの気配に耳を傾けながら、母と手をつなぎ、私はそこにいた。かつて神様が足を洗った水のなかに、私たちは生きているようだった。

 

 そんな優しい場所を離れてから、十年以上の歳月が流れた。それでも、いまもこの場所とは夢のなかでつながり続けている。

 

 家に遮られて日の光が当たらない水路の脇の細い道は、表面が苔で覆われている。そこを抜けると、立派な扉を備えた白色や灰色、クリーム色の「いま」の家が建ち並んでいる。見覚えのない家々を眺めながら歩いていくと、誰かに呼ばれたような気がした。


 立ち止まって振り向くと、家の駐車スペースにいるゾウと目が合った。そのゾウは、私がよく知るゾウのようにも思われたし、そうでないようにも思われた。


 クアイのゾウ使いたちは、何年も一緒に暮らした親しいゾウの死に際に、来世でも自分の元に戻ってくるように、と言うことがある。私も、ある親しかったゾウが最期の呼吸をするその瞬間に、願ったことがある。私の元に戻ってこいとは言わないけれど、また会いにきてほしい、と。だから、もしかしたら会いにきてくれたのかもしれないと思い、私はそのゾウに問いかける。


「私を呼んだのは、あなたなの?」


 その夢は、いつも返事を聞く前に終わってしまう。風のなかに、レンゲの揺れる音が聞こえる。母の優しい声が聞こえる。もしかしたらそのゾウの声もあったのかもしれない。そう思いながら耳を傾けるけれども、少しずつ世界は遠のいていく。



 バシ! ゴン! プォーーーーー!


 私はその音に驚いて飛び起きた。


 村にいると、ゾウに叩き起こされることがしばしばある。もちろんゾウが叩き起こしに来るわけではない。だいたいは、突き飛ばされた牧草の茎や石が家の壁に当たる音や、プラスチック製の椅子が踏み潰される音、そして鳴き声で起こされる。


 私は、ホストファミリー宅の二階にある自室の隣部屋の窓から、裏庭のゾウ舎にいる六歳のメスゾウ、ジュップジェーンを覗いた。ジュップジェーンはこちらに向かって耳を大きく広げていた。家や家族の様子を伺っているようだった。


 時刻は朝六時半。通常ならホストマザーが朝のルーティンである托鉢と朝食の準備をし、長男がゾウ舎の掃除を始める時刻だ。しかし、ホストファザーが急病で入院していたため、ホストマザーは付き添いで病院に寝泊まりしており、長男夫婦がそのサポートをしながら両親に代わって家事や仕事を行なっていた。私も日中はエレファント・ホスピタルでの調査を続けつつ、掃除や洗い物などの家事をしたり、長男夫婦の二人の子どもたちの面倒を見たりしていた。二ヶ月以上そんな生活が続いており、私たちはとにかく疲れていた。何日目かの全員で寝坊する朝だった。


 そんな私たちに対してジュップジェーンは「お腹が空いたけど、食べるものがないよ」「気配を感じないけど、なにをしているの?」と「言って」いるようだった。


 私はまだ誰も起きていない家の玄関を開け、誰かのサンダルを突っ掛けてゾウ舎へと向かった。


 ゾウ使いであれば、朝一番にするのはゾウ舎の掃除だ。ゾウが食べ残した牧草や糞を拾い集めてから、新たな牧草を与える。だが、私はゾウ使いではないので、掃除の過程を省いて、ピックアップトラックに積まれた牧草を両腕いっぱいに抱えて運んだ。ジュップジェーンは鼻で牧草を受け取ると、口へと運んでバキバキと音を立てながら食べ始めた。


 一度は、掃除はしないと心に決めたものの、耳をパタパタさせながらご機嫌に牧草を食べるジュップジェーンを見ていたら、罪悪感が芽生えた。仕方なく、近くから竹箒を持ってきて糞を少し離れた場所に集めておく。


 パゥ!


 遠くからでもよく通るゾウの鳴き声が聞こえた。約一キロ離れたところにあるホストファミリーの畑のゾウ舎にいるジュップジェーンの父親、ユーニーの声だ。


 ジュップジェーンは畑の方向に耳を広げ、ゴロゴロと低い音を発した。ゾウたちが長距離のコミュニケーションに用いるランブル音と呼ばれる超低周波音声だ。ゾウたちは相手の超低周波音声を足の裏で「聞く」。彼らは、10キロ離れた相手ともこの方法を使って「会話」することが出来るという。ゾウたちの発する超低周波音声は15ヘルツから25ヘルツを基本としており、人間には聞き取ることが難しい。しかし、近くのゾウが発した音や、成長途中のゾウが発した音であれば、聞こえる場合もある。


 その後、ジュップジェーンはゴロゴロという音を発しては、動きを止めて「耳を傾ける」という仕草を何度か繰り返した。ユーニーの「声」は私には聞こえない。ジュップジェーンを近くで見ていてわかるのは、彼らが何か「会話」しているということだけだった。



 ゾウたちは、超低周波音声を用いて「会話」するのみならず、足の裏を通じて大地からの超低周波音を感じ取っている。2004年12月26日のスマトラ島沖地震によるインド洋津波発生時にタイ南部プーケット県で働いていたクアイのゾウ使いは、津波が到達する前に自分のゾウが落ち着かない様子を見せたため避難をし、被害を逃れたという。また、2011年3月11日に発生した東日本大震災や、2025年4月14日に発生した米国カリフォルニア州の地震では、動物園で飼育されているゾウが集まり、警戒時に群れを守るために作るアラート・サークルと呼ばれる円形を組む様子が報告されている。


 『森は考える』の著者である文化人類学者のエドゥアルド・コーンは、エクアドルのアマゾン河流域でのフィールドワークで、現地の人々に耳を傾けるなかで、現地の人々が人以外の存在の声に耳を傾けていることに気付いた。そして、人々の人以外の存在との交流に耳を傾けることで、人間同士の言語を使用したコミュニケーションに留まらない森、人、動物などの記号過程を描き出す民族誌を書き上げた。コーンの民族誌は、耳を傾けることで開かれるイメージの連関から人類学的に考え、記述することの可能性を体現したものだ。


 クアイのゾウ使いたちも日々、ゾウの「声」に耳を傾けている。それは声帯音に限らず、ゾウがゾウ使いやその家族とコミュニケーションをとるために鼻を使って独自に作り上げた音や、物を使って出す音、身体の動きや表情など、様々なモードの「声」が含まれる。その「声」にゾウ使いたちは五感を使って「耳を傾けて」いる。それでも、超低周波音声のように「聞こえない」こともある。


 ゾウたちもまた、私たちの「声」に「耳を傾けて」いる。私たちの「声」は、ゾウに比べて声帯音による言語コミュニケーションに偏りがちだが、それでもゾウと同じように身体、表情、道具などを用いた複数のモードが存在する。少なくとも、ゾウたちにとって、ゾウ使いなどの親しい人間の乗るバイクのエンジン音は「声」として捉えられているようだ。もしかしたら、ゾウたちは「声」として、大地からの超低周波音に「耳を傾けて」いるのかもしれない。私たちにとっては静かな村も、彼らにとってはたくさんの「声」に溢れているのだろう。


 私も耳を傾けてみる。ジュップジェーンとユーニーの「会話」は聞こえない。大地の「声」も聞き取れない。それでも、風のなかに彼らのおしゃべりが聞こえそうな気がして、いつまでも耳を傾けてしまう。夢のなかでもいいから、私たちには聞こえない彼らの「声」を聞いてみたい。




*写真1:レンゲの花

*写真2:ジュップジェーンとゾウ使い親子

*写真3:私に「耳を傾ける」ゾウ


*参照文献

・Langbauer, W. R. 2000. Elephant Communication. Zoo Biology, 19(5), pp.425–445.

・エドゥアルド・コーン 2016 『森は考える–––人間的なるものを超えた人類学』奥野克巳・近藤宏監訳 近藤祉秋・二文字屋脩共訳 亜紀書房.

・エドゥアルド・コーン 近藤宏 2021 「森の思考を聞き取る人類学」奥野克巳・近藤氏秋・ナターシャファイン編『モア・ザン・ヒューマン–––マルチスピーシーズ人類学と環境人文学』以文社 pp.135-156.

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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