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走ってゾウから逃げる 第1回

ゾウと暮らす

大石友子


「やばい、走れ!」

 クアイの人々とゾウがともに暮らすことで知られるタイ東北部のゾウの村。仏教行事でゾウ、ゾウ使い、村の人々が集まる寺院の正門前でのことだった。周りでYouTubeやFacebookのライブ配信をしていたゾウ使いの妻たちが、寺院とは逆の方向に向けて一斉に走り出した。彼女たちの肩や鞄がぶつかってよろめく私を、一緒に暮らしているウィウが支えてくれた。ウィウに右手首を強く掴まれながら、女性たちの波の一部になって走った。


 そのきっかけは、一頭の牙を持つゾウが咆哮したことにある。触発されるように、周りにいたゾウたちが吼えたけり、驚きやすい性格の若いゾウたちが四方八方に走り出したのだ。ゾウの首元に跨るゾウ使いたちは、振り落とされないように体勢を整えつつ、自分のゾウに対して落ち着くように言い聞かせている。だが、混乱はなかなか収まらない。


 近くの集会所の敷地内に入ってから振り返ると、後ろ足で立ち上がっているゾウがいたり、親しいゾウに不安そうに擦り寄っているゾウがいたり、ゾウ使いにどうするか確認するように鼻でコミュニケーションを取っているゾウがいたりと、先ほどまでゾウたちが整列していたことを忘れてしまいそうな光景が広がっていた。ゾウ使いたちがそれぞれに対処を続けると、次第にゾウたちは落ち着きを取り戻し始めた。夕日に照らされて、ゾウもゾウ使いもねっとりとした橙色の空気に包まれている。


 しばらくすると、何人かの女性たちは再びライブ配信を始めた。私とウィウは目を合わせてから、同じタイミングで大きく安堵のため息をついた。解放された右手首を見ると、掴まれた跡がくっきりと赤く残り、しっとりと湿っていた。手は微かに震えている。ウィウの方はというと、肩に下げているバッグの紐を握りしめて、誰よりも先に走り出した若いゾウのゾウ使いである夫の様子を窺っている。夫の安全を確認すると、再び大きなため息をついた。私もウィウもこの一瞬の出来事にひどく緊張していたのだ。


 ゾウとともに暮らすこと。それは、決してファンタジーの世界のようなゾウとの愛に溢れた日々を送ることではない。


 

 ゾウの村に暮らすクアイの人々とゾウの関係については、タイ人研究者たちによってタイ語で行なわれてきた研究がある。そこでは、クアイの人々はゾウを家族の一員と語るほど親密な関係を築いているとされてきた。しかしながら、タイの経済発展の中で失われゆく「文化」を記録することを念頭に置いたサルベージ人類学的な記述の傾向から、クアイの人々とゾウの親密な関係もまた「文化」に由来するものと見なされ、時代ごとに変容する関係や実践の諸相は不可視化されてきた。喪失の危機にある文化的で伝統的な愛あるロマンティックな関係という幻想と距離を取りつつ、現代を生きるクアイの人々とゾウの実際の関係を描き出すことが、文化人類学者としての私の課題だ。


 私がはじめてゾウの村を訪問したのは2005年。静岡県のNPOが主催する高校生を対象としたスタディツアーに参加したときのことだった。数日間の滞在中、村でゾウの姿を見ることはほとんどなかった。かつて村の人々がゾウを放していた豊かな森林が外部者によって伐採され、村ではゾウの食糧を十分に確保することが出来ない状況が続いていた。ゾウ使いたちはゾウの食糧を得るために、ゾウを連れてタイ全国の観光施設で働いたり、バンコクなどの都市部で行商を行なっていたのだ。こうしたゾウ使いとゾウが村で暮らせるよう、住民たちは観光による地域開発を目指して企業からの支援を取り付けるとともに、行政との交渉を行なっていた。スリン県自治体による観光開発プロジェクトが始まり、多くのゾウが村に戻り始めたのは2006年のことだ。


 そんなことはつゆ知らず、私は一個下の女の子の家庭でのホームステイを楽しんでいた。彼女の両親、兄弟、近所から集まってきた子どもたちと『指差しタイ語帳』を取り囲みながら、質問を投げかけ合っていた。日が暮れて、多くの人が集まる一階の電気をつけたとき、彼女の兄が帰宅して私たちの輪に加わった。彼は片言の英語で「韓国語が話せるか」と私に尋ねた。私はなぜ韓国語なのだろうと疑問に思いつつ「話せない」と答えた。すると、そこからは完全に彼のペースで、彼が韓国でゾウに関連する仕事をしていたことを身振り、手振り、英語、韓国語、写真、ありとあらゆるものを使いながら説明し始めた。一通り話し終えると、彼は目を輝かせながら「お前はゾウが好きか?」と訊いた。実際のところ、村に着いてから一度もゾウを見かけていなかったこともあり、私はゾウには全く関心を抱いていなかった。好きだとも嫌いだとも言えずに曖昧な表情を浮かべる私を気にする様子もなく、彼は「ゾウを見たことがあるか?」「ゾウを見たいか?」と前のめりになって質問を重ねた。その勢いに押されて後退りしつつ、この人はなんだかよくわからないけれどゾウがとても好きなんだなと思ったことをよく覚えている。ゾウを全然見かけないゾウの村で、ゾウのことが好きでたまらない人に出会ったことで、私はそれから何年もゾウの村に通い続けることになった。ゾウのことが好きすぎる人々のことを知りたい、理解したいと願うほど、わからなさは増え続ける一方だ。


 

 クアイのゾウ使いたちと関わるようになってから、彼らがゾウと親密で密接な関係を築いていることを知った。それは既存の研究で描き出されたような「文化」とはほど遠いように感じられた。彼らの関係は、むしろ、個別具体的な一人のゾウ使いと一頭のゾウの日常的な相互交渉と、彼らの日常を形作る自然環境や様々なモノやコトによって、常に変容しながら生成しているように思う。時にはお互いを気遣う親密な関係が立ち現れ、また別の時には緊張関係が立ち現れる。身体的な差異により、ゾウ使いもゾウも傷つけたり傷ついたりすることもある。親密な関係にあることは必ずしも「善い」ものではない。親密さには、愛着、緊張、非対称性、意図せぬ暴力などが絡まり合っている。したがって、彼らの複雑で抜き差しならない関係を一言で説明することは出来ない。私はそんな彼らと一緒に「ゾウとともに暮らすこと」や「ゾウとともに生きること」について考えている。

 

 はじめて村に長期間の滞在をした際に、観光施設で草刈りをしながらゾウ使いたちに何度も言い聞かせられたのは「ゾウがこちらに向かって突進してきたら走って逃げろ」ということだった。迷うな、走れ。とにかく走れ、でもゾウと同じ方向に向かって走ったらダメだ。木には登るな、ゾウがすぐに追いつく。建物に入るか入らないかは強度を見て判断しろ。近くに別のゾウがいたら、その後ろに入り込め。私がクアイのゾウ使いたちから最初に学んだのは、ゾウから逃げる方法だった。

 

 あれから何度、ゾウから走って逃げただろうか。道端で突然現れた犬に驚いてゾウが走り出したとき。観光施設内で雷を怖がったゾウが疾走したとき。予期せぬタイミングでマスト(主にオスゾウに生じるホルモンバランスの変化)に入ったゾウが暴れる兆候を見せたとき。そして、冒頭で触れた仏教行事での出来事のように、ゾウが集まっている際に何らかのきっかけにより混乱が生じたとき。ゾウだって好きで走っているわけではないし、私を目掛けて走ってくるわけでもない。けれど、私が走って逃げることで、お互いにとっての不慮の事故を避け、これからも関係を続けることができる。

 

 走ってゾウから逃げること。それは一見すると、相手を拒絶し、関係を切断しようとしているように見えるかもしれない。だが、ゾウという遠い類縁関係にある生き物との身体的差異に注目したとき、それは相手が統御不可能な主体であることを尊重し、非対称的な関係における自らの脆弱性を自覚するとともに、築いてきた親密な関係に終止符を打たないよう配慮するような、ともに生きるための実践だということがわかる。この実践には、ゾウが決して人間にコントロールされる存在ではないこと、人間とゾウが密接に暮らすからこそ生じる緊張や恐怖、クアイの人々とゾウが積み重ねてきた日々の実践といったことが折り込まれている。だから走って逃げることは、ゾウとともに暮らす上では重要なことなのだ。

 

 ゾウ使いたちがこのような人類学者じみた説明をするわけではない。けれど、彼らがゾウから逃げる方法を私に叩き込もうとした理由を、長年の付き合いに基づく私の理解から説明するとしたらこのようになる。念のため、当時私にゾウから逃げる方法を教えたゾウ使いの一人に確認をとったところ、「お前の言う通りだよ。よくわかってる。全世界に向けて発信してくれ」とのことだった。

 

 ところで、私はゾウ使いたちと親しくなりすぎて、何を尋ねても「お前が理解している通りだよ」と言われてしまうという調査上の困難に直面したことから、クアイのゾウ使いとゾウの関係に関する研究をやめ、距離を取ろうとしたことがある。だが、そんな私の心境などお構いなしに、ゾウ使いたちは自分のゾウのことについて毎日のように連絡をしてきた。話しているうちに、やっぱりもっと知りたい、わかりたいという気持ちが湧き上がった。それでもまだ研究を続けるか迷っていたある日の夜、私は夢を見た。現実では見たこともないゾウの大群が目の前まで迫っていた。私は走って逃げた。逃げていたらいつの間にか大きな湖に入ってしまい、なすすべもなく沈んでいった。底は見えず、深く暗い。絶望。だが、ふと見上げると、キラキラと光を反射する水面をゾウたちが泳いでいくのが見えた。その瞬間、近くまで潜ってきたゾウが作り出した水流によって、私は水面近くまで引き上げられた。水の中から顔を出すと、ピンク色の夕日に染まった世界で、ゾウの大群が水面から鼻だけ出して泳いでいた。それは、息を呑むほど美しい光景だった。その夢を見た翌日、私はゾウの村での研究を続けることを決めた。そうあるべきだと思ったのだ。ゾウ使いたちに決意の連絡をすると、彼らは、私がゾウとの関係を研究していること、彼らと一緒に考えようとしていること、そしてそれを外部に向けて伝えようとしていることを心の底から嬉しく思っていると言った。私もその言葉を嬉しい気持ちで受け取った。

 

 走って逃げても追いかけてくるもの、それがクアイのゾウ使いたちであり、ゾウたちなのだ。私は走って逃げる。逃げながらも彼らを追いかける。彼らもまた走って逃げる。きっとそれをずっと繰り返していくのだろう。その中で私の心に寄せては返すものを、『なぎさ』に綴ってみたい。




*写真1:混乱の後、家に帰るゾウ使いとその娘

*写真2:ゾウに話しかけるゾウ使い

*写真3:夕方の貯水池で水浴びをするゾウとゾウ使い


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