アンジェイ・ワイダ監督の問い ~あなたにはかくまえるか?
小泉美奈子
高野悦子総支配人が1978年のカンヌ国際映画祭でアンジェイ・ワイダ監督の『大理石の男』(1977年公開) を観て圧倒されたことを契機に、岩波ホールでの上映に至りました。1980年に岩波ホールで上映されたこの作品が、ワイダ監督と岩波ホールの出会いです。(この時代のことは私が先輩たちから聞いた話になります)
もともと画家志望で絵画的な作風を特徴とするワイダ監督は、文学にも造詣が深く、芝居の演出もしていました。戦時中にクラクフの博物館で日本美術コレクションを見て衝撃を受け、映画をつくりたいと思い立ち、クラクフ美術大学をやめウッチ映画大学へ進みます。そうして映画監督になったワイダ監督のお仕事の幅の広さと芸術家としての姿勢を、私たちスタッフは尊敬していました。
あるときワイダ監督は、「日本の芸術は珍しい。敗者の芸術だ」とおっしゃいました。義経にせよ平家にせよ、負けたほう、滅びたほうをテーマにした能や歌舞伎が多く、また神社仏閣も敗者を祀っていることに着眼したのです。ヨーロッパは強者の芸術であり、勝ったほうをテーマにすることが圧倒的に多いと指摘されました。
そんなワイダ監督にとって映画作りが難しかった時期があったようです。ポーランドの民主化が進んだことで、撮影所制度に陰りが見えていたころです。高野さんはワイダ監督を京都賞に推薦したいと考えました。京都賞が発足して間もないころで、高野さんは審査委員でした。映画『大理石の男』 の記憶がある方々も多く、映画評論家の佐藤忠男氏をはじめ審査委員が集まりました。高野さんが各方面に働きかけたことも功を奏し、1987年にワイダ監督は思想・芸術部門で受賞されました。
ワイダ監督は、4,500万円の賞金の使い道について、事前に、妻のクリスティーナ夫人と「こんなに大きなお金を日本からもらってどうしたら良いものか」と話し合われたそうです。そして京都でおこなわれた授賞式で、次のようにスピーチされました。
「素晴らしい京都賞を会長からいただくに際しまして、私にとってナチス・ドイツ占領下の戦時中で最も苦しい年にポーランド・クラクフ市で開催されました友好国・日本の美術展という希有な出来事が思い起こされ、私の思いは過去に戻りました。そのとき、私は10代でした。そのときまで、私はこれほどの明瞭さ、明るさ、秩序、そして調和感というものを見たことがありませんでした。
私はたいへん幸せな気持ちでおります。本日いただきました京都賞が、ポーランドと日本の架け橋のみならず、クラクフ市に日本美術館を設立したいという想いをとおして、20世紀と21世紀の架け橋となることを願っております」
ワイダ監督のスピーチにあったナチス・ドイツ占領下の日本美術展の展示物は、ポーランドの日本美術収集家フェリックス・ヤシェンスキが、パリで買い集めたコレクションをクラクフ国立博物館に寄贈したものです。工芸から日本画、浮世絵など膨大なものです。このコレクションが展示されたのはこの時だけで、あとは保管されたままになっていたことを、ワイダ監督は惜しんだのです。
ポーランドに日本美術館を設立するというスピーチに高野さんはすっかり驚いてしまい、「協力しないわけにいかない」と、人脈のすべてを使って支援することになりました。4,500万円という賞金は大金であるものの、美術館の設立資金としては不十分です。そこで全国から寄付金を集めることになりました。岩波ホールを事務所にして、私は会計事務を担当することに。皆さまからの寄付金を整理し、国際交流基金に届け出をして、御礼状や領収書をお送りする仕事です。1989年に始まり、94年の美術館完成まで約6年間続きました。この寄付金は国際交流基金の特定寄付金制度を通して毎年ポーランドに送金されました。京都賞の賞金と合わせて、多くの企業、全国の個人の方々から集まりましたが、目標金額の5億円には足りません。その時に、JR東労組の方々が多大な協力をしてくださって、寄付金は2億6,000万円に到達しました。さらに不足分は、日本政府がポーランド政府への円借款の返還を放棄し、それを充てる形で両国が協力し、ようやく建設のめどが立ちました。
美術館の設計は磯崎新氏が無償で行い、曲線が特徴的なモダンなデザインになりました。建設地はヴィスワ河のほとりに決まっており、向こうにはヴァヴェル城が見えることから、景観に合わせて設計されました。ドイツの竹中工務店が工事を手がけ、この時、磯崎事務所に務めていたポーランドの若き建築家、クシシュトフ・インガルデンさんが現地で活躍しました。地鎮祭には、日本からは神主が、またポーランド側はカトリックの司教が、この土地を清め、祝福しました。
こうして多くの方々のご協力のもと、1994年に日本美術技術博物館“Manggha”(マンガ)がオープンします。Mangghaという名称は、フェリクス・ヤシェンスキの雅号から名づけられました。葛飾北斎の「北斎漫画」から取られた雅号です。
日本美術技術博物館“Manggha”のオープニングレセプションには、当時、国際交流基金に勤めていらした高円宮殿下、そして妃殿下もご臨席されました。日本美術品のほか、ワイダ監督のスケッチ画も収蔵されています。私は2019年11月30日、開館25周年記念日のレセプションに参加しましたが、それは盛大なものでした。また、子どもたちが招待され、巨大なケーキがふるまわれます。この恒例行事を楽しみに足を運ぶ親子連れもいました。クラクフは日本の京都のような古都で、日本文化に親しみを持っている方も多く、この場所がその中心にあることを実感しました。現地でクリスティーナ夫人から聞いた話では、博物館の運営が続くようにと、ワイダ監督作品の版権収入を“Manggha”に寄付しているということでした。本当に凄い行いだと思います。
『大理石の男』以降、ワイダ監督の公開作はすべて岩波ホールが日本における封切館となりました。日本美術技術博物館の募金が一番佳境だった頃の『コルチャック先生』(1991年公開)は、劇団ひまわりで舞台化されました(演出 アレクサンデル・ファビシャック、主演加藤剛)。ユダヤ人孤児院の院長であるコルチャック先生と子どもたちが、ホロコーストによって殺された実話にもとづく悲劇的な物語です。しかし、最後に歌舞伎における「夢の場」(本当は死んでしまったけれど、物語を昇華させるため、夢のようなハッピーエンドをつくる)のようなシーンがあるのです。先生と子どもたちが、列車からワーッと飛び出して草原を走ってゆくのが、とても印象的でした。
ワイダ監督の作品は、①社会的・政治的な作品 ②文学作品を原作とした芸術的な作品と2つに分かれるように思います。あくまで私見なので、専門的な分類は研究者の方にお任せしますので、その点はご了承ください。いずれの作品も、視覚的に理解させる絵画的な表現が特徴的です。これは共産党政権下でシナリオの検閲が厳しかったという要因があるでしょう。ポーランドに限らず東ヨーロッパでは、シナリオ段階で厳しい検閲が行われましたので、必然的に言葉によらない表現が発達しました。『灰とダイヤモンド』(1958年公開) における逆さ磔のキリスト像はポーランドの暗喩と言われています。後の作品ですが、『カティンの森』(2009年公開)の冒頭で、橋の両端から避難する人々が中央で衝突するシーンも印象的でした。西からナチス・ドイツが東からはソビエトが攻めてきて、逃げ場のないポーランドの状況が、あのシーンに象徴されていると思います。
あまり知られていない作品ですが、『聖週間』(1997年公開)についてもご紹介したいと思います。ナチス・ドイツ占領下、ポーランドの大学でユダヤ系の教授が次々に追放されていきます。この物語の時期が、ちょうどキリスト教の聖週間にあたることがタイトルの由来です。焚書のシーンもあるのですが、知識や真理を否定されることに大変な痛みを感じます。
主人公の女性は、ユダヤ系の大学教授の娘で、美人で人気者だったのに、教授が迫害を受けてからは、隠れて生活せざるを得なくなります。そして次第に誰も助けてくれなくなり、彼女はラストでは顔を隠すこともせず、堂々と道に出て歩いていきます。おそらく、あっという間に捕まってしまうことでしょう。
ポーランドだけでなく、ナチス・ドイツ占領下の国の人々が試されていた時代だと思います。「自分のいのちが大事なのか、自分の信念が大事なのか?」と。ワイダ監督は、自分の信念を守り抜こうとする人々に光を当て、観客に問いかけているようです。「あなたなら、この人たちをかくまえますか?」と。この問いは、映画を通して、時代も国も越え、いまの観客、そして未来の観客にも強く訴えかけていくのです。
ワイダ監督のお墓にて
(右から元岩波ホール企画室長の大竹洋子さん、筆者)
<了>
(聞き手:辻信行)
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