2022年7月29日、多くの映画ファンに惜しまれながら閉館した岩波ホール。小泉美奈子さんはアルバイト時代を含めると38年間にわたって岩波ホールに勤め、映画のパンフレットの編集やエキプ・ド・シネマの会員のマネジメント、映画が始まる前の館内放送のナレーションまで担当されてきました。ウェブマガジン「なぎさ」ではこれから4回にわたり、小泉さんの視点から岩波ホールについて語っていただきます。
毎日が文化祭
小泉美奈子
私が岩波ホールの正社員になった1986年、宮城まり子監督の『ハローキッズ!』が上映されました。連日大盛況で、千秋楽の日もお子さん連れのお客様で満員。すごく賑やかだったのです。それが翌日、次の上映作である『ジャンヌ・モローの思春期』の初日の朝を迎えると、しんと静まり返っていました。どうしようかとスタッフは青くなりましたが、事務所からそっとホールの入口を見に行くと、お客様の列が長く伸びています。フランス映画のお客様は、みなさん、本を手に静かに並んで待っていらっしゃいました。こんなふうに、一作ごとに観客層がまったく異なることに、新米の私は驚きました。
岩波ホールでアルバイトを始めた1984年は、文化ホールとして始まった岩波ホールが、エキプ・ド・シネマ[注1]の映画シリーズを始めてから10年経ち、このスタイルが定着した頃でした。この年の暮れから小栗康平監督の『伽倻子のために』が始まるために、秋からは広報活動が活発になり、連日取材が入っていました。当時19歳の南果歩さんのデビュー作でしたので、ご本人もよくお見かけしました。事務所には朝から晩まで多くの人が出入りして、電話が鳴りやまず、社員も総支配人の高野悦子さんも大忙し。毎日が文化祭のようでした。
社長の岩波雄二郎さんもよく事務所にやってきては、「景気はどうだ?」と社員に尋ね、雑談をしていかれました。せっかく話しに来たのに、映画がヒットしていると、社員は電話対応で話すこともできません。そんな慌ただしい様子をしばらく見てから、「まあ、よさそうだな」と出ていかれました。岩波さんは社員を家族のように感じておられ、社員は子供や孫のようなものだったのでしょう。1913年(大正2年)に古書店から始まった岩波書店の、古き良き時代の雰囲気を、岩波さんはホールに残していかれたように思います。
私が岩波ホールに入社した経緯についてお話したいと思います。1908年(明治41年)生まれの祖母の初子は、芝居や映画が大好きでした。東京の下町の商家で育った祖母は、叔母たちに連れられて浅草に行くことが多く、若いころは小芝居(宮戸座)や六区の映画館、浅草オペラ、新派(本郷座)などに通っていました。私は、そんな祖母の膝の上でNHKの歌舞伎中継を見て育ち、小学校の高学年になると時折ですが、実際の舞台にも連れていってもらいました。中学2年生の時に、国立劇場で尾上菊五郎の『義経千本桜』を見て、歌舞伎に夢中になりました。今でいうと「ハマった」のだと思います。国立劇場の売店で雑誌『演劇界』を知り、お小遣いで毎月購入しては読むようになりました。
進学先の東京学芸大学附属高校では、演劇部に入部しようと見学に行きました。ちょうど『ハロルドとモード』の稽古をしていたのですが、2年先輩の成井豊さん(のちに演劇集団キャラメルボックス代表)率いる劇団員たちのレベルの高さに恐れおののき、入部を断念。古典芸能つながりで、友人のいた落語研究部に入りました。自分でも落語を演じてみましたが、演じるのは全くダメでした。私の落語を見た先輩から、「高座の上で怯えていたよ」と言われました。もっぱら聴くのが好きでした。「辛夷祭(こぶしさい)」という文化祭がとても盛んな学校でしたので、勉強以外に何か自分の好きなものを見つけなくてはという思いに駆られていました。
演劇を学べる大学に入学したいと思い、明治大学文学部演劇専攻に進学しました。実技よりも評論や製作に興味があり、1・2年生は歌舞伎研究部に所属。その後は友人たちの作った演劇グループに参加して、裏方として衣装を作っていました。祖母が和裁、母は洋裁ができましたので、私も縫物が好きだったのです。徹夜で衣装を縫っても苦になりませんでした。
大学4年生で就職を考えたときに、演劇で自活していくのは困難なので、映画界への就職を模索しました。岩波ホールはどうだろうと、祖母に聞いてみました。祖母の小学校・女学校時代の同級生に岩波家のご親族がいらして、祖母から岩波ホールの話を聞き、以前から興味を持っていたのです。そのご親族の方が、岩波ホールの劇場・興行担当の千葉耕夫さんに紹介してくださいました。勇気を出して千葉さんにお電話をかけてみると、「アルバイトしかないけれど、それでもよければ面接にどうぞ」ということでした。お茶の水の大学から坂を下りて、そのまま面接を受けに行き、アルバイトで採用されました。あとで聞いたところ、入社希望者が多く、アルバイトもほとんど断っていたということでした。たまたま人手が足りなかったのか、運が良かったと思います。
当時、岩波ホールのアルバイトは、日本女子大学の寮生の方が多かったです。アルバイト代は高くないのですが、当時は昼食代が800円まで支給されました。寮ではどうしても食事が画一的ですから、神保町の美味しいランチを目当てにシフトに入る学生が多かったのです。アルバイトの仕事は、早番が劇場1階のチケット売り場でチケットの販売をするところから始まります。少し後に中番のアルバイトが劇場の準備を始め、もぎり、プログラムなどの販売、入れ替え時の清掃、電話番を業務としていました。一日3回の上映で、それを10人ぐらいの社員とアルバイト20人くらいで回していました。映写技師の社員は2人いましたが、1日3回の上映なら食事休憩も取れますし、1人で夜の回の映写までできるというわけです。一般の劇場は社員が3人くらいしかいませんので、それに比べると社員は多いほうです。自分たちで企画、宣伝、営業も行うためでした。
岩波ホールで上映される映画を毎作品見ているうちに、とても魅力を感じるようになりました。とくに印象が鮮烈だったのは、女性監督であるヘルマ・サンダース=ブラームス監督の『ドイツ・青ざめた母』。ブラームス監督のご両親をモデルに、第二次世界大戦前後のドイツを描いています。ナチスに入党しなかったことで、実直なお父さんは前線に駆り出され、戦争から帰ってきた時には人が変わっていました。お母さんは幼子を抱きかかえて空襲後の瓦礫の山を逃げていたとき、米兵に出くわしてレイプされます。そのときの幼子がブラームス監督で、当時のことを記憶していたのだそうです。映画のなかでお母さんが、「女も戦利品なのよ」と言うのが忘れられません。それまで自分が持っていた戦争や社会に対するイメージが、ガラリと変わりました。
そうこうしているうちに、岩波ホールで翌年退社する方が1人出ました。できれば岩波ホールに入りたいという気持ちが強くなっていましたので、周りの社員に話していたところ、劇場担当の千葉耕夫さんと総支配人の高野悦子さんに伝えてくれて、翌年の2月ごろに入社が決まりました。いま振り返ると能力は足りませんでしたが、熱意を汲んでくれたように思います。
入社前後の時代の上映作品リストを見ていて思うのは、お客様の入る作品と、あまり入らない作品とがあったけれど、どの作品の時も、スタッフは一丸となって力を注いでいたということです。高野悦子さんと秘書の大竹洋子さんは、岩波ホールを知ってもらうため、テレビや雑誌の取材、文化庁や自治体の委員なども引き受け、全国を走り回っていました。いまのようにネットもメールもありませんので、毎日電話をかけてアポをとり、足を運んでと大きな労力をかけていたのです。営業担当は前売券を各種団体や職域に預けるために尽力していました。10人ほどの社員で、よくぞあの仕事量をこなしていたと思います。その上、高野さんは毎年カンヌ映画祭にも出かけていました。
高野さんには、アルバイトの時から、お茶出しやコピーなどちょっとした仕事を頼まれることがよくありました。高野さんは受けとるときに誰にでも、毎回必ず「ありがとう」と気持ちよくサラッとおっしゃるのです。それがとても印象に残っています。お母様の高野柳さんは躾に厳しかったとお聞きしています。高野さんは人を惹きつける力のある強い人でしたが、同時に育ちの良いお嬢さまでした。それが岩波ホールの、どこか都会のオアシスのような空気を形作っていたように思います。
(聞き手:辻信行)
[注1]エキプ・ド・シネマ
フランス語で「映画の仲間」の意味で、商業ベースにはなりづらいと考えられている名作を上映することを目的としており、以下の4つの目標を掲げている。
1. 日本では上映されることの少ない、アジア・アフリカ・中南米など欧米以外の国々の名作の紹介
2. 欧米の映画であっても、大手興行会社が取り上げない名作の上映
3. 映画史上の名作であっても、何らかの理由で日本で上映されなかったもの、またカットされ不完全なかたちで上映されたものの完成
版の紹介
4. 日本映画の名作を世に出す手伝い
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