黒木和雄監督のこころざし ~画面の緊張感をどう出すか
小泉美奈子
黒木和雄監督の没後、ご自宅にお電話すると監督のお声で留守電メッセージが流れました。懐かしい気持ちになっていたところ、岩波ホールの私の机の引き出しから、監督が取材を受けた際の録音テープが見つかりました。黒木監督のパートナーの暢子夫人に「よろしければお送りしましょうか?」とお聞きすると、「ぜひいただきたいです」とおっしゃいました。2本分あったのですが、とても喜んでくださいました。
黒木監督はお住まいが比較的近所ということもあり、『TOMORROW/明日』(1988年公開)から遺作の『紙屋悦子の青春』(2006年公開)まで、一方的ですが身近に感じてきました。腰が低く、こころざしが高く、妥協のない作品を発表してこられた方です。
入社から2年後に、戦争レクイエム3部作(『TOMORROW/明日』『美しい夏キリシマ』『父と暮せば』)の第一作『TOMORROW/明日』を試写で観たとき、「あれ?」と思いました。新郎新婦を囲んで家族写真を撮るシーンに既視感があったのです。調べてみると、脚本は竹内銃一郎さんでした。私は学生の頃、竹内さんの芝居をよく観に行っていたからでしょうか。長崎に原爆が投下される1945年8月9日午前11時02分までの24時間を描いた『TOMORROW/明日』は、井上光晴氏の原作『明日』に忠実に進んでいきます。桃井かおりさん、南果歩さん、佐野史郎さん、田中邦衛さんなど多くの方が出演されました。実はほぼ同時期にドラマ版『明日』も日本テレビで放送されました。せんぼんよしこ監督、大竹しのぶさん主演です。そちらを記憶されている方も多いかもしれません。黒木監督は、上映中ほとんど毎日のように劇場に詰めておられました。観葉植物の脇の黒いソファに座る黒木監督の姿は、いつのまにか事務所の一風景になっていました。今も懐かしく思い出します。
『美しい夏キリシマ』(2003年公開)は、黒木監督の少年時代に着想を得た作品で、柄本佑さんが少年役を演じています。ボーっと立っている感じが印象的で、黒木監督もそんな少年だったそうです。佑さんのお父さんの柄本明さんが、公開中によく岩波ホールにいらっしゃいました。息子さんのデビュー作が心配だったのですね。ご本人もチケットを買って何度も観てくださいました。1階のチケット売り場で、「今日は神保町シアターに行くので観れないんだけど、お客さん入ってますか?」と聞かれることもありました。「たくさん入っていますよ」と担当の女性が言うと、とても嬉しそうにされていたそうです。
映画は戦時中の九州が舞台で、作中では監督の「故郷」、宮崎県・えびの市の方言が自然に使われています。当時、外地(満州)から来た人は、内地の人から馬鹿にされるという実態がありました。満州育ちの人々は標準語を話すのです(様々な場所から入植する人々のために標準語が使われていたという)。満州から戻ってきた黒木監督は、土地の言葉が話せないことに居心地の悪さを感じていたと言います。
鬱屈した思いを抱えた主人公の少年は、映画のラスト、敗戦にともなってやってきた進駐軍の兵隊たちに竹やり一本で突撃します。「大人たちに裏切られた」という当時の少年の心情がよく表れているシーンです。昨日まで「戦地に行きなさい」と言っていたのに、いざ敗戦になるとアメリカに追従する大人たち。教科書も墨で塗るように言う先生たち。黒木監督には、空襲によって目の前で殺された同級生がいました。自分だけが生き残ったという思いは、終生トラウマになっているとお書きになっています。どうにもならないと分かっていても、一矢報いたかった当時の思いが、映画のラストシーンなのかもしれません。
戦争レクイエム3部作の第3作『父と暮せば』はとても大切な作品です。「美しい夏キリシマ」の上映準備中に、黒木監督が次回は井上ひさし原作の『父と暮せば』を撮る予定と情報が入りました。私はこまつ座の上演(すまけい、梅沢昌代版)を見ていましたので、「これは岩波ホールでぜったい上映した方がいいです!」と珍しく高野悦子総支配人に力説しました。「広島の原爆で亡くなったお父さんが、迷いながら生きている娘さんを幽霊になって応援する話なんです」と。途端に高野さんの目の色が変わりました。高野さんはお父さん子で、お父様は高野さんの仕事をいつも応援されていたそうです。岩波ホールの上映は合議制で決まりますので、一人の意見だけでは通りません。いつものプロセスを経て、配給会社パル企画のご協力も得て上映が決まった時は本当に嬉しかったです。
初日から数日経った頃と思います。宣伝の原田健秀さんが、お客様が出てきた時の様子が心配だと言いました。作品はすばらしいし、皆さん感動しているけれど、同時に重たい気持ちを抱えきれない感じがする。なんとかそれを昇華する方法はないかと。広島の原爆記念公園で、記念式典に黒木監督や宮沢りえさんと参加した時に、折り鶴の奉納があった。観客の皆さんに鶴を一羽ずつ折ってもらってはどうかと。
お客様が暗い顔で出てこられることは、スタッフの皆が気づいていたことでした。大変そうだとは思いつつ、皆で賛同しました。ロビーに長机を置き、色紙を用意しました。お客様は皆さん、映画が始まる前や終わりに、ロビーで一羽ずつ鶴を折っていかれました。折った鶴を入れる箱はたちまちいっぱいになり、事務所に降ろしては、40羽ずつ形を整えてから糸でつなぎます。みんな来る日も来る日も作業に追われました。原田さんは言い出したのは僕だからと、試写室まで持っていって、針と糸で鶴を繋いでいました。
映写技師の柏倉充さんは器用な人で、40羽1本をまた10本にまとめて、劇場のロビーに吊るしてくれました。劇場の壁面は鶴で埋まり、色が滝のように流れました。鎮魂と平和への祈りがそこにはありました。
最終日には黒木監督、撮影スタッフの皆さん、配給会社の方々、劇場スタッフで鶴の前で記念写真を撮りました。あの写真は忘れられません。折り鶴はすべてつなげてから、広島にお送りしました。いつも出入りの佐川急便さんも縦長の特殊な箱を探してきてくれました。無事に奉納できた時には岩波ホールのスタッフみんながほっとしました。何しろすごい量になっていましたので。
『父と暮せば』は大ヒットとなりました。思い返すと、作り手の監督さんたち、出演者の皆さま、配給会社の方々、岩波ホールのスタッフ、そしてお客様の気持ちが一つになり、映画への思いが大きなうねりのようになると、映画がヒットするようです。他のヒット作品でもそうでした。その時は、気がつけば、収益など忘れて皆が突き進んでいます。その先頭にはいつも高野さんがいてくれました。
黒木監督の遺作となった『紙屋悦子の青春』は、「悦子」つながりで高野悦子の話ではないか? という説までありました。映画の主人公は高野さんより2歳上の設定です。二人とも戦争中は軍国少女でした。プロモーションに入る段階で黒木監督がお亡くなりになりましたので、主演の原田知世さん、永瀬正敏さんを中心に、美術監督の木村威夫さんと一緒に高野さんもプロモーションに参加しました。木村さんも高野さんも、監督の代わりに戦争を知る世代としてがんばらなくてはという気持ちだったと思います。
主人公の紙屋悦子は、淡い思いを抱いていた人から結婚相手を紹介されます。美しい物語なのですが、この設定に、私は初め違和感を抱きました。なぜ主人公の女性の人生が限定されなくてはならないのかと。しかしこれは現代の私たちから見た違和感です。戦争当時の時代背景をもう一度考えてみました。悦子はすでに父も母も見送っており、兄夫婦と暮しています。内地にも空襲がたびたびありました。特攻出撃を控えた男性は、好きな人の幸せを願い、せめて信頼できる整備担当の友人に、彼女のことを託していきたかったのだろうかと想像しました。
戦争映画は、作り手が戦争体験者かどうかで大きく異なります。戦争体験がなくても、体験者の話を直接聞いたことがあるだけで違います。画面に緊張感が出るのです。ウクライナでは戦争が続いていますが、日本国内でこれから戦争映画を作るとき、どのようにして作り手が戦争体験を引き継ぎ、画面に緊張感を出してゆくのか、課題になることと思います。
(聞き手:辻信行)
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