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生きることはしんどい 第9回

―栗田有起作品と、「これで良かった」と思えるようになるまで


川窪彩乃


 人生のうちで、本当に休まなくてはいけない瞬間に遭遇しなかった人はとても幸せだと思う。

何もかも失い、体調も崩し、自分がどうしたいかもさらさら分からなくなってしまう。寝ても起きているような感覚に襲われ、起きているのに寝ているような疲労感を味わい、何もかもが表面的で空虚な感じ。カーテンが揺れるのを見つめることで呼吸をし、ハートから上がってくる酸っぱい息を抑え込む。そういう瞬間に身を置くことになってしまった人は、どれくらいいるのだろう。私もその一人になった。

 

 昨年から住む場所を実家に変えた。このまま人生が進めば良いと思って借りた東京の部屋とは全く相性が合わず、人生が進展する未来も見えなくなったので、変わらない未来を阻むものとの縁を、全て切る決断をした。誰も悪くなかった。全て私が悪いから、罪悪感とPCだけ持って実家に戻った。

 

 とても自由になった。煩わしい人間関係に心を悩ませることもなくなった。老体に鞭を打ってやっていた家事も家族と分担すれば楽しくなり、PC一台で仕事はできた。仕事は胸の穴を塞いだ。草木の美しさを知る余裕もでき、たまに都会に出れば、別の角度から東京の麗しい騒々しさに魅了された。

 一方で、別の世界線、倒れずにそのまま同じ場所に住み、同じ人を愛して、同じ仕事に勤しみ続け、何一つ変わらない日常を送っている自分も居たりして、と思った。それが幸せか不幸せかどうかは別として。


「だめだとわかった瞬間からすべてが始まる。でもうまく始められなくて困っている。彼女も、私も。年齢や経験は関係ない。」[i]

 これは栗田有起の『お縫い子テルミー』の一節だ。とても強い縁をお互いに感じた職場の先輩がいて、その方がわざわざ郵送でこの本を送ってくれた。彼女に、今の状況をほとんど話していなかったから不思議だった。

 

 この作品の主人公・鈴木照美(テルミー)は、遠い島から上京して歌舞伎町で仕立て屋として働いている。幼い頃から祖母・母と他人の家で居候生活を続け、端的に言えば“健全ではない生活”に慣れている。この、世間からの「はみ出し具合」が心地よかった。

 テルミーは「シナイちゃん」というホステス兼歌手に、猛烈な恋心を抱いている。でもそれは叶うことのない恋だった。

 

 なぜなら私は、彼が求めるに値する人間ではないからだ。それは出会った瞬間に悟っている。運命の出会いであるにはあったが、私たちはつりあっておらず、こちら側が強烈に片想いをするという運命であった。ふたりはけっして交わることはない。わかってる。けれど欲しい。欲しくて仕方がない。体の半分はだめだと理解し、もう半分は激しく欲し、私はきれいにふたつにわかれている。どうしようもない。いったい、ほんとうに、どうすればいいのかわからない。[ii]

 

 ドレスの制作を依頼してきた彼への思慕を、絶てど絶てど切り切れないテルミーの気持ちがなぜだかよく分かった。全てを自分のものにしてしまいたかったと思う一方で、それをコントロール下に置けない、不健全で狂気じみた気持ちと、悟りのような諦めが今の気持ちに似ていた。それはとてつもない孤独であり、悲しい自由だった。

 

「仕事をしている最中は、どれだけまわりに大勢の人がいてもひとりになれる。」

「きりのない欲望と時間をもてあまし、私は縫うしかなかった。」

 

 心の穴を埋めるためなのか、本当に仕事が好きなのか、彼女の真の気持ちを誰も知る由はない。自分に対しても分からない。だからか、行き先の分からない彼女のおぼつかなさに、私はとても親近感を覚えた。「生きるって何だろう」と考える始める瞬間は、いつも「だめ」な時だ。

しかし、テルミーは言う。「でも本当は知っている。どの疑問にも答えと呼べるものはなく、考えるのを止めれば問題はなくなる。ただただ、与えられた仕事をするしかない。」[iii]


 

 自分の読書体験を振り返ると、私が好きになる本は、生きる上での究極などうしようもなさが描かれたものが多かった気がする。その「ままならさ」を共に生きている主人公たちに何度も助けられてきた。そもそも、全ての願いが叶っていたら、生きている意味なんてないのだと思う。その不完全さ、実らなさを、時に誤魔化しながら、時に絶望に陥りながら、「これで良かったのだ」と思えるようになるのが、生きることなのだと思う。

 

 すべての責任を全うして、社会的に「良い」とされるルールに乗るべきだと、ずっと思っていた。そして、心のどこかで、誰かが自分を幸せにしてくれると思っていたし、何かのタイミングで生活に良い進展が起きるかと思っていた。

 この年齢になったら身を固めなくてはいけないし、子どもも産んだ方が良いし(そう思って産んだら子どもに対して失礼だとも個人的に思ってしまう)、仕事で期待される成果を収めて、充実した人間関係を築くべきだと信じ切っていた。あってない「水を抱くような」体裁を守ろうとしていたのは私自身だ。でもよく考えれば、学校に通えなかったり、よく分からない恐怖症を持っていたり、私ははじめから「普通」に馴染めていなかった。そして、「普通」を歩んでいる人なんて、実は誰一人いないのだ。

 

 結局、自分の人生の舵を切れるのは自分しかいない。この穏やかな残酷さを、受け入れた私は間違っていないはずだ。間違っていないと思うように努力しないとならない。本当の意味で自責を問われる時が来た。テルミーの生き方が教えてくれたことだ。

 

 …自分がどこへ向かっているのかわからなかった。でも両足が、まるで行き先を知っているようなので疑うわけにはいかなかった。私はついていった。この足の上で生きている以上そうするしかない。[iv]



 この本を返すために、私は貸してくれた彼女の住む駅まで行く。多分私は、とても苦しい。電車の揺れがそれを誤魔化す。でも、「生きる意味」を求めて切株で休憩するような瞬間があっても良い。とりあえず、今はこういう生き方で息をすると決めたのだから。


 

[i] 栗田有起『お縫い子テルミー』、集英社、2006年。

[ii] 同書、27頁。

[iii] 同書、23頁。

[iv] 同書、68頁。

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