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生きることはしんどい 第11回

―川上弘美作品と、抗えるのかわからない・抗いたい運命論の話


川窪彩乃


 未来がすでに決まっていたら、あなたはどうするだろうか?


「坊主めくり」という遊びがある。

 地域によってルールは異なるようだが、私の家では、百人一首を裏側にして積み上げ、順番にめくっていき、お坊さんの詠み札が出てしまった人が全部の札の所有者となる。最後の百枚目をめくった時点で読み札の全てを持つ人が負けというのがルールだ。

 この「坊主めくり」をするたびに、私の頭にはひとつの疑問が生じる。

「最初から坊主の札の位置は決まっているのに、人は順番にそれが回ってくるのを待っている存在なのか…?」という疑問である。つまりは、未来はあらかじめ決まっているのに、人間はそれを受け入れるだけなのだろうか? 自由意志も神の手の中なのか? ということだ。

 こうした話は、「ラプラスの悪魔」「シュレーディンガーの猫」などと通じそうなので、「坊主めくりの理論」を提唱できそうだが、ひとまず脇においたままにしている。



 運命というものはあるのだろうか? そんな疑問を抱いたことのある人は、多いと思う。

「どんな職業に就くのだろうか?」

「結婚相手は決まっているのだろうか?」

「どんな一生を送るのだろうか?」

「地球、人類はどうなっているのだろうか?」

 でも、もし全てが決まっているのだとしたら、自由意志はどうなるのか? 真偽はどうであれ、私は運命なるものに翻弄されるのがとても怖い。運命によって自由意志が無視されていたら、なんのために頑張っているのかわからなくなってめまいがする。


 

 未来のことなんて、予想はつかない。予想しても、はずれることがほとんど。[i]


 これは、川上弘美の小説の一節だ。

 今よりずっと先、人類が滅亡することが確定している地球。そのことを悟った人間たちが織り成す物語『大きな鳥にさらわれないよう』を読んで、「人間って『終わる』と分かっていれば、こんな風にあきらめちゃうのかな」と、もの悲しさにおそわれた。

 この物語は、時間の流れも異様だ。未来から現在へ流れていくような逆流が起こっていた。たとえば、「水仙」という物語では、遠い未来の「私」が今の「私」を迎えに来るところから始まる。次第に「私」の数は増え、それぞれが「大きな母」なるものに一定期間育てられたら、一人ずつ「私」は旅立っていかないとならない。


 私はこれからも生まれ続けるけれど、私はもうじき死ぬ。たくさんの見知らぬ私たちに向かって、私はもう一度、さようなら、と声を出さずに言い、服についた淡雪をていねいに払った。[ii]


 子供の頃から、わたしは旅に出ることを予告されていた。(略)「ずっとここにいたいんだ」旅に出なければならない日が近づくにつれて、わたしは何回も母に懇願したものだった。けれど、母はとりあわなかった。「運命は、変えようがないのよ」[iii]


 生や死を含むあらゆる出来事を淡々と受け入れる。つまり、この世界の人々は運命に抗えていなかった。すべてを柔らかく享受し、些細な拮抗も存在していない。だからか、たおやかな空気と不穏さが漂っている。この雰囲気は、私たちが「悪いものは受け入れない」と出来事を排除し、あきらめようとしている営為を連綿と受け継いでいった結果のような気がして、もの悲しくなったのだ。



 もう一つ好きな小説に『このあたりの人たち』[iv] という短編集がある。冒頭にある「ひみつ」という物語には、欅の木の下にある白い布の中から事あるごとに現れる男の子が登場する。男の子を見つけた主人公は30年経って大人になり、いずれ訪れる死に恐怖するまでに成長するのに対し、男の子はずっと「こども」のままなのだ。


 こんなに変わらないのだから、(こどもは)人間ではないのだと納得した。人間の方は変わってしまう。こどもに比べて歳をとった。(略)へんくつになった。マンションを買った。犬を一匹飼った。猫は三匹飼った。死ぬのが恐くなった。[v]


「妖精」という“音楽の家”にまつわる物語も、あらかじめ決められた「何か」を予感させた。


 音楽の家は公園のすぐそばにある。(略)音楽の家を訪ねることができるのは、誕生日を迎えた人だ。(略)どうやら、音楽の家に行くと、何かの音が聞こえてくるらしいのである。(略)「人によって聞こえる音楽は違うの。その人の運命をつかさどる音楽が流れてくるのよ。」 [vi]


 時間も場所も伸縮可能な世界をSFと言ったら簡単だ。しかし、川上の作品はなんだかその一言では体現できなかった。過去も未来も東西南北も境目が曖昧で、巨大ななにかに降伏しつつも、決定された結果に導かれてしまう、登場人物たちの不思議な可愛らしさが散りばめられていた。「もし」を選べない私にとって、それは羨ましくもあり、不気味でもあった。


 結局のところ、運命・自由意志のどちらが優先されるかわからない 。

 ただ、どんな運命を辿り、どんな選択をしようとも、百年単位で俯瞰したり、相手から見たり、かつての自分と比較してみたら、それは決して悪いものではないかもしれない。未来へ進むしかないからこそ、そして、一つしか選べないからこそ、意志の力で弱さや苦しさを弾力のある強さに変えたい。そうやって人間には出来事の本質を変えられる力があるのではないかと、問い返したい自分がいた。


 百人一首をそっとめくる。札の角がつんと指先に刺さる。坊主だ。


村雨の 露もまだひぬ 槇の葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ

(にわか雨が通り過ぎていった後、まだその滴も乾いていない杉や檜の葉の茂りから、

霧が白く沸き上がっている秋の夕暮れ時である。(寂蓮法師『新古今和歌集』))


 千年以上前に僧侶が詠んだ雨の句から、むせかえるほどに秋のにおいが立ち込める。この人だって千年後に「負け」の対象になるとは思ってもみてなかっただろう。


 決まっていたかもしれない。決まっていなかったかもしれない。運命は私を負かせたが、みんなは私を見てケタケタ笑う。幸せの深度は高まる。「負け」は一概に不幸せではないことを、にわか雨は決して悪い天気ではないことを、私は知り、選んだのだ。


 自分にとってそれがどんな意味を持つのか、意志の力で出来事を捉え直せたならば、もしかしたら内的な「運命」は変わり得ると言っても差し支えないかもしれない。運命の断片だけを見ずに、ゆっくりと出来事の意味を醸成できるところに、人間の運命をしのぐ力が存在していてほしい。


 

[i]川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』、講談社。

[ii]同書、42頁。

[iii]同書、156頁。

[iv]川上弘美『このあたりの人たち』、文藝春秋。

[v]同書、11頁。

[vi]同書、85頁。

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