―くどうれいん作品と、名もなき日々の愛し方―
川窪彩乃
「無理すんなよ!」と言われた。
大学の卒業式が終わったあと、謝恩会会場のホテルニューオータニの廊下で、唐突に。
あれ以来、一度も着ていない青いドレスに身をまとった私にそんな掛け声をしたのは、学部でもまあまあモテていた男の子だった。話す機会すら無かったため、ついぞ卒業式まで彼の魅力に気付かなかった。が、大きく響く「無理すんなよ」はあまりにも真っ直ぐに放たれ、面食らった。「そういうトコロかよ」という私の拗ねた独り言は春風に乗ってどこかに吸い込まれていった。
しかし意外にも、その言葉はずっと頭の中に鎮座し続けた。今でも無理しそうなときに歯止めをかける。パワハラが横行する会社を辞める後押しをしたのも、その言葉だった。
大学三年生から数年間、東京・山谷地区[1]でボランティアをしていたとき、よくお話していたある高齢の男性に言われた言葉がある。
「ちあきなおみの『喝采』の意味なんて、知らない方が幸せだよ」
『喝采』を知らなかったのをばかにされたのかと思って、帰り道に聴いてみたが、あまりわからなかったので一回しか聴けなかった。 翌週、その人は小さな骨壷に入っていた。その瞬間、『喝采』の意味が腑に落ちてしまった。ずるいずるい皮肉だよなんだよそれ、と思った。それから『喝采』は何度も聴けた。辛いけれど、私は『喝采』の意味を知らないより知っている人生を選びたい。
こんな風に、ふいに訪れる言葉に人生をずっと支えられてしまうことがある。日常にとっては些細な出来事が、人生において重要な意味を持つことがあるのだ。
そんな大切なことを教えてくれたのは、『私を空腹にしないほうがいい』[2]という鮮烈なタイトルの本で作家デビューしたくどうれいんさん[3]だ。彼女の作品(彼女自身が?)は人間の感情に祝福されているかのごとく、艶やかな感情のグラデーションを見事に見せてくれる。悩んでも、恥ずかしくても、どう足掻いても、人間は人間でしかないという天井にタッチできる。それがなぜか喜ばしくて、読んでいる束の間、傷口を見せびらかすのが怖くなくなるから不思議である。
かつてくどうさんは、会社員と作家を両立しており、一ヶ月休みなく働いたある日、父親とこんなケンカをしてしまう。
「なんもしなくていい、ずっと寝ていていい休日」がないまままるまる一か月が過ぎようとした夜、夕飯が豆乳鍋だった。父が作った鍋を囲み、締めにうどんを入れようとしたわたしを父が「食べすぎだって、やめとけ」と制した。その途端、わたしの顔面が沸き上がってくちゃくちゃになるのがわかった。(略)「い、いじわる!」と、絞り出すように言ってティッシュを六枚とってふかふかにしてそこめがけて大泣きした。二十五の娘が締めのうどんが食べたくて駄々をこねて泣いている。父は困惑しただろう。[4]
いつか笑いごとになるだろうし、誰かにとっては可笑しな話にも思えるだろう。ただし、本人にとっては大事件だ。当事者にとっては重要な「今」なのである。彼女はそんな「今」を絶対に逃さない。
締めのうどんを食べられなかった彼女は、後輩の「すいちゃん」を割烹料理に誘う。その際のメッセージのやりとりは気持ち良いほどにとんとん拍子に進む。
おいしいものを食べるとなったら、大学時代からいつもすいちゃんと一緒だった。「餃子」「はいよ」。「もつ鍋」「何時ですか」。「焼き鳥」「ちょうどそう思ってました」。「ピザ」「行く」。いつも食べたいものがあるほうがぶっきらぼうなLINEを送り、二言目にはOKのスタンプを押して化粧を直して家を出る。[5]
人の性格の中で何が一番大切かと問われたら「素直さ」と答えたい。隠せない気持ちは、表に出してしまった方がよっぽど快適かもしれない。彼女の作品を読むと、いかに自分が何かを必死で隠し、勝手に辛くなっているかを思い知る。自ら好んで隠しているのに「しんどい」と言ってしまう卑屈さを自嘲してしまう瞬間、「しんどい」のメッキが自分の心から剥がれていく。
「素直さ」といえば、友人の「ミオ」が失恋した時の話も、心が開けっ広げで、その通気性の良さに救われてしまう。
ミオは本来とても気配りができる優しい女性である。そのミオが無理して(男を)地獄行きだのと言っていることはすぐにわかった。無理して嫌いにならなければならない。その張り裂けそうなこころのことを思い、わたしは会ったこともないそのひどい男を(あんたまじで地獄行きだよ)と呪った。(略)そのあと、わたしたちはカラオケで法を守る範囲で思いつく限りの不謹慎なことをした。ミオはSugerの「ウェディング・ベル」を歌いながらまた泣いた。“くたばっちまえ、アーメン”。ミオにはこの儀式が必要だったのだ。不謹慎、それがなんだ。[6]
わざわざ喪服を着てまで、失恋を忘れる儀式をした二人の女性の姿。滑稽で微笑ましい。そして、勇敢でうるわしい。その人をその人にさせるのは、このようなとてつもなく重要な日々と、人と、出来事。そして、それらとの邂逅は、どれも名前がなく、何の変哲もない平凡な中に起こる。
初めて歩いた日とか、合格した日、結婚式とか上京した日とか。それももちろん大切だ。しかし、頬に風を受けながら「もうあの飲み会絶対行かねぇ」と誓った帰り道や、猫を撫でるときの最高の切なさ、誰にも言わずに終わった恋など、誰にも知られない名も無きものも「わたし」の輪郭を粘土のように形づくっているように思う。何もない日など一日もなく、走馬灯に映ることが全てではない。それでいて、起きたことは全部なかったことにはできない。ならば、私とは決して無関係ではいられない思いと言葉たちを抱きしめたり、時間をかけて手放したり、時にあえて無視したりと、自負をもって「わたし」がそれらを取り扱いたい。
見て、嗅いで、聞いて、味わって、触ったものすべてが「わたし」を作っている。ぼんやりと、確実に。
[1] 東京都台東区にある街。かつて高度経済成長期に、東京タワーなど日本を代表するビル群を建築した労働者が住んでいる。江戸時代には吉原遊郭が存在した。日本三大ドヤ街の一つと言われている。
[2] くどうれいん、BOOKNERD、2017年。
[3] 1994年生まれ。作家、歌人、俳人。岩手県盛岡市出身。
[4] 『虎のたましい人魚の涙』、2024年、講談社文庫、45p。
[5] 同著、47p。
[6] 『うたうおばけ』、2023年、講談社文庫、19p。
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