―綿矢りさ作品と、怒りの自己防衛について考える―
川窪彩乃
その日、久しぶりに「やられた」と思った。電話でクライアントからものすごい剣幕で怒鳴られたのだ。
いつもなら「仕事」と括れるはずなのに、その日はなぜかそうできなかった。自分の体重よりも重い黒い鉛のような玉が心に沈み、トイレに行くことすらままならなかった。鏡を見て「怒られた自分」に対峙できないと思ったからだ。
なんとか立ち上がって退勤しても、駅のベンチからしばらく動けなかった。その日はとても寒かった。「このままでは風邪を引く」と思ったが、それとは裏腹に悔しくて涙がとまらなかった。どうにか復讐してやろう。公衆電話から匿名で文句を言えばよいのではないかと思ったが、自分が捕まってはフェアではないと思ったし、そこまで勇気がなかった。そのことだけについて考えればよいものの、私は生きること自体が嫌になった。人間は小さな出来事から派生して、存在理由などを考えてしまうのだと聞いたことがある。本当にその通りで、自分が生まれてきたこと自体が誤っているような感覚にも陥った。
それでも時間は過ぎる。夜は更けていく。明日は来る。このやり場のない感情を無きものにして、やり過ごさなければならないと奮い立たせる。たぶん泣いているんだろうと勘づく学生やサラリーマンが、さらりと目を逸らして前を通り過ぎていく。
どれくらい経っただろう。涙の通った皮膚の箇所だけ特殊な硬さを持ち、たぶんその日はうまく帰れる自分を演じきった。
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回転寿司で誰にも取られずカピカピに乾燥したお寿司はどこに行くんだろう、といつも思う。それと同じく、誰にも認識されず、感じ取られない私の感情はどこに行くんだろう。
いつも朝になると思う。「今日誰も攻撃してきませんように」と。
もし他者に攻撃されたら、自尊心は損なわれ、ヒビが入る。悲しく苦しい。そして、自分の傷をどのように対処すれば良いのか分からなくなるのが怖い。きっと「傷つく」という反応の中には、怒りも含まれている。何が奪われ、どこを刺され、本当はどうしてほしかったのか。
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こういう時、私は綿矢りさの作品をよく読む。綺麗事で終わらせない斜に構えた文章は、強いアルコールを飲んだ時のように、本音を露わにさせてくれるからだ。
たとえば、綿矢りさは唐突に読者にこんな言葉を投げかける。「何か色々大変ですね。あなたにとっての世の中は、きびしそう」。[i] 多少血が出ていても、それをさっと拭う潔さは私にとって、殺伐としたこの暴力的な世の中を歩む上で必要な「強さ」でもあった。有名な『勝手にふるえてろ』の中でも、彼女は容赦ない。
大体いつも気に入らなかった、なんで産む女の人だけが休みをもらえるの。新婚旅行の休暇も育児休暇も当然のように既婚者は取っていくけれど、じゃあ結婚しない人間にも“自分の人生をじっくり見直す休暇”を取らせてほしい。ある意味育児休暇と同じくらい必要ですから。[ii]
「丸くおさめよう」「なかったことにしよう」という事なかれ主義を断じて許さない怒りは、内部から自分を助ける力を促した。外部から生半可に手を差し伸べるような救いではないから、否応なしに自助能力が育つ。
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ずっと怒ってはいけないと思っていた。怒りは刺々しくて、周りを不快にさせるからだ。「あなたが怒っているのを見たことがない」とよく言われた。しかし、そのたびに説明のつかない違和感を覚えた。私はずっと怒るのを我慢していたのだ。
怒りは「世界への関心」だと読んだことがある。大学生の時、なぜかその新聞記事だけ切って大切に手帳に入れていた。デモで怒りを露わにするのは社会や自分に対して強い関心がある証なのだという。大事な何かを守るために「怒る」のだ、と。
私はあの日、私が思う以上に、自分が大切な存在だということを訴えたかった。たとえ先方の立場が上であっても、私はあんなに理不尽に怒鳴られるべき存在ではなく、相手から対等に扱われるべき人間なのだと主張したかったのだ。「年下だから」「弱そうだから」「女だから」。そんな理由で、心を踏みにじられる筋合いはない。尊厳を容易に明け渡す必要はないのである。
そして、私もあなたも、自身がそれくらい大切な存在であるのを知るために、怒りを大事にすべきなのだ。何をどうしてほしかったのか。どうされれば損なわれないのか。どれだけ自分が重要な存在なのか。何度も何度でも自分で味わうべきなのだ。自分のがんばりを一番知っているのは、この世でたった一人、自分だけだから。自分の心の防衛は、自分の責任でもあるから。少なくとも綿矢りさの作品の主人公たちは、既存の暴力的な価値観を「怒り」を通して覆し、自分を守っている。
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カピカピになったそれを咀嚼しなければ、心の中には永遠に味わうことのなされなかった怒りが巡る。感情のエネルギーはその発露を求め、身体中をかけめぐる。だから、感じ切る。怒りは自分を守るための大事な感情であり、自分を分かってもらうためのひとつのコミュニケーションだ。
怒りがある分だけ、あなたは自分がとても大切な存在であるのをちゃんと分かっている。
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ものすごく努力した人しかほめられないなら、私はもうほめられなくていい。誰かより目立ちたいとも思わない。ただあなたを思うぜいたくだけは、奪い去られるつもりはない。[iii]
[i] 『仲良くしようか』、文藝春秋、2012年。
[ii] 『勝手にふるえてろ』、文藝春秋、2012年。
[iii] 上に同じ。
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