―言葉が感情を伝えられる限度と今村夏子作品―
川窪彩乃
愛おしい存在を前にして「大好き」を上回る言葉がない時がある。一方で、どうしても馴染めない場所や相手を前にして「なんだか嫌」という曖昧な言葉しか出てこないことがある。そういう経験はないだろうか?
甘酸っぱさや切ない心情を「エモーショナル」と「○○い」という形容詞を掛け合わせた「エモい」という言葉を昨今よく目にする。この「エモい」が指す確固たる内容を突き止めたく、様々な人のブログを読んだことがあった。しかし、どれもその人ならではの意味として成立し、確実な正解を得られなかった。
こんなにも言葉があふれかえっているのに、それそのものを100%示す言葉は実はとても少ないのではないかと思い、言葉には限度があるのを知った。
さらに同時期、私はこの「なぎさ」のタイトルを「生きることはしんどい」にした。
「しんどい」という端的なネガティブ語を公にすることはかなり憚られた。しかし、この肩に重くのしかかり、頭の中を静かに蝕み、微笑みの中で涙が流れ、スマートフォンを開くことでしか世界と繋がれていないと思わずにいられない時折襲う孤独感に最も近いのが「し」「ん」「ど」「い」の四文字だったのだ。
かつての暑い日のサイゼリヤで、編集の方にいくつかタイトル案を送ったが、言葉を尽くせば尽くすほど、私が言いたいことは私から離れていった。(幸い、編集の方からの素晴らしいご指摘と優しさでこのタイトルでいくことにした。)この経験が、今回のテーマに端を発する。
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そのような時に出会ったのが今村夏子の「ピクニック」[i]という作品である。
「ピクニック」は、ローラースケートを履いて接客する飲食店で、主人公のルミと同僚の女性たちが、新人の七瀬という女性を遠回しにからかう物語である。
この“遠回し”が肝とも言える。
七瀬は自分の口から、今人気絶頂のお笑い芸人と14年も付き合っていると告げるが、それはどうも事実ではないようだ。しかし、七瀬は彼の誕生日には上京するために仕事を休み、彼が「携帯を川に落とした」とラジオで言えば鋤を買って川底を掘り起こす。交際を嘘だと分かっているにも関わらず、ルミたちは七瀬の恋を「頑張れ!」と応援し続けるのだ。
その芸人がある日、七瀬ではない女性との結婚を発表する。結局その後、七瀬は二度と出勤しなくなり、彼女の恋の行く末を心配していたルミたちは、七瀬なしで楽しくピクニックをする場面で幕を閉じる。
本物語は、七瀬の虚言壁にも触れず、彼女を「嘲笑する」「陰口を叩く」という言葉も一切登場しない。これらの言葉が登場した方が読者は安心するかもしれない。しかし今村は、彼女たちに何も語らせないまま、人を嘲笑い、蔑む雰囲気を物語に通底させるのだ。感情の拠り所のなさにたじろいだ。
また、もっと驚いた文章がある。
今村がエッセイの執筆依頼を受けたことをきっかけに今までの日記を読み返し、あまりにひどいその内容にノートをかなぐり捨ててしまう、その時の描写である。
自分の書いた日記とは言え、あまりにひどい。こんなものをそばに置いていては幸せが遠のく、そう思った私は、エッセイのことは一旦忘れて、まずは日記帳を処分することにした。(…)それらを小さめのポリ袋に一冊ずつ入れていき、その上からビーフシチューを流し入れ、すべてのページにまんべんなくルウが行き渡るように袋の上からよおく揉み込んでからゴミの日に出した。初めて日記帳を捨てた二十代半ばの頃からこのやり方は変わっていない。(「日記とエッセイ」より)[ii]
本人曰く、書いてある箇所が広く隠れるために流動性のあるものをまんべんなく流し込むのが良いのだという。はたから見れば奇妙かもしれないこの言動だが、屈辱にも近い羞恥感をひたすらに隠したい感情はまっすぐに届いた。しかし、この気持ちにやはり名前は与えられなかった。
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読書をしていると、自分の中に湧き上がった感情にあてはまる言葉に遭遇する。まるで道端で知人に出会うかのように、「あぁ、こんにちは」と。
しかし、今村夏子の作品を読むと、心に湧き上がる「それ」を指し示す言葉に全く出会わないことが多い。それは非常に新鮮な読書体験だった。これほどまでに真意を突き止めない、ドーナツの穴を指でなぞるような感覚は初めてで、その形容しがたさに動揺した。
「不思議」では物足りない。「狂気」では少し辛辣。「不気味」では短絡的すぎる。
しかし、確実にそこで起きている出来事を訥々と語ることで、その切実さを妙に詳しく説明してしまうのだった。事の大きさをひしひしと感じながら、「可哀想」とすら思える余裕があるのを許される感覚に、罪悪感さえ抱いてしまう始末である。当事者になりえない、傍観者としての後ろめたさが常に伴った。『あひる』[iii] も『むらさきのスカートの女』[iv] にもそれは言えることだった。
一方で、どれもが自分の中の「何か」に強く共鳴した。でもそれは、誰もが言葉にしないまま秘密にして死んでいくのではないかという秘匿性の高さがあった。隠蔽感が強いため、どれもが言葉にならないのである。
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昔、言葉にしなかったことで大きな後悔を経験したことがある。「ああ言えば良かった」「言わなかったからこうなってしまったんだ」と深い悔恨を味わった。だから無理矢理、言葉を紡ぐことに真剣になってきた。しかし、今村の作品を読んで、その後悔は払拭された。
言葉で伝えることがすべてではない。言おうとすればするほど、伝わらないことがある。逆に、「言葉にしない」という動作で相手にその全容が伝わってしまうこともある。
気持ちはいつも言葉に従属しているとは限らないし、言葉が必ずしも正確な気持ちを表明しているわけでもない。当然のことだが、言葉という記号が物語るのは、真実のほんの一欠片でしかないのだ。
かつて浴びせられた「うざい」という掲示板の言葉や、余命いくばくの方が発した怒声。人生を揺るがす、脳裏に焼き付いて離れないその言葉の持ち主が、どんな感情でその言葉を発したのか、逆に、どんな感情を言葉にしなかったのか。一旦立ち止まって考える大切さを思わずにはいられない。
バベルの塔が建ってからというもの、私たちが極めてきた「言葉」「コミュニケーション」の困難。今村夏子の作品はそれを平和的に破壊する力を持っていると思う。そのカンナのような音を聞いて、限られた言葉に託された感情に、今耳を傾けたい。
[i] 『こちらあみ子』、筑摩書房、2011年 [ii] 「日記とエッセイ」(『木になった亜沙』文藝春秋、2023年より引用)
[iii] 『あひる』、書肆侃侃房、2016
[iv] 『むらさきのスカートの女』、朝日新聞出版、2019年
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