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生きることはしんどい 第5回

―高瀬隼子作品と「正しい」という暴力を紐解く


川窪彩乃


「正しい」とは何だろうか?

 たとえば「人を殺してはいけない」とか「いじめてはいけない」とか、そういった大きな例に対する是非ではない。誰かを愛すること、体に良いものを食べること、組織にうまく順応することなど、つかみどころのない出来事に対するそれである。

 こうした暗黙の「正しさ」の圧力に、窮屈な思いをしている人は多いのではないだろうか?


 高瀬隼子[i]の『おいしいご飯が食べられますように』[ii]が書店に並んでいるのを見て、その平和な黄色に包まれた装丁に反し「皮肉めいた内容なのでは」と直感した。案の定、当たっていた。


 私が食べることをあまり好きではないから、そう思ったのかもしれない。

 世間は、かなりの頻度で食べることを要求する。「ご飯はおいしく食べるべきもの」だとされているのが、私は本当にしんどい。(「世界には食べられない人がいるからワガママ」という話は今は脇に置く。)

 催し物にはお弁当が、慰労会にはディナーが、女子会にはケーキが用意される。

「美味しい」と表現するのを求められ、食べないと「大丈夫?」と言われる。正しいと信じて疑わない、あの感じ。そのような場面に遭遇するたび、私は本当に食べたくなくなるし、食べられなくなる。



 高瀬は、代表三作品で「食べる」「妊娠する」「愛する」「ゆるす」「順応する」など、あらゆる諸行動の是非を問う一歩手前で立ち止まり、正しさの暴力性を紐解いた。そこには、当然「よし」とされることへの嫌悪と、「正しさ」の押し売りによってこぼれ落ちる苦しみが描かれていた。


 先の作品『おいしいご飯が食べられますように』は、食べ物をめぐる「正しさ」の物語だ。日々の残業に追われ、きちんとした食事を摂らずにカップ麺ばかり食べる男・二谷、体調不良を薬でしのぎ、膨大な仕事をこなせてしまう女・押尾、少しの頭痛ですぐに帰宅し、栄養のある食事が一番大事と思っている女・芦川をめぐる本書。

 芦川は前職でパワハラを受けたため、擁護されている。ストレスのかかる仕事には手を付けず、周りもそれを許している。芦川への暗黙の「配慮」に腹立たしさを覚えた押尾は、二谷に「わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」と掛け合う。

 一方、そんな芦川は仕事を休むたびに、お詫びの手作りケーキを持参する。それはお店に売っているような美しいケーキばかりで、職場はその都度盛り上がる。口々に「本当に美味しい」「売っているものみたいだ」と。


「おいしい」と言わなければならない雰囲気、きちんとしたご飯を食べるのを当然としている芦川や周囲の常識に、二谷は「ちゃんとした飯を食え、自分の体を大事にしろって、言う、それがおれにとって攻撃だって、どうしたら伝わるんだろう」と苛立つ。二谷のカップ麺は、食への正しさへの反抗のたびに増えていく。そして、芦川が作ったケーキを残業後にぐちゃぐちゃにしてゴミ箱に捨て、押尾はそのゴミを芦川の机に置く。しかし、最終的に二人のいじわるは露見する。


 食事は人間関係と切り離せない。「ごはんはおいしく食べるもの」「ごはんは皆と一緒に食べるもの」「ごはんは感謝して食べるもの」など、食事は“社会が求める正しき在り方”を形容する最たるものだ。こうあるべきとされる人間関係の暴力性に痛みつけられ、主人公たちは無残に退廃していく。



 高瀬のデビュー作『水たまりで息をする』は、ある出来事をきっかけに、突然、水道水を「カルキ臭い」と言い、風呂に入らなくなった夫と、それを何とか受け入れようとする妻・衣津美の物語だ。悪臭を罵られ仕事に支障をきたし、田舎の川の水しか浴びられなくなった夫と共に、衣津美は地方へ引っ越す決断を下す。

 大事な人の「正しくなさ」を、その人の「普通」として享受する。つまり、愛する覚悟を貫徹するために「正しさ」を捨てるのだ。衣津美は思う。「許したくてしんどい。夫が弱いことを許したい。夫が狂うことを許したい」と。

 東京という大都会にいると、衣津美の夫のような人間にすれ違うことは多々ある。しかし、すれ違った瞬間にその人をすぐに忘れる。「順応できていない他者」を容易に忘れ、簡単に排除するこの街や私は、どちらが正しく、どちらが異常なのか。そうした視点からも「正しさ」の呪いがどちらにかかっているのか、思い知らされる。



 これらに描かれているのは、瞬時に「正しい」とされる事柄への反抗と、共生のままならさである。もはや時代は、道徳や社会的規範を守る重要性を求めていない。高瀬が掬っているのは、正しさの暴力によって「痛い」とすら声を挙げられない人々の心の機微だ。


 かつて、芥川龍之介は『侏儒の言葉』[iii]で「道徳は便宜の異名である。『左側通行』と似たものである」と綴った。道徳は曖昧に守られている都合の良いルールなのかもしれない。

「正しさ」は他者との共生の上に成り立つ概念である。皆が幸せになるために、一定のルールは必要だ。ただし、それは絶対的なのか。「正しい」ことは、実は誰かにとっては正しくないかもしれない。一方で、個人のルールが各々尊重されるのも許されない。共生するために、完全なる「正しさ」や「ゆるし」「幸せ」を求めるのには、限界がある。

 自分が他者にできることは、実はほとんどない。これもできない、あれもできない。にもかかわらず、一緒に在ろうとする。“できないこと”をひとつずつ引き剥がした残滓に、真の共生の喜びがあるのではないだろうか。



 人間は、必ずしも理想通りの「正しさ」を全うできないし、完全な「愛」を表現できない。そのふがいなさを素描しつつも、一抹の祈りが諸作品に隠されているように感じてならなかった。「どうか、正しくない私も、正しき者にしてほしい」という懇願に似通う、祈り。


 特に『おいしいご飯が食べられますように』のタイトルには、美味しいと感じられない、すなわち、「正しさ」を正しいと思えない個人の、マジョリティに対する不穏なアンチテーゼが静かに呈されている気がしてならない。


 暗黙裡に「正しい」とされる曖昧なルールが、その人を圧し、逃さないようにする怖さ。それにもかかわらず、社会が要請ないし渇望する「正しさ」に、今なお縛り付けられてしまうのを否めない。本当は切実に、出会うすべての人とうまく生き合いたいからなのだろう。


「正しい」は、本当に正しいのか?

問い返したくなる反発心だけは心に澱のように横たわる。高瀬の作品がある限り、その問いは続くだろう。しかしそれは、他者を理解したい欲求を掻き立てるトリガーにもなった。あなたの「正しい」を教えてほしいし、私の「正しい」も知ってほしい。


 

[i] 高瀬隼子 1988年生まれ。小説家。『犬のかたちをしているもの』ですばる文学賞受賞。2022年4月『おいしいごはんが食べられますように』で芥川賞受賞。 [ii] 2022年4月、芥川賞受賞作品。 [iii] 芥川龍之介の随筆・警句集。(1923~1927年)

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