―井戸川射子作品をめぐる不条理な世界への折り合いのつけ方―
川窪彩乃
あなたはよく笑った。少なくとも、その話をする時以外は。
悲しいことがあっても、誰も責めず、とにかくよく笑った。まるでこの世に慣れるように、何度も繰り返し笑った。アマゾンプライムで映画を選ぶ。リュックにぎゅぎゅっと荷物を詰め込む。ひとつひとつがいたいけで、儚げだった。時折、何もない方をじっと見つめるが、そこには何もない。
目の前を霊柩車が通った。私は小学生のように、ぐっと親指を隠す。
「おやゆび…」
あなたに言いかけたところで、口をつぐんだ。あなたには、生まれた時から親がいない。
*
「児童養護施設で育ちました」とあなたは言った。全く笑わなかった。
スパゲッティを皿に分けながら、あなたは淡々と告げた。私は、自分のバニラアイスがドロドロと溶けていくのが気になって仕方なかった。あなたに好かれる必要があったから、それどころではなかったのだ。言い換えれば、あなたの背景は私にとって全く取るに足らないことだった。そこにいてくれるだけで、十分だったのだ。
あなたのことをもっと知りたいと思った時、井戸川射子[i]の『ここはとても速い川』[ii]が現れた。本は時折「不思議」を起こす。自分の生活や状況に合致する本が、偶然にもその当事者の眼前に登場するのだ。本当に、あなたのことを書いたような小説だと思った。
*
本書の主人公・集(しゅう)に、親はいない。生まれた時から児童養護施設で暮らしている小学五年生だ。物語に大きな悲劇は起こらない。ただ淡々とした日々を、彼は真摯に見つめ、受容していく。
親友の聖(ひじり)と亀を捕まえに行ったり、YouTubeを見たり、実習生がどんな人かをよく観察する。施設内の大人の無自覚な性暴力や、聖が父親のもとに帰ってしまうシーンが、妙に現実的で生々しい。
本書でもっとも繊細に描かれているのは、子どもならではの世界との向き合い方である。
シートン動物記は観察が多いのに、昆虫記になると虫は実験ばかりされてしまう、小さい方は不利やろな。
鼻の頭を中指で、弾ませるように叩いて目をつむると、俺の中ではシャッター押したことになんねん。すごい景色とか、忘れたくない時にする。この場面も遠い遠い、自分なりの覚え方しかしてへん思い出になってしまうな。
最初に逃げたんはあんたのお父さんやわなあ、ってばあちゃんが言っとった、俺には、それが救いやってん。もう他の、周りの人とか呪う必要ないやんと思った。
寄る辺ない「生」という川の流れに足をすくわれないように、非力ながらも現実を受け入れていく。親がいなくても、大人が汚くても、憎しみも悲しみも抱かない。逆に抱いてしまうと苦しいから、ただ淡々と川の流れに任せる。その姿が切なく、それでいて頼もしい。赤子のような柔らかなにおいと息遣いが、すぐ耳元にあるかのようだった。
*
集の唯一の家族は、入院している祖母のみである。祖母は、集の母親の断片的な記憶をぽろぽろと語り、集はそれらをかき集める。しかし、それ以上、深くは聞かない。
最初、ばあちゃんに会った時に「あんたのママやらの昔の話はもうあんまし覚えとらんからね」と言われてしまったけれど、時々思い出したことだけを教えてくれる。ばあちゃんは同じ説明を何度も繰り返す、直に触れへん、確かめようのないことばかりだわ。
「あんた、生まれるまで股をぴっと閉じとったから男や女や分からんかって、生まれた時やっと男やて知ってな。その頃はもうお見舞い来るんはばあちゃんだけやったから、ママは白い病室でずっとあんた抱いとったわ。良かったねえ。悲しいことは起こりにくい。(略)」
集には愛されていた瞬間があったようだ。祖母は「悲しいことは起こりにくい」と、その事実を何度も彼に説明するのだった。
*
この世には、簡単に説明できないことがたくさんある。親が子のもとを去ってしまうこと。「育ち」によって社会的なハンディキャップを抱えること。愛しているにも関わらず一緒にいられないこと。幸せを求めているのに苦しくなってしまうこと。きっと、あなたもたくさんの不条理を、その胸にそっとしまってきたのだと思う。
しかし、募らせた思いは時折、嘔吐のように胸を突く。それは集にも起こった。ラストシーンで、集は施設長に「生」にまつわるあふれんばかりの切なさを吐露する。
生まれてくるだけで恵まれ過ぎてんのは知ってますけど、みんな、自分の稲かて背負いきれんのに。(中略)アガペーなんて、名前についっとってもあかんくて、悲しいことは起こりにくい?それなら俺は、置いていかれた時はどうやった?一瞬でも昔に戻れるんならお母さんとおった瞬間を選ぶって、俺はもう決めてる。どんな抱っこやったかも覚えてないけど、そこめがけて飛び込んでいく、今の言葉で何か話す。短い時間しか与えられへんかってもきっと俺は、母さん、嬉しい、って言ってしまう。どこまで口に出して言ったんかは自分でもよう分からんかった。
しかし、この叫びも「集は優しいな」の一言で片づけられてしまう。不条理な現実に翻弄される痛さや怖さ、やるせなさは、言葉に乗せても重すぎて乗せきれず、体にじんわり染み込ませ、無きものにするしかないのだった。つまり、それはあきらめることだった。
*
『ここはとても速い川』を読み、特別大きな発見をしたわけではなかった。しかし、たった一つ、あなたが今日まで死なずに生きてきた理由が分かった気がした。
あなたに初めて会った時、私は「死にたいと思ったことがある」と漏らした。その時、あなたは「絶対死んではダメなんです。生きたかった命があるから」と言った。全く笑わなかった。私は「死にたい」と本気で思ったことのない人のこの手のぬるい言葉をもっとも嫌った。でも、あなたの言葉には殴られた。「生きたかった命」の中に、かつて捨てたかったあなた自身の命も入っていそうだったから。
きっと、あなたは、この圧倒的な世界の無情さに折り合いをつけ、抗えない現実と真っすぐ向き合ってきたのだろう。集と同じように。
*
本当に悲しい時、人は淡々としている。空を仰ぐしかないあの諦観の感覚。みんなが「あきらめるな」と言う。これがずっと窮屈だった。でも、あきらめないとやっていけないこともある。あきらめるのは、決して土俵から降りたわけではない。悲しみを抱いて生きていくための処世術なのだ。
何かをあきらめたことのある人は、それが手から離れていくときの恐怖を知っている。その覚悟はどれほどしんどいものだろう。あきらめたことのある人は、あきらめなかった人と同じくらい強いように思う。井戸川射子の作品を読むと、世界や人生につけた「折り目」を迷わず誇れる。
同氏の詩『かわいそうに、濡れて』[iii]には、印象深い一節が記されている。
草花はどれも、湯気の多い生育環境に合わせている/流れる線の形をし、/根から飲むべきだから水辺に集まる/生花は端から枯れていき、布製の葉は濡れて縮む/戻れない素晴らしい変化だ/当たる風での一斉の揺れなどが/少年たちへの、何かの合図にもなるのだろう
川や草花は、見つめればずっと同じに見えるが、絶えず変化を続けている。私たちもたゆまず変化し、あらゆる方へ枝葉を伸ばす。揺らぎ、うごめき、震え、あきらめ。形容できない数々の心情を「合図」とし、人は世界との対峙方法を知る。生まれ育った環境や経験によって、思考や価値観が形作られると多くの人が言うだろう。しかし、私はあなたに出会うために、今までの幾多の絶望を経験してきてよかったとさえ思っている。きっと、人生は環境の産物ではないはずだ。
「悲しいことは起こりにくい」。それを知ってほしい私の願いは、たったひとつ。儚く尊い微振動で形作られたあなたが、大人になるにつれて、この世で深く呼吸ができますように。
*
この話は、決して児童養護施設で育った人間を憐れむものではない。小さな頃から自分にしか分からないしんどさに一生懸命折り合いをつけてきた、たった一人「あなた」を綴った話である。
[i]井戸川射子 1987年生まれ。詩人、小説家。国語の教師である。『する、されるユートピア』にて第24回中原中也賞を受賞。2023年1月『この世の喜びよ』で芥川賞受賞。
[ii]野間文芸新人賞 受賞作品。
[iii] 『現代詩手帳』2023年1月号より引用。
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