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生きることはしんどい 第3回

―江國香織作品の中で愛する存在を失った世界に浸る


川窪彩乃



 

 この春、実家の愛犬が亡くなった。


 名前はいちご。雑種の大きい白い犬。耳だけビスケットみたいに茶色くて、肉球からはトウモロコシのにおいがする。

 地方の山奥に兄弟で捨てられていたいちごを引き取ったのは高校生の冬。臆病で吠え癖はなかなか直らない。でも、誰かが悲しくて泣くと、励ますかのように涙をぺろぺろ舐めてくれる優しい犬。しかし、噓泣きすると「へぇ」という表情で赤いハイヒールのおもちゃをカジカジするのに専念する。本心を見破る力があるのだ。

 散歩が大好きで、季節のにおいを誰よりもよく知っている。私のことを下に見ている淡々とした表情も信頼できる。そしてよく喋る。ベランダから私を見つけると「お母さん、お姉ちゃんが帰ってきた!」と知らせる声は町中に響く。


 こうやって過去形で書けないのは、いなくなってしまったことを認めるのが辛いからだ。

いなくなったのは頭で分かっているのに、こころの「どこか」でまた会えるのではないか?あの笑った顔が見られるのではないか? と、ぼんやりと思ってしまう。


 一方、あれだけ愛していたにもかかわらず、彼女が「そこに居たこと」をなぜかしっかり思い出せない。毛の感触、お腹の体温、玄関で仰向けで寝る姿。そのどれもこれもが、一瞬の夢だったかのように思われてしまう。

 しかし、実家に帰った時、よその犬が散歩しているのを見てはじめて「あ、いたんだよな」と実感する。確実に、母と一緒に自分を迎えに来てくれた、あたたかで無垢な存在がいたのだ。


 私は、彼女が虹の橋を渡った直後、あまり泣かなかった。

 しかし、思わぬところで涙がとまらない時が今も続いている。電車、仕事中、夜寝る前。「犬」と一切関連しないところで心は慟哭した。たらたら流れる涙をどうしたら良いか分からず、「あくびです」と言って持て余している。どうしてだか今も分からない。


 江國香織[i]の『デューク』[ii]を読んだ。


 主人公は、愛犬「デューク」を亡くしたばかりの女性で、バイトに向かう電車の中で大号泣している。それを見たある青年が、主人公を誘って一日デートらしいことをする。

 主人公は不思議と、その青年に心を開けてしまう。プールに入ったり、アイスを食べたり、銀座を歩いたりと、今まであたかもずっと一緒にいたかのように一日を共にする。

 最後、青年は「今までずっと、僕は楽しかったよ」と主人公に伝え、さらりと去っていく。この青年は人間の形をして現れたデュークそのものだったのだ。


 短編集の最初に掲載されているこの物語は、私の心をつかんだ。愛しい犬を失った物語だったことはもちろんだ。しかしもっと言えば、江國香織が「喪失」の対象がどれだけ小さい存在でも、当たり前のように立派な「喪失」として認めていたからだった。対象でかなしみを比べない人がこの世に存在することは、大いなる慰めになった。

 江國香織の小説『きらきらひかる』『神様のボート』も、どれも一見「歪」だった。でもそれが当然とされている在り方が良かった。社会や大勢の人にとって、他人のかなしみは「圏外」の話だ。しかし、その疎外感を掬い、それを前提としている姿勢に救われる。人はかなしい時、常識から逃れてその歪な世界に浸る必要がある。初めてそこで呼吸できることすらあるのだ。『デューク』もその一つだった。


 ペットが亡くなった時に「ペットだから」と、かなしみを軽く扱われるケースがある。「人間より先に死ぬのは当然。分かっていたことでしょ?」と。

 しかし、それは全く違う。あなたや私が大切にしている対象がいなくなったという事実に、比較はない。人間でも、ペットでも、恋人でも、故郷でも、思い出でも、景色でも、あなたが大切にしているものへの愛情と、それを亡くした失意は、誰にも比較されてはならない。あなたがそれを大事にしている事実を知っているのは、たった一人、あなただけである。どうして、それを他人に比較されよう。

 だから、どうか喪失のかなしみを無きものにしないでほしい。あなたが愛した存在は、あなたに思い出されることによって、永遠に存在し続けるのだから。

 さて、大事な存在を失い、「では、悲しまない世界の方が良かったか?」と問われたら、どうにも「はい」とは頷けない自分がいる。悲しまないということは、大事な存在と出会わないこととイコールだからだ。


 生きることからかなしみは必ずや引き離せない。誰かを愛せば愛するほど、失った際に深いかなしみを経験する。二度と帰ってくることができないような暗い深淵をのぞく絶望感に苛まれる。「これが一生涯続くのか」と。死ぬよりも生きる方が辛いと感じることすらある。


 それでもなお、悲しまない世界を選ばないのには理由がある。その存在を愛する気持ちには、失ったかなしみを凌駕するほどの掛値の無い素晴らしさがあるからだ。まさに今、私よりも深い悲嘆を経験する母は言う。「いちごが居なくなって悲しい。けれど出会わない人生よりは、出会った人生で良かった」と。


   痛みは少ない方がよいと私は思う。だが、痛みを感じることがなければ、私たちは傷の手当てを

  しようとはしない。目の前にいる大切な人が、どれほどかけがえのない存在なのかを認識できない

  こともある。(…)痛むとき、私たちはこれまでにないほど真剣に、何ものかに向かって祈り始め

  る。そうしたとき、いかに生きるかではなく、いかに生かされているかを考え始めるのではないだ

  ろうか。(若松英輔[iii]『言葉の贈り物』)


 かなしみの深いところで、人は喪失した相手と出会い直す。失ってから初めてその存在への愛情の深さに気づくことすらある。大切な存在に生かされていた私。失う前の絆とは別に、失った後にも絆は結び直せる。いなくなった存在にかなしみを覚えるが、いなくなった存在によって癒されもするのだ。


 もし、いちごがデュークのように現れたら迷わずこう言うだろう。

「春から時間が止まったまんまだよ。でも、私の人生に現れてくれてありがとう」と。


 昔のように「お姉ちゃん、今日もしんどそうだね」と言ってくれるのを、少し期待している。




 

[i] 1964年生まれ。『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』『号泣する準備はできていた』など著作多数。 [ii] 『つめたいよるに』(1989)収録作品。 [iii] 1968年生まれ。批評家、随筆家。『越智保夫とその時代―求道の文学』(2007)、『魂に触れる 大震災と、生きている死者』(2012)など著作多数。

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