西加奈子作品と「存在すること」へのゆるし―ただそこに「在る」難しさ―
川窪彩乃
差し出した手紙を「要らない」と言われたことはあるだろうか。
幼稚園児だった私は、当時流行した「手紙交換」に精を出していた。便箋なんて持っていないから、メモの裏に精一杯のメッセージとイラストを描いて、友達に渡す。
ある夏の日に事件は起こった。
同じクラスのミチコちゃんが「あやのちゃんの手紙いらない」と言ったのだ。私にとって、手紙を拒否されることは、存在を拒否されるのと同義だった。初めて存在意義を失い、「存在すること」への問いを胸に秘めた瞬間だった。
それから私は「存在すること」に潜む何か重大な重みと不穏な空気に、心を痛めるようになった。傷つけてしまったのだろうか、何がいけなかったのだろうか、自分はここにいていいのか、迷惑なのではないか。どんなことをすれば存在するのを許されるのか。そんな風に悩むようになったのだ。
電車に座ったら隣の人が急に場所を変えたり、ふと放った言葉で相手の顔色が微妙に変化したとき、湿り気のある汗が額を伝う。いつも他人に「居ること」を許されていない気がする。だから相手を傷つけない範囲で「存在しよう」とする。または「存在しないよう」にする。それは、周囲には伝えにくい悲しみだった。本当は、何をしても・しなくても存在を肯定されたいし、手紙も受け取ってほしかったのだった。
「ただそこに在ること」の難しさと残酷さ。まさしくこうしたしんどさを、西加奈子の諸作品は示唆している。
「ぶすである」のを理由に、周囲からいじめを受け、引きこもる主人公・きりこを描いた作品『きりこについて』には、「かわいい」とされるあいまいな社会基準からの逸脱によって、存在意義を見失ってしまった悲しみが記されている。
ただ、そこにいる、という、それだけのことの難しさを、きりこはよく分かっていた。人間たちが知っているのは、おのおのの心にある「鏡」だ。その鏡は、しばしば「他人の目」や「批判」や「評価」や「自己満足」、という言葉に置き換えられた。
存在意義を見失いそうになる時、自分を図る定規を他者に置いている。他人の視線・期待・拒否に振り回される。私の人生なのに結局、私は誰なのか。このままでは、他人が呪詛そのものになってしまう。
また、小説『ふる』では、ビデオ会社で働く主人公・池井戸花しすが、職場で横行する悪口を、ずっと見て見ぬふりをする場面がある。そしてみんなに「悪口を言わない池ちゃんは優しい」と口々に言われる。だが、その黙る行為は「悪口を言われないため」の防衛だった。
でも花しすは、自分のことを優しいと思ったことなど、一度もなかった。自分は、誰かを傷つけるのが怖いだけだ。それを優しさだと、ある人は言うかもしれないが、傷つけないことと、優しいことは違う。花しすは、人が傷ついたとき、顔が歪むのを見るのや、流れている時間が止まることが嫌なのであった。そしてそのことに関与しているのが自分であるということが、一番怖いのだった。
誰かを傷つけてしまうのが怖い。傷つけてしまえば、避けられるかもしれない。もっと行けば「居なくていいよ」と言われる危険性がある。だから、誰の感情も害さないままに、あまつさえ「優しい」と言われるこの皮肉。存在を許されるために、他者に迎合し、責任から逃れる罪悪感が描写される。ここで、花しすが「悪口はダメだよ!」なんて言ったら、総スカンを食らうのは目に見えている。正しさは時にむごい。正直に生きると、他人に嫌われてしまうから、優しい人を演じて居場所を確保するのだ。
こんな言葉に出会ったのを思い出す。寺山修司との往復書簡『ビデオ・レター』の中で語った、谷川俊太郎の言葉。
自分が誰かっていうことは、自分に訊いても分からない。他人に訊いてもわからない。自分が誰かっていうことは、行為のうちにしか、あらわれてこないような気がする。自分が傷つけた他人の顔を見るとき、いくら疑っても、逃れようもなく、自分が、ここにいるのを感ずる。
傷つけ、傷つけられることで感じる、ざらざらとした自分の輪郭。歪で、黒くて、すごくにおう。他者が怖い。私は、こうなるために生まれてきたわけではなかったはずだ。
短編集『炎上する君』では、学生時代から言われのない陰口を叩かれ、邪険に扱われてきた梨田と浜中という女性が登場する。
おかっぱ頭ときっちりした三つ編み姿というだけで「学徒動員」などと呼ばれてきた二人。その禍々しい過去から他人への不信感を拭えない。しかし二人は、「足が燃える男」なる、メラメラ燃える炎を足にまとわせている男に出会う。彼は、人に対し何の烙印も押さず、まっすぐに見つめる瞳を持つ男でもあった。男を前にして、主人公の二人は他者に自分を決められない、柔らかな世界を経験する。
私達の品定めなどしない、男であるか女であるかなど関係ない、「ひとりの人間」をまっすぐに見つめる、目であった。黒くて、光っている、大きな目。私と浜中は、その視線を受け、一瞬の間に、ほとんど寛いでしまった。
見た目や言動だけで人を判別しない目への寛ぎ。それは、彼女らが幼い頃から抱いてきた「品定めの視線」への怯えとは、全く真逆のものであった。
私たちの世界は矛盾で満ちている。「あるがままでいいんだよ」と言われて久しいが、あるがままでいて肯定された人をあまり見たことが無い。誰だって、いつも「役割」や「演技」の上に、自分を成り立たせている。その現実は、どうしても否めない。
無条件に存在することが、どれほど難しいか。どれだけ親しい間柄においても「役割」は「存在」に先立つケースが大いにある。「あるがままでいいんだよ」という言葉は、綿あめを口に入れた時のような脆さを孕んでおり、「ここに居てもいいんだ」という自信は、常に「役割」や「演技」「価値」の中に包摂されている。「役割」の仮面を幾重にも被っている私たちの本音は、他者の拒否と期待、評価によって霧散する。だから、私たちは「ただそこに在ることの難しさ」に辟易するのだ。
西加奈子の作品を読むと、存在のゆるしを請う自分に出会う。それはとてつもない絶望に満ちた邂逅だ。「あなたはそのままでいいんだよ」という言葉を、どれだけ切実に求めているか思い知らされる。しかしなぜか読後には、このどうしようもない悲しみに打ちのめされながらも、生きることの美しさにめまいを起こしてしまう不思議さがあった。
この世に絶望した人が、ストレスにより風船のように空に浮き上がってしまう『ある風船の落下』というSF物語。クラスで無視され、両親からも見捨てられた主人公・ハナも、いつの間にか“風船病”になってしまう。しかし、同じ病を患う黒人・ギョームが放った言葉に、舌を巻く。
「ハナ、聞いて。僕の祖先は迫害を受けた。まったくいわれのない迫害だ。そして、僕は、この容貌と臆病な性格のせいで、小さな頃から苛められてきた。僕は人間が、その悪意が怖かった。世界を憎んだ。みんなが僕を攻撃する、そんな世界を捨てて、ここに来た。でも、ハナ。聞いて。僕は、君に会って、君と話をして、何かを信じて、求めることの幸せを思い出した。もし裏切られたとしても、社会から中傷を食らっても、それでも、誰かを信じることの素晴らしさを、僕は思い出したんだ。君が好きだ。」
「人間は愚かだ、でも、だからこそ尊いんだよ!」
どの主人公も「ただそこに在る」だけで許されるほど、優しい結末を迎えなかった。現実は厳しい。綺麗事でおさまるわけがない。それでも西加奈子は、余すことなく「存在」を肯定し、「他者」という呪いを解いた。どうしようもない部分も含めてあなたはあなたでよかった、そして、他者はあなたを受け入れ、愛する責任と可能性を持ち合わせている、と。
私は他者から存在を許されたかった。でも、本当は違った。私はずっと、他者を信じたかったのだ。ためらいなく誰かを愛し、求めることを許されたかった。かかわることで灯る人と人との温かさを喜びたかった。失敗してもなお、隣人を愛するのをやめたくなかった。「他人」を、「存在」を、許していなかったのは私の方ではなかったか。
私たちは傷つけ、傷つけられることを介して、存在の痛みをまざまざと感じる。逆に、愛し愛され、歓迎されることによっても、自分の存在を嬉々として感じる。あなたがあなたとして、私が私として存在するためには、傷と愛の両方から決して逃れられない。存在するとは、そんな対極的な一面を宿している気がする。
傷ついてもなお、他者を信じ、愛したかったのは、愚かではなかったのだ。
新宿の雑踏を歩いているときに、すれ違うあらゆる顔を見る。一人一人に刻まれた皴と表情がある。それは誰にも奪えない、それぞれの歴史だ。この交錯の中で、人は人を存在化させる。このもどかしく優しい営みを、私は恐れる必要はない。
雑踏を進み、何気なく入った喫茶店で隣の席を見る。本物の西加奈子が、そこにいる。「西さんのファンです」と思わず声を掛ける。彼女は答える。「そう言っていただいて嬉しいです、ありがとう」と。真っすぐな瞳を見て、私は一点の曇りもなく、存在してきてよかったと思う。
私の想いの手紙は届けられたのだった。
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