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気配を辿る日々 第8回

  • 13 時間前
  • 読了時間: 4分

流れに身を浸す

永沢碧衣



 9〜10月、地元河川の漁協や専門家、釣り仲間とともに、サツキマスとサクラマスの生息調査に同行させてもらった。

 調査は夜に行われる。魚たちが昼間と違って大人しく眠っている時間帯を狙うためだ。ネオプレンのウェットスーツを着込み、冷たい川の中へと身体を沈めていく。眠っている彼らの背中に川下から近づき、網で捕獲するという方法で調査は進められた。



 源流域は本流ほどの水量こそないものの、流れの緩急は激しい。この流れに逆らいながらライトを照らし、視線をぶらさずに身体を保つのは想像以上に難しい。調査チームの補助として各々が網を持たされたが、私を含めた初体験のメンバーは、目標の魚影に追いつくどころか、思うように身体をコントロールすることすらできずにいた。一方、熟練の調査チームは迷いなく川上へ進み、次々にアマゴやサツキマスを捕獲していく。私たちは魚影に悟られないよう距離を保ちながら、その後を追った。


 

 唯一の光源は手持ちのライトとヘッドライトだけだった。灯りに照らされて、はじめて世界の輪郭が浮かび上がる。一歩一歩進むたび、その輪郭はたちまち奥底の知れない闇へと還っていった。調査チームの突き進む後ろ姿は、いつのまにか暗闇に溶け、ぼんやりとした灯りだけが遡上していくように見えた。灯りを消すと、自分自身の身体がどこにあるのかさえ分からなくなる。

 辛うじて地形や他者、そして自分の足元を確かめられたのは、絶え間なく流れ続ける川の音と私たち自身がここへ持ち込んだある種のノイズのおかげだった。この夜、獣や鳥といった陸上生物の気配はまったく感じられず、渓谷はこの沢の流音だけで満たされていた。前後に誰かがはぐれていないか、自分だけが取り残されてはいないかと不安になり、時折声をあげるが、その声も距離が離れるほど流音にかき消されていく。

 ちっぽけで自由の利かないこの身体は、次第に、畏れていた世界の一部へと溶け込んでいった。

 


 水の流れをかき分け、留まりやすいポイントを見つけては潜水し、川底をじっくりと観察する。しばらくすると、動く背景のような魚のシルエットが視界に入り込んでくる。

 夜、寝静まった魚たちとの最初の出会いだった。



 彼らには瞼がない。ふらふらとした泳ぎ方や、あくびのように口をパクパクと開く様子、砂利に身体を預けて泳ぐことすらやめている状態から、恐らく眠っているのだろうと分かる。寝ぼけたイワナの表情には、なんとも言えない愛らしさがあった。イワナの横でアマゴが寄り添うように眠っていることもある。「夜だと、あなた達はそんなに仲が良かったのかい」と思わず聞いてみたくなる、微笑ましい光景だった。



 水中で見る魚は、実際よりも大きく見える。時折、尺イワナ(30cmを超えるサイズ)が現れるが、それは50cmを超える巨体のように目に飛び込んでくる。そして調査対象のサツキマスともなると、まるでマグロのようなスケール感だ。産卵期の個体は顔つきが厳つく、婚姻色の美しさとともに、鬼気迫るような迫力を帯びていた。

 流木になったつもりで身を潜め、黙って観察していると、私たちもまた彼らから観察されていることが分かってきた。陸上から水面にぬるりと現れる外敵(釣り人や鳥類、獣たち)とは異なり、同じ水中で相対したことで、彼らの生活圏における「必要」と「不必要」を判断される存在になれたのだろう。釣りの時以上に近づくことが出来て、少しだけ彼らの領域に適応できた気がして、純粋に感動していた。

 

 調査と観察を終えると、来た下流へと身を任せて、流されながら戻っていく。魚を照らし続けていた灯りを、水中から水面へ向けてみた。そのとき、奈落に吸い込まれていくような別世界の中に、自分が身を置いていたのだと気づかされた。

 ひとたび泳ぐことをやめ、この流れへの抵抗を手放せば、どこまでも未知の底へと連れ去られてしまう。恐ろしくも美しい、水の流れとともに生きる住人たちに対して、人間と同じ価値基準をここで持ち込んではならない、そう強く教えられた夜だった。

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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