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気配を辿る日々 第1回

山からの難民と向き合う

永沢碧衣



山を歩いても気配が全くない。

その代わり、街中ではあらゆる動物が相次いで目撃されている──



2023年は山全体が大凶作と言える一年だった。

その前の年は十数年に一度と言われる大豊作の年だったのだが、その反動なのか、山の実付きがとにかく良くなかった。

 

そんな中、起きてしまった局所的な豪雨災害。



山も里も全ての大地が許容量以上の雨を浴びた。溢れた雫は大流となり、それまであったあたりまえの日常を壊していった。豪雨が過ぎ去ると、今度は雨が降らない猛暑が初秋まで続いた。深刻な水不足により、山も里もさらに大打撃を受けた。

 

稲作や畑の作物の収穫量にも支障をきたす中、彼らは目前までやってきた。

食べ物に飢えたツキノワグマだ。

 



私が暮らしている秋田は、野生動物の中でも特別、熊と向き合い続けてきた歴史やマタギの文化がある。秋田は森林面積が広い上に、街のすぐ隣には山がある。山の中で、熊は人の目には映り込まないようなところにひっそりと潜んでいる。場所によっては家のすぐ裏山に熊の巣穴があることもある。昔から人と熊の暮らしは隣り合わせだ。秋田の人々にとっての熊は、山の神からの使いや恵の象徴とされる神獣であり、時には人の暮らしに被害をもたらす害獣にもなる。実はその姿をはっきり見たことがある住民は少ない。あまり姿を見かけることがないからこそ、その存在はいまだに曖昧な領域に立たされている。

しかし熊の脅威が感じられない土地で暮らす人々の、離れた距離から生まれたイメージはまったく異なる。人に近い愛嬌で人語を操るマスコットや、人を襲い続ける凶暴な獣など。極端な性質で造形されることが少なくない。一番近い場所で暮らす人々でもなかなか見かけない生き物を、さらに遠い場所から想像しようとするからだろう。曖昧な領域にいる現実の異者を、分かりやすい性格の動物として落とし込むことで、なんとか理解できているものだと思い込み、人は安心したいのかもしれない。

 

そんな熊を誰もが身近に意識することになったのが2023年の異常さだった。

 

深刻な食糧不足。それは熊を比較的食べ物がある人里へ呼び寄せた。どこに食べ物があるか分からない山奥を探し回るよりも、確実にそこにある畑や栗林を目指した方が安定的に食料を得られるからだ。ただし、それだけが理由ではないだろう。

食べる瞬間は誰だって無防備になりやすい。通常、食事の最中に危害を与えられかねない異質な存在はなるべく遠ざけておくものだ。しかし山の中で得られる食料は、人も熊も食べられるものが非常に多い。旬の季節になると、お互いのテリトリー内で競合してしまうこともしばしばある。熊はなるべく人や他の動物と相対しないように、山の奥深くにひっそりと染まるような体表を持ち、臆病で繊細な感覚を持つ。人が安心して山に入るため、野生動物を遠ざける対策をとるのと一緒で、彼らもそれなりの知性や体質を持ち合わせている。何が起きるか分からないリスクを負ってまで、熊の方から人前に姿を現すことは滅多にないことだ。

 

でも何日も食べるものがない、極限状態が続いたらどうだろうか?

なりふり構ってはいられないとしたら?



「共鳴」2023.10

 

ついに崩れた土の器。

生命の水へと姿を変えて、大河に溶け込み、溢れ出す。

 

対する彼らは熱を絶えず、

恵みを求めた旅を続ける。

毎日毎日山をまたぎ、

何度も何度も世代を越えた。

いつしか変化に怯えない強かさを纏っていった。

 

数多の生命が混濁する時、

雨注の空は互いの領域を分断する。

世界の全てが赤く濁って見えるうちは

道の先が交わることなく、

傷つける間もなく、

飛び越えることなく、

青いままでいられるはずだった。

 

いずれ雨は止む。

いずれ大河に溶け込んだあの個はいなくなる。

流れたものにとらわれる間もなく、

彼らは対岸を見続けている。




向こう岸に押しとどまっていた彼らは極限状態を迎え、雨の柵が外れたら、臆病な性格を押し殺して、こちら側へ差し迫って来るだろう・・・。

 

10月の上旬。約2週間の制作期間を終え、まさに描き終えようとした時だった。

全国的に街中での熊の出没情報が相次ぎ、その異常性が瞬く間に知られることとなる。

 

現実が想像を追い越す瞬間は、絵筆を置くより早かった。

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