気の身体は越境する―身体のクオリアと気功メタノイア 第4回
- 2 日前
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呼吸でおどる、空気もおどる
鳥飼美和子
いま振り返ってみると、大学時代3年の最後の頃に始まった私の舞踏遍歴は前衛系のダンスの歴史の変遷を辿っているともいえよう。暗黒舞踏から即興舞踏へ、そして今回触れるコンテンポラリーダンスに至るのだ。
私が大学に入学する前年、赤軍派のあさま山荘事件が起こり、それ以前にも赤軍派は集団リンチ殺人を行っていたことが報道され、反体制運動をする学生への世間の評価は急落した。学生運動の激しく熱気のある時代が終わりを告げ、ニューミュージックと呼ばれた音楽が流れ始めていた。松任谷由実が旧姓荒井由実の名でデビューアルバム『ひこうき雲』をリリースしたのは私が大学に入学した年であり、オイルショックの年でもあった。そんな時代の風を受けた「しらけ世代」であったはずの私が、大学卒業後の進路を考え始める時期に、このままではダメだ、と昏い穴の中で何かに全身を摑まれたような気持に襲われたのだった。自分が求めていながらこれまで出来なかったこと、幼い日の石の上のダンスにつながるものを探そう、それに挑戦する最後のときかもしれない、と思った。21歳、今思えばそれが最後のはずはないのだが。
その時の自分の傾向や人間関係からみたら、前衛系のダンスであれば天使館系統の場に行くのが順当だったはずだ。それが、なぜ暗黒舞踏だったのか。何かに摑まれた私は、「おおもと」、源流に行こう、これまで行ったことがない深みに入ってみよう、と思ったのだ。
のちに世界で評価された日本発祥のButohの祖は土方巽である。また前衛系でも暗黒とは別の道を開いたのは、前回触れた山田せつ子の師であった笠井叡である。舞踏の表現を意識しつつ、パントマイムやバレエを基礎にしつつも、今までにない表現を求めたのが勅使川原三郎である。
前回記したように、自分は才能も工夫も努力も足りず、自立できていないという事実をしっかりと認めることが出来なかった私は、自分に決定的に不足している身体的な技術やテクニックを身に着ければ何かが出来るのではないか、という浅はかな思いで、そのころ注目され始めていた勅使川原三郎氏のワークショップに通うことにしたのだった。21歳の最後に始まった舞踏遍歴は、途中で3年半のブランクを経て、ついに最後の段階を迎えようとしていた。そのとき私は30歳になっていた。
空気のダンス
勅使川原氏は前衛舞踏の流れではなくバレエ、パントマイムなどをその舞踊の基礎にしている。しかしバレエやパントマイムの既存の表現を超えて独自の舞踊スタイルを構築した。その独自性とレベルの高さは、パリ・オペラ座バレエ団に3度の振付けを任されたことからも推測できる。私が体験したのはその独自の世界を創造する初期段階のカンパニーKARASでの舞台作品を創作するための稽古であった。
勅使川原氏のメソッドにおいてもイメージは重要な役割を果たすが、そのイメージは、「宇宙の風」「空気のダンス」など、物質、空気、流動感、硬軟などの質感を身体化する。一時期エントロピーダンスとも呼ばれた、崩れては立ち上がるのを延々と繰り返し、身体を極度に物質化し、建造物の崩壊のプロセスをダンスにするという独自の方法論で、バニョレ国際振付コンクールに参加し、衝撃の世界を果たした。(バニョレ国際振付コンクール1986年受賞作品「風の尖端」)
その技法は、あたかも身体の物質化による非生命化のようであるが、既存のダンスのバランスをとって滑らかに踊るという方法から離れて、身体感覚を質的に変化させることによって生まれた動きである。
勅使川原氏は教育現場で新世代との創造活動に意欲を注ぎ、また自身のアトリエで一般参加のワークショップも開催している。ワークショップでは、呼吸を重要視している。インタヴューにこたえて呼吸からダンスが生まれるプロセスを次のように語っている。
「僕らは「呼吸」をしないと生きていられない。呼吸は周りの「空気」がなければ成立しない、ということは、周りの空気まで含めてすべてが「身体」であると。そして身体には「重力」が働いている。その重力と身体を感じる「意識」と「呼吸」がある―それだけをたっぷり感じるところから始めます。身体内にどういう記憶があるかとか、どういう思いがあるとか、この音楽をどのように理解するかとか、そういうことは一切必要ない。ただ、自分の身体を感じましょうと。「理解する」以前に「感じる」がある、そして意識化した理解に向かう。具体的には、まず、呼吸だけをやります。「吸って」「吐いて」「吸って」「吐いて」・・・と。呼吸に集中して、と言うと、だいたい目をつむりたがりますが、そうすると身体のバランスが悪くなるし、音のほうに気が行ってしまうので、目は開けたままでやる。でもやっているうちにだんだんつまらなくなるでしょ。呼吸だけやれってどういうことよ?みたいな。そうやって苛ついてくると、何かやりたくなるのが情なので、だんだん味が出てきてそれがオモシロイんです。そうなったら「吸って~、もっと吸って~、もっと吸えるはずだ~」と指示する。で、今度はゆっくりゆっくり吐かせる。そうして自分の「呼吸の幅」を意識するようにさせます。ゆっくり吐ききってもうこれ以上吐けないところまで吐いたら、ゆっくり吸い始める。ちょうどボールを上に投げ上げると放物線を描いて止まることなく落ちてくるように、呼吸は基本的に止まらないサイクルを作っているから無意識にできるわけですが、その吸い始める時と、吐き始める時を意識的にやろうと。そうすると、つまりそれがリズムになっていく。もっと言うとそれが動作になっていく。その呼吸をガイドにして手を伸ばすことと呼吸を一緒にやる。
バレエではステップバックしてからやることをプリパレーションと言いますが、動作には全部そういう仕組みがあって、吸うんだったらまずちょっと吐く、吐くんだったらまずちょっと吸う、それを動作と一緒にやると、「緩む」というそこに特有な劇的なセンセーションが生まれます。
ワークショップではそういう呼吸と動作だけをやります。吐き切った後の「もういいじゃん」という表現的な心理を抜いて、最初は呼吸だけ、次は呼吸と動作を一致させて、調和させていく。(全盲の青年)スチュワートがなぜひとりで歩けるようになったかというと、呼吸と、踵、足の裏、指が順に床から離れるという動作を、呼吸のサイクルでやる練習をしたからです。だから呼吸(を意識すること)がなかったら、杖や手すりがないのと同じことで、彼にとって呼吸は調和のもとになっているんです。僕らはそういうことを全部組み立てているわけではなくて、自動的にできるオートマティズムをもっています。呼吸を意識してコントロールできるようになれば、あとは係数というか、条件を自分で加えていく方法を編み出せばいいんです。」
全盲の青年スチュワート・ジャクソンはロンドン・インターナショナル・フェスティバル・オブ・シアターの教育プログラムでの勅使川原のワークショップに参加し、勅使川原作品「LUMINOUS」に出演。スチュワートの踊る作品『Flower Eyes』やその稽古風景をとらえた短篇ドキュメンタリーも勅使川原氏によって制作された。スチュワート・ジャクソンは学習困難児でもあったが、身体運動をしていくうちに次第に物事を組み立てられるようになり、身体運動を記憶することが言語情報を組み立てるきっかけとなった、とも語っている。その体験をもとに、勅使川原は科学哲学、オートポイエーシスの河本英夫、認知神経リハビリテーションの宮本省三と交流を持ち 、勅使川原自身も『現代思想2007年5月号 特集=発達障害 療育の現場から』「療育の現場〈空気の目〉」と題してその体験を述べている。
舞踏遍歴の終わり
勅使川原氏の、呼吸のワークショップは、現在のマインドフルネスとしてのボディーワークや気功における呼吸を伴った導引法と共通している。また、山田せつ子氏も呼吸の重要性を指摘している。しかし、気功においてはダンス創作過程における思考と身体の緊密でスピードある行き来を意識して行うことは無い。また表現における緊張や他者に対する自意識の働きも必要としていない。
暗黒舞踏で私が感じた、角が生える、奥歯が森になる、体が泥になる、解けるなどの身体変容感覚、山田氏のもとで感じた内発的統一感、勅使川原氏のもとで感じた動きの質的変化、これが後に気功を体験することで次第に筋道だって整理されてきた。それは中国哲学の概念からうまれた〈気〉の変化に当たるのではないか。その変化を見守りつつバランスをとることによって身心の充実感、満たされた感覚をもたらし、心身の自己治癒が可能となる。また、身心変容体験として世界観の変化につながることもある。
さらに舞踏公演や稽古において、踊っている人を観ることによって得られる独特な共振共鳴感覚がある。観て楽しいとか美しいとか認識がはたらくことではなく、ダイレクトに身体が反応する、共振する、周波数が合致するような反応である。これはミラーニューロンの働きだったのか。気功においてこの現象をどうとらえることができるだろうか。この現象を他者との関係として考えることもできる。気功は個人の呼吸であり、また他者と共有する空気のダンスでもあるのだ。呼吸とダンス、空気のダンスというのは気功と共有できるコンセプトである。しかし、それを表現として観客の前に提出するということは容易なことではない。勅使川原氏は前衛舞踏でもない、モダンダンスでもない、バレエやマイムのメソッドを活かしつつ新しいダンスの誕生を模索していた。彼の表現は国内でもダンスの目利きからは評価されていたが、日本のダンス界のなかではまだ小さな活動であった。それがフランスのバニョレ国際振付コンクールで特別賞を獲得して世界的な評価を得ることができた。受賞作が自身のソロダンスであったために、カンパニーでの作品の振付の力をフランスで披露する必要があった。そのために、勅使川原氏のワークショップで稽古していた中からメンバーが選ばれたのだ。
そのカンパニーの5人のなかに、なぜが私も選ばれてしまった。私よりダンスが上手い人はたくさんいたのに、である。それは多分、ダンスが上手いということは、既存のダンスの色を持っているということ、それなら不器用でも色のない、しかし舞踊に対する志向と、少しの舞台経験がある私の方が既存のダンスを超える自分のカンパニーの中で何とかなる、と思ったのかもしれない。
エントロピーダンスとさえ呼ばれた独特のメソッドを生み出すプロセスは、それまで身体的な鍛錬をしてこなかった私にとってはあまりに厳しいものであった。フランスにはメンバーとしてついて行ったが、どうみても他のメンバーの足を引っ張っていたとしか思えない。
帰国後、日本ダンス界での後に衝撃のデビューといわれる作品は、表参道のスパイラルホールでの「月は水銀」であった。私はすでに膝を痛めていて歩くのもつらくなっていた。稽古のためにスパイラスホールに向かいながら、地下鉄の表参道駅の上り階段を見上げて、自分が地の底から這いあがろうともがいているような気がしたものだ。今でもあの表参道の階段をみると地上が遠かったあの頃を思い出す。
つまり勅使川原三郎カンパニーKARASでは、私はカンパニーの質を下げる存在でしかなく、スパイラスホールでの本番の一週間前にクビになったのだ。あの時の勅使川原氏の言葉はほんとうに必要最小限で、かつ的確なものだった。
「サトウ(私の旧姓)、明日から来なくていいから」
結局、この言葉が私の舞踏冥界巡りに終止符を打ってくれたのだ。私以外にもクビにされた人がいて、それから一週間で振り付けを変更して、さらに先鋭化された作品に仕上げた勅使川原氏、公演当日スパイラスホールでは「ブラボー」が響きわたり、多くの評論家や表現者から称賛されたものとなったのだ。
私は、ここまで頑張ってきたのに、とか、あと一週間で本番だったのに、とかそんなことはなぜか思わなかった。やっぱりそうか、という感じ、わかっていたけれど曖昧にしていたことを明白にされただけだったのだ。
幼い日の石の上のダンス、蠢きダンスを求めていたのか、私はなにか違う力を頼みにしていたのではないだろうか。何もない自分が本当に求めるもものは何か、私の乾いた喉を潤す水はどこにあるのか、それを探す日々が始まっていくことになる。
長い気功前史が終わり、気功に出会う時期がやってきた。しかし、わたしの気功には冥界巡りのような舞踏遍歴がどうしても必要だったのだ。



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