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気の身体は越境する―身体のクオリアと気功メタノイア 第1回

  • 鳥飼美和子
  • 1 日前
  • 読了時間: 5分

石と星の導きから始まる

鳥飼美和子


 1980年代から2000年初頭まではヨガと肩をならべ、共に東洋思想、道教、仏教などを源とした健康法・身心修練法として親しまれ、一時はカルチャーセンターの気功教室が2年待ちだったほど人気だった「気功」は、精神世界の一端を担うものとしても注目されていたのだが21世紀に入って衰退し、気功人口も徐々に減っている。


 ちょうど30年前、1995年の地下鉄サリン、オウム真理教事件直後、打撃を受けていた「ヨガ」は、アメリカにおいて新たな衣を纏い、戦略を持って日本に再導入されて活況を呈している。また、ルーツをたどると東洋的な身体観、自然観からヒントを得たであろう欧米系の「ボディーワーク」は、近年、「ソマティック」文脈で注目を浴びている。気功における存思内観と共通する「マインドフルネス」が一大潮流にもなっている。一方、「気功」はアヤシイ、古い、カッコ悪い、というイメージであり、すでに若い世代には認識さえされていない。身体と意識に対するアプローチとして豊かな内容を持った気功は、かつて多くのメディアにも取り上げられ、専門とする学会も生まれ、多様な分野からの研究が存在していたにもかかわらず衰退してしまったのはなぜだろうか。その原因は、中国ルーツに対する忌避感が大きいかもしれない。太古からの歴史を宿す神秘の国、悠々たる中国大陸というイメージはとっくに瓦解している。さらに「気」というものは実態が捉えにくく、怪しいと思われがちである。


 しかし、気功と深く出会ってしまった人々には、気功が人生そのものとなっている。単なる趣味や健康法を超えてしまうのだ。先輩達には及ばずとも、私もその一人である。初めて気功したときに「わたしがずっと探していたものがこんなところにあった」と感じた。私にとっての気功は、身体内の森羅万象を旅することであり、外なる世界と交感し、融合するダンスである。それは「いきもののよろこび」ともいえよう。


 誤解され、忘れさられたりする前に、私が出来ることは無いだろうか、なんとか気功の豊かな世界を伝えることは出来ないだろうか。そのためには客観的な気功についての研究が必要ではないかと思い至り、大学院で気功研究をすることにした。衰退したには理由があるはずだ。それをあきらかにするためには日本における気功の歴史を振り返る必要がある。私の気功研究の第一歩は、気功と出会い、気功を人生とした先輩たちが気功をどのように語るかを聞き取ることだった。それを修士論文「気功はいかに語られてきたのか―主体の経験として気功を捉えなおす」としてまとめた。


 「なぎさ」では、修士論文を下敷きにしつつ、幼い時から続く身体を介した「ものがたり」を綴りつつ、気功メタノイアにむけて歩みだしたい。


石の上で踊る

 1997年に出版した単行本『きれいになる気功』のプロフィ―ルに「幼い頃、庭石の上にのって踊っていたのが気功の始めかもしれない」と書いた。庭石は幼稚園児だったころの私の舞台だった。門から玄関に続くアプローチのゆるやかなカーブの内側にあり、その高さと言い、ちょっと窪みのある平らな表面といい、ここが舞台ですよ、と誘っているようだった。近くに大きなノウゼンカズラの木があった。長野県諏訪市には千人風呂で有名な片倉館というゴシック建築の大きな洋館がある。私が幼い時に住んでいた庭石のある家は、片倉館と同じ製糸業の片倉財閥の持ち家だったという。父は諏訪の赤十字病院の院長をしており、社宅としてその家を借りていたらしい。庭石の上でどんな風に踊ったのか記憶は曖昧である。ただ身体を揺らしたり跳ねたり、感覚のままに動いていた。その家は大きく、屋内にもいくつか舞台にふさわしいところがあった。階段が二つあり、それらはステージに上がるアプローチとして相応しい。ひとつには踊り場があった、まさに踊りにもってこいのスペースである。もう一つのまっすぐな急な階段を上ると、そこはサンルームになっていて古い籐椅子が置かれていた。籐椅子も舞台になる。サンルームに差し込む光にうっとりしながらうごめいていたような記憶がある。誰も観客はいない、一人遊び、それは踊りと言うより、まさに「蠢き(うごめき)」だったのだろう。


 ひとり遊びのうごめきから観客がいる舞台上のダンスになったのは、聖母幼稚園の年長組でのキリスト生誕劇のことだった。踊りが好きらしいと気づいたシスターが、私を東方の博士をエルサレムに導く星の役にして、振り付けてくれた。私の初舞台であった。頭に大きな星型の飾りをつけて、母がつくってくれた黄色い衣装を着て踊った星のおどり。東方の博士をキリスト生誕の地に導く、それは人生の初舞台としてあまりに意味深い。しかし、生身の自分の感覚としては、石の上のゆらめきや籐椅子の上でのうごめきの方が、より深く身体に浸み込んでいると感じるのだ。


暗黒舞踏に向かう伏線

 踊ることが快感であると気づいた私は、小学生の頃バレエが習いたいと親に頼んだ。そのころバレエは少女マンガなどで脚光を浴びはじめ、森下洋子が少女雑誌のグラビアを飾るようになっていた。しかし、明治末の生まれの父は「バレエなど、半分裸で足を挙げるようなはしたないものだからダメだ」と言う。全く古い考えだが、我が家で父は絶対君主であったので、あきらめざるを得なかった。しかし、後年ふりかえってみると、このときバレエを習わせておけば、大学に入ってから暗黒舞踏などと言う「怪しく」「はしたない」「暗黒」の世界に入るなどということは無かっただろう。中学、高校へと進むころは、カウンターカルチャーが活性化し、前衛的な表現が次々と生まれた時代であった。それに影響されて中学、高校は演劇部で活動したがどこかに違和感があった。それは端的に言うなら、セリフと身体が一体化しないからである。セリフという思考が一体感を阻害するのだ。もっと徹底したら一体化するのかもしれないが、その頃は出来なかった。私が求めていたのは幼い頃の石の上での、籐椅子の上での、無心のうごめきと一体感であった。


 もしかすると言語的思考を超える表現があるかもしれない、それが前衛舞踏であるらしいと、大学三年の終わりに土方巽の主宰する暗黒舞踏アスベスト館の女性舞踏手募集に応募してみた。そこから始まる前衛舞踏、コンテンポラリーダンスの悪戦苦闘の遍歴の年月を経て、30代半ばに気功と出会うこととなる。


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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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