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気の身体は越境する―身体のクオリアと気功メタノイア 第2回

  • 鳥飼美和子
  • 3 日前
  • 読了時間: 7分

暗黒舞踏に至るまで

鳥飼美和子


 前回書いたように、大学三年の終わりに土方巽の主宰する暗黒舞踏アスベスト館の女性舞踏手募集に応募したのだが、そこに至るまでをもう少し思い出してみよう。


 1970年代は、60年代後半に誕生した前衛的な舞台表現が最も活発に活動した時期であった。寺山修司の天井桟敷、唐十郎の状況劇場(赤テント)、佐藤信の黒テント、鈴木忠志の早稲田小劇場が活発に活動し、四人の劇作家にして演出家は、アングラ演劇の四天王と呼ばれていた。私が初めて観たアングラ演劇は状況劇場の「唐版・風の又三郎」だった。夢の島に張られた赤テントの中の熱狂、主演は李礼仙と根津甚八。「風の又三郎」、「高田三郎」、「精神病院」、「反戦自衛官」をめぐって、倒錯した幻想世界が繰り広げられた。「どっどど どどう どどうど どどう」という宮沢賢治の原作にある歌が唐版倒錯世界に響き渡る。テントから出て夜の東京湾岸の風景が見えたとき、この夜がさらなる謎の断片を隠しているような違和感を覚えたものだ。その後もいくつもの前衛的な演劇を観たが、「唐版・風の又三郎」は私の演劇体験のエポックの一つである。


 高校、中学と演劇部で活動をしていたにもかかわらず、大学では演劇のサークルに入らなかったのは、どうしてだったのだろうか。前に書いたとおりセリフを語ることに対する違和感もあったが、さらに大きかったのは、ここで演劇を始めたら何か後戻りができない、大変な世界に踏み込んでいくことになる、という恐れがあったからだ。児童文学研究会に入部し童話を書いてお互いに合評したり、宮沢賢治の作品研究などもやったりしながら、学生運動の嵐が去った大学で遊んでいたともいえよう。


 当時は「就活」などとは言われていなかったが、多くは将来について、就職について考え始める大学三年の頃、私は何か行き詰るものを感じていた。私はこのままでいいのだろうか、と。本当にやりたいことは何なのか、そんな自分への問いかけのなかで「石の上の踊り」「無心の蠢き」が蘇ってきた。


 その頃、舞踊の世界でも前衛的な活動が行われており、アート系の雑誌などで紹介されていた。日本における「前衛舞踏」というダンスのジャンルは、それまでのダンスの概念を破壊的に超越し、世界的な評価を得た。その中で、土方巽 を創始者とする系列は「暗黒舞踏Butoh」と呼ばれ、そこから麿赤児の駱駝艦や天児牛大の山海塾など多くの舞踏団が生まれた。初期には共に活動して、その後神秘的傾向を高めていった笠井叡の天使館の流れ、両者にかかわりつつ独自の道を開いた大野一雄の流れがあるという。


 その流れの中に私の「石の上の踊り」「無心の蠢き」に繋がるものがあるかもしれないと感じた。ちょうどその時、『美術手帳』だっただろうか、雑誌に「女性舞踏手、募集」という記事を見つけた。今しかない、そんな切羽詰まった感じがして暗黒舞踏アスベスト館の白桃房の募集に応募した。私の性質や傾向からしたら笠井叡の天使館に行くのが順当ともいえよう。しかし、なぜか暗黒舞踏を選んだ。それは暗黒舞踏の本家本元に行ってみたい、そして今までの自分の境界を超えてみたい、と思ったからだった。


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1976年6月 暗黒舞踏派結成20周年記念連続公演

「ひとがた」 鳥飼は佐藤未訪子名で出演


暗黒舞踏の稽古における感覚変化

 私が暗黒舞踏のアスベスト館の一員として加わったのは1976年の一時期、公演作品「ひとがた」、映画「風の景色」を作成していた時期だ。稽古に参加し、出演したのは芦川羊子が主演する白桃房の作品においてである。当時、暗黒舞踏アスベスト館の白桃房では土方が芦川羊子に振り付けた動きを弟子たちが模倣する、という方法がとられていた。土方が発する言葉と芦川の動きに導かれ、身体感覚を発動して模倣と模索を同時に行うのだった。


 その表現は外に向かって運動神経を働かせて動きの巧みさや美しさを見せるものではない。意識を内部に向かせ、イメージが喚起する感覚反応とともに動きを生み出す。芦川の動きを模倣することと言葉の刺激に対する反応とが相まって生まれる「蠢き」のようなものであり、内部から外部へ、見えない触手を伸ばしてゆくかのようでもある。私は多様なイメージによっておこる感覚の変化を体感し、身体内に「森羅万象」がある、と感じ、舞踏とはその体内の森羅万象への沈潜であり、その在り様を滲み出させるものであると考えた。舞台においては、その現象がいかに観客に感応するかを問うているのではないだろうか。

 舞踏家でもあり土方巽研究者でもある三上賀代は「森羅万象あらゆるものにメタモルフォーゼする’なる’身体の可能性の発見による『肉体概念の拡張』」を暗黒舞踏創始者・土方巽の舞踏の根本理念とした。それは、日常で生きる身体から舞踏の身体への身体意識の変容を図るものである。また三上は「舞踏訓練は、言語→イメージ知覚→身体変容→動きの回路を舞踏手の『神経回路』として、舞踏の身体のための神経回路創りを目指して行われる」と述べている。


 三上の「神経回路創り」というのは、まさに私の感覚と合致している。私が重視する石の上での踊りや無心の蠢きとは、暗黒舞踏の稽古や方法によって得られた身体内の日常とは違う身体感覚の変化とその質(クオリア)である。そして、それは身体と意識に変容をもたらす。


 例えば、暗黒舞踏で特徴的な目の状態「白目をむく」という技法を取り上げてみよう。視界によって意識は大きく影響され、身体にも影響を及ぼす。例えば座禅では目を半眼にする。視線を前下方に向け、瞼をすだれのように垂らし、意識を鎮静の方向に向かわせるものである。暗黒舞踏で行う白目をむく、というのは、視線をなるべく上方に向ける。それによって黒目が上瞼の下に入り、白目が多くなることで視界が狭まり、額から頭頂に意識が集まり、日常の感覚ではなくなる。視界が外に向かわないことで、より身体内部の感覚に意識が行く。頭頂が吊り上げられたかのような、側頭部から角が生えたかのような感覚が生じる。そのような目の状態で頭を動かすと、あたかもその角の先端で外界に触れているような、見えない角で外界を探るような動きとなる。

 外界を見ないことによって、より身体内の注意が身体内に向かう。五感における圧倒的な視覚の優位性が制限されることによって感覚の変化が起こり、皮膚感覚がより鋭敏になる。触覚、皮膚感覚の変化は身体のクオリアにおいて、重要な役割を果たしていると考える。この角の感覚は、後に気功において「青龍角」という頭部の感覚としてよみがえる。


 言葉とイメージによる身体感覚の変化の例として、初期の稽古で行われた比較的シンプルな例を挙げてみよう。それは「花」になるという稽古である。蕾から徐々に開いて満開になり、花が巨大化し、その香りが辺りに漂い、広がり、部屋いっぱいに香る。さらにアスベスト館の建物全体に充満する。そしてついには目黒駅までその香りが漂っていく。そのプロセスを、しゃがんだまま、具体的な明確な振り付けもなく行うのである。身振りや動きで香りの広がりを見せることではない。そこで頼りにするのは想像力だが、ただ「今、部屋いっぱいに広がった」と思っただけでは、舞踏したことにならない。体内から体表へ至った香りが、湯気のように漂いでることを実感するには、皮膚感覚の変化が必要となる。あたかも毛穴を開いて皮膚が臨界を緩めるようすると、皮膚が膨張したような感覚を得る。さらに遠くまで香りを届けるには、皮膚の膨張感を増大させて巨大な身体になるか、触覚を最大に伸ばすか、胞子のようなものを飛ばすか、日常の体のサイズを超える必要に迫られる。


 身体が森羅万象に変化し、縮小したり拡大したりすることは、気功の修練における気の感覚の発見と類似している。気功においては「白目をむく」ことはないが、瞑目して頭頂を見るという方法、あるいはより専門的には、内丹法などで返観内視という方法がある。どちらも視線は外に向かわず、内に向かっている。皮膚感覚は気の運行に影響し、気の出入り口ともいわれる経穴(ツボ)があると考えられている。


 暗黒舞踏の稽古はイメージの拡張による「妄想」ともいえるものだが、その妄想は身体感覚の変化を伴い、それによって舞踏手の身体認識や世界観を変化させるに至る。この方法は土方の唱えるマントラや太鼓の音と「動くタンカ」ともいえる芦川の動きによって行われる密教儀式ととらえることもできるのでないだろうか。


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『唐版・風の又三郎』角川書店 唐十郎

昭和四十九年六月二十日 初版本

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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