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星の林に漕ぎ出でて—私の天文民俗学 第9回

夜の星空観察

中野真備


 海上集落の夜は、宴のように賑やかだ。


 朝、鶏の鳴き声がそこかしこに響くころ、家々の静けさとは裏腹に、市場は女性たちの活気であふれている。水揚げされたばかりのキラキラした目の魚が、発泡スチロールの箱の上につるりと並び、値引き交渉の声が飛び交う。昼になると漁師たちが次々に帰漁し、船着場や市場の周りでは人々が忙しそうに往来する。

 太陽が真上に昇り、いよいよ気温が上がってくると、もう仕事などしていられないとばかりに手を止めて家路に着く。ココヤシの木陰につくられたベンチでは、お腹を出した男性がくたびれた枕に埋もれて気持ちよさそうに寝息を立てている。煮炊きや洗濯で忙しかった女性たちもタコノキの葉で編まれた蓙(ござ)に子どもと寝転び、ほどかれた髪が風にそよぐ。時間が止まったような、タミレ村の穏やかな昼下がりである。


 暑さのピークを過ぎると、またそれぞれの活動をはじめる。漁具の手入れをしたり、賭け事に興じたり、なんとなく集まってコーヒーやお茶を飲みながらおしゃべりをしたり。夜に出漁するために釣り餌や燃料を買いに出る者もいる。そうしてあっという間に夕方になり、それぞれの家へ帰り、水浴びをする。清潔な身体で礼拝を済ませ、家族で夕飯を囲む。洗濯物を畳みながらTVを見て、眠くなったら寝る。年配の夫婦ふたりの家だと、大体こんな毎日だ。


 だが、若者たちはまだ寝ない。

 タミレ村の夜は、海ではじまる。


 ***

 2016年にタミレ村を初めて訪れ、オチェという印象的な元漁師に惹かれて、ここでフィールドワークをしようと決めた(第8回)。それから数ヶ月、私が日本にいる間には、共に訪れた現地の大学教員・ラスナさんが村長とオチェに電話で連絡をとってくれていた。

 一部の若者などを除けば村でスマートフォンを持っている人は少なく、PHSのような簡易型電話がより一般的だった。彼らに連絡をとるためには、インドネシア国内から電話をかけるしか方法がなかったのだ。


 次に訪れたのは2017年8月のことだった。最初の1週間はラスナさんが同行した。これから約2ヶ月お世話になる村長宅に挨拶し、一緒に寝泊りをした。


 約1年弱ぶりに再会したオチェは、来客とトゥブルック(粉を沈殿させて上澄みを飲むコーヒー)を飲み、タバコをふかせていた。声をかけると、彼は「やあ、来たのか」という表情で目配せをし、顎をしゃくってみせた。

 オチェはゆったりと椅子にもたれ、初めて会ったときの緊張したような雰囲気はない。「この子は日本から俺を訪ねてきたんだ。最初来たときは何かと思ってびっくりしたよ」と来客に流暢に説明しながら、笑い声をあげていた。


 饒舌とはいわないが、オチェはとても好意的だった。遠い日本から他でもない自分を頼って来た私に対して、何か責任感のようなものを持ちつつ、張り切っているようにすらみえた。

「明日の朝は市場に行こう、6時にはもうにぎやかだ」

「村の色々な話が聞きたいならダマル先生のところだ、俺が連れていく」

「遠くへ出漁する漁師か、それなら友人がいる」

「今はあっちの空にあの星がみえる、夜に観にいこう」

 ギリギリの語学力では聞き取るのに精一杯だったが、やっと漁や天体の話を聞けるということに胸が躍った。

 



 タミレ村に滞在してしばらくした頃、星を観にいくことになった。元校長のダマル先生(仮名)に話を聞くなかで星の名前や伝説の話になり、実際に観たほうが早いからとその夜に約束したのだ。

 夜も更けたころ、オチェが村長宅に私とラスナさんを迎えに来た。村長宅のある陸上集落はどこもひっそりと静まり返っている。玄関に吊るされた白色電球の強い光で星はいまいちみえないが、雲はなさそうだ。

 サンゴの破片まじりの地面をじゃりじゃりと踏み締める音が響く。「漁に出ていたときは、家族も寝静まったこんな時間から出漁の準備をしていたものだよ」とオチェがいう。


 桟橋までくると、月明かりの海岸には人影がみえてきた。10代、20代の若い人たちが多い。橋や防潮堤に腰かけてギターを弾いたり、スマホで音楽をかけたり動画をみたり、集まって何やら楽しげに声をあげたりしている。

 若者たちは夜な夜なこうして集まり、海上集落の夜は真っ暗な宴のような時間にかわる。

 潮風は涼しく感じるほどにきもちがいい。なるほど、こんな時間に集まるわけだ。

 誰がどこにいるのかわからないほどの暗闇なのに、それがまた昼間とはちがう場をつくっているようだった。

 

 漁船の明かりがぽつぽつと沖に浮かんでいるのがみえる。

 しだいに目が慣れてくると、真っ暗な海の上に敷き詰めたような星空が広がっていることに気づいた。空に星があるというより、無数の小さな穴が点々と開いた黒い帳に覆われて、細い光が漏れ出ているような、そんな満天の星空だった。


 遮るもののない大自然のプラネタリウムを前に、私は焦っていた。

 ちょっと待って、どれが何の星?

 どれっていうか、どれも目立つ星にみえてきた。


 日本の街中でみていた星空は、ペテルギウスやリゲルのように一等星、その近くのとてもわかりやすい並びかたの二等星だったし、もっと小さな星々は地上の光で霞んでよくみえなかった。

 こんなに星があったんだ!という興奮と、星がありすぎてどれが何なのか全然わからないという焦りで、ぽかんと口を開けて空を仰ぐ私に、オチェが「パッキアラ(気をつけて)!」と声をかける。早くも首が痛くなった。



 ダマル先生は、すでに防潮堤の前に立っていた。

 やあ、と私たちが来たのをみて笑みを浮かべ、空を指差した。


「ほら、あれがビンタン・ティムル。サマ語ではッマウ・ティムル。北風の季節にはあっちの空からこうあがってきて、この時間だとここにある。南風の季節には……、」

「星座はどうですか、こういう十字のかたちの星座とか」

「ああ、それは……、」


 書き留める間もなく始まったダマル先生とラスナさんの会話に、私は慌ててノートを取り出すが、暗くて手元が何も見えない。持っていた懐中電灯で照らしても、書くのには邪魔だし、眩しくて星がみえなくなる。

 メモは諦めてICレコーダーを取り出す。渡航前に先輩から聞いたアイデアだった。ラクダだか馬だかに乗りながらメモを取らなければいけないとき、胸ポケットにICレコーダーを入れて、小声でずっと吹き込んで記録していたそうだ。

 ダマル先生たちの声が聞こえる程度に、少し離れてこそこそと録音ボタンを押した。


 「ええと…、2017年8月×日、×時×分、タミレ村の防潮堤。ダマル先生とオチェとラスナさんと私で星を観にきた。月齢は×くらい。若い人が結構いてにぎやか。ビンタン・ティムル、サマ語でッマウ・ティムルという星の話、これは……、」


 ふと横を見ると、オチェがこちらをじっとみていた。

 たどたどしいながらもインドネシア語を話していた私が、急に異国の言葉を話しはじめたからだろう。


 村にいる間、ラスナさんは私のために誰かの会話を英語で説明してくれることもあったが、それは部屋で二人のときだけで、とお願いしていた。

 これは私の意地でしかなかったのだが、できるだけ自分から「外国人っぽさ」を遠ざけたかったのだ。もちろん見た目からして外国人でしかないし、インドネシア語さえもこの村では「外の人」のようにうつる。

 だからこれはただの私の意地だった。でも、何となく、可能な限りはそうしたかった。


 それが急に、しかも何かよくわからない機械を使って(使っているようにもみえなかったかもしれない)、ペラペラと異国の言葉で話しはじめたのだから、それはオチェも何事だと思うだろう。

 本当は、録音もインドネシア語でできたらよかったけれど、そこまでスラスラと言葉は出てこなかった。


 書き留められなかった話だけでも急いで吹き込むが、居心地の悪さでどんどん声が小さくなる。ダマル先生とラスナさんの会話はとんとんと進み、自分は相槌もまともに打てていない。


 これはダメだ、やめよう。

 エンジンを停めている、でも揺れていて不安定な船上ならこれは良い方法だったかもしれないが、今はこれではなかった。


 ひと段落するまで吹き込んだところで録音を停止する。

 思い返せば日本にいても、気合で覚えて後から一気に書き出すことも状況によってはよくあることだった。

 ただここはインドネシアで、タミレ村はサマ語で、誰かがインドネシア語に訳してくれたものだけが頼りのときも少なくない。そして私はインドネシア語が流暢でない。覚えておいて後から正確にすべて書き出すことも、正直にいえば自信がなかった。

 

 

 部屋に戻って、ラスナさんに確認しながらダマル先生の話をノートに書き出した。ただ、星座を描きながらそれを見せて質問したり、話したりすることができないと、メモもいまいちピンとこない。


 夜の調査は星や漁の話を聞くのにはつきものだ。付き合ってくれていたラスナさんも、じきにマカッサルに戻る。どんな工夫をしたらもっとうまく星の話を聞いて、書き留められるだろう。

 

 ノートに書いたサマ語の星の名前と星座のスケッチをじっとみて、明日こそは、と頭に叩きこむのだった。

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