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星の林に漕ぎ出でて—私の天文民俗学 第8回

オチェとの出会い

中野真備


 その島に訪れたのは、偶然だった。

 鼻をつくような塩干魚の臭いと、かけ声とも会話ともつかぬ大人たちのがなり声、ポンポンポンポン……、という舟の音。ヤシを葺いた家々からは煮炊きの煙が立ちのぼっていた。


***


 インドネシアはもちろんのこと、東南アジアに行くのも初めてだった。それを言い訳にしてはいけないが、港町マカッサルに到着したその日になっても「Terima kasih(ありがとう)」と「Enak(おいしい)」くらいしか覚えていなかった。

 

 カウンターパートのダフマ教授(仮名)は、とても聡明で温厚な方だった。大学院に入学してまもなく紹介されたのが、たまたま日本に滞在していたダフマ教授だった。

 恥ずかしながらインドネシア語どころか英語だってまったく話せなかった私は、カチコチになりながらダフマ教授の研究室を訪問し、自分の研究について話した。


「学部では佐渡という島でイカ漁における天体知識などについて調べました」

「インドネシアの海洋民の経験に基づく自然環境の知識について研究したいです」

「特にオセアニアのスターコンパスのような天体知識に関心があります」


 「いや話せるんかい」ではない。授業や課題で説明したり書いたりするからほぼ暗記していただけだ。

 そんな覚えてきた言葉もすぐに底をついてしまった。

 急かすことなく、じっと目を合わせて、静かに「Ya...」と相槌を打つダフマ教授の様子に、しだいに緊張がほぐれてくる。ひとつ息を吐いて、ようやく自分の言葉がこぼれた。


 「つまり、漁師さんが、星とか風とか山とかそういう自然をみて、どうやって、何を知って海を移動していけるのか、それを知りたいんです」


 こんな調子で、これから本当にやっていけるのだろうか。

インドネシア語だって「星」は「ビンタン(bintang)」とか、「月」は「ブラン(bulan)」とか、そんなことくらいしか言えないのに、自分が日本でやってきた(目指してきた)ことと同じくらい言葉えらびに気を遣って、細かなニュアンスを汲み取って、そんなふうに話せるのだろうか。


***


 その数ヶ月後、マカッサルの大学にある研究所でダフマ教授と再会した。これから約半年間の計画、特にフィールドワークについて相談するためだった。私のインドネシア語は日常会話程度でしかなかったし、それを抜きにしても、ビザの関係上、私は本来インタビューなどしてはいけないことになっていた。

 そこで調査のサポートとして紹介されたのが、彼の教え子のラスナさん(仮名)iだった。若くして物理学部講師となった、笑顔の絶えない女性だった。私の代わりに彼女に質問をしてもらうため、打ち合わせは入念におこなった。


 思いかえすたび、ラスナさんには申し訳ないことをした、と思う。

 彼女は天文に関心があるとはいっても新進気鋭の地球物理学者であって、こんなよくわからない辺鄙な海にきて、燃油の臭いの充満した狭い船室で他の客と折り重なるように寝たり、ボートの甲板で太陽に焼かれながら島影も見えない海で半日近く揺られたりとか、そんな調査は予定していなかっただろう。記憶のなかのラスナさんは、よく船酔いでグッタリとしている。


 2016年11月、私たちはインドネシア東部のバンガイ諸島(下図)を訪れた。


バンガイ諸島の位置関係(d-maps.comをもとに筆者作成)

 海に杭を立てた海上家屋に住むその人々は、サマあるいはバジャウと呼ばれる人々で、かつては船上生活をおくる「漂海民」としても知られていた。

 海を移動するために、天体や自然の知識を必要とする人々を「どこかもっと別の海」に求めた(第7回参照)。私にとってそれは、正確には「オセアニアや琉球列島とは別様な海」だった。

 たとえば、島と島の間がとても離れていて、見渡すかぎり水平線が広がるばかりで天体以外に目印のないような海ではなく、でも海底は見通せないくらい深く、小さな島々が散らばったような海とか。航海する人ではなく、日常的な「ちょっとそこまで」の漁に出る人とか。それでもGPSや魚探のような機械にすべてを任せてしまうのではなく、目の前の景観から何かを読みとって海を移動するような、そんな人々。


 バンガイ諸島のサマ人というのは、まさにそんな漁師たちだった。

 小さな島々が散らばり、海岸線は複雑に曲がりくねり、波の侵食は湾や岩を奇怪な形にえぐり出す。小さな舟で漕ぎ出すと、いくつもの岩や島があらわれては横切り、視界から消えることはない。


 分け入っても分け入っても青い山、という一句が頭に浮かぶ。

 ここでは「青い海」と詠みかえるべきなのだろうが、むしろ「青い山」がふさわしいと思うくらいに、島影は途切れることなく眼前に迫ってくる。

 多少の魂胆はあったとはいえ、どこかではオセアニアの航海術が頭にあったものだから、こんなに岩や島があるならもはや天体を見なくても海を移動できてしまうのかもしれない、とさえ思った。


タミレ村の風景、前を歩くのはラスナさんとマナドのダイバー

(2016年11月23日筆者撮影)


 一抹の不安を抱えながらいくつものサマ人集落をまわり、不安定な船で水しぶきをかぶりながらたどりついたのは、周囲の陸地のどの村よりも大きな海上集落だった。のちに私が住み込むことになる、タミレ村(仮名)である。


 このあと漁に出るという船主が、私たちに与えた時間はわずか1時間だった。その間に、天体知識について急いで聞いてまわらなければならなかった。

 船着場の杭をよじのぼると、珍妙な外国人とその一行を村の人々が遠巻きに観察している。マカッサルでは普通に思えたラスナさんの小綺麗な服装や胸元に光る銀のブローチも、その船着場では浮いてみえた。そのうえ、興味本位でついてきた、宿でたまたま知り合ったマナド(スラウェシ島北部の町)の男性ダイバーもいた。完全に珍道中である。


 船着場から大きなアジを手押し車で運ぶ若い男、捌いたエイを洗濯物のように軒先に干す老婦。ともかく時間がない。ラスナさんはそのへんにいた野次馬のひとりに声をかけ、船着場のすぐ近くにあるという彼の家で話を聞くことになった。50歳ほどにみえる彼は、どうやらひとり暮らしのようだった。


 私以上に緊張したような面持ちの彼に、ラスナさんはにこやかに切り出した。


 「どのあたりまで航海したことがありますか、そのときに何を目印にしましたか」

 「夜だったらどうやって位置を知りますか」


 彼、オチェさん(仮名)はこちらの様子をうかがうように、言葉少なに答えた。

 「山をみる。山がみえればどこでも行ける」

 「風もだ。夜は星もつかう」

 「月はつかえるときとつかえないときがある」


 それから、ラスナさんは「こんな形の星座はなんという名前ですか」、「マナドに行くときにつかっていると言ったのは、こんな季節にはここから上がってくる星ですか」などといくつかの質問をした。


 正直にいうと、よくわからなかった。

 オチェさんは「あぁそうだ、その星だ」などというものの、いまいち話が噛み合わない。

 たとえばラスナさんが「それはオリオン座ですね」というと「そうだ」と返すが、詳しく聞くと早口でゴニョゴニョとはぐらかされてしまう。

 知らないというより、何かが噛み合っていない。たとえば、彼の知っていること、というより彼の理解の仕方が、もう少しちがうところにあるような。


***


 このあと、私たちは数ヶ月にまたがって各地をまわり、何十というサマ人集落で同じような質問をした。もっと流暢にあれこれと答えられるひとがいたり、やたらと詳しい長老のような人が出てきたりすることもあった。それなのに、最終的にはこのタミレ村を調査地に決めた。


 打算的な言いかたをすれば、バンガイ諸島というのはサマ人集落にしては比較的アクセスのよい場所で、それは限られた時間のなかで通いつめなければいけない大学院生にとっては効率的だったということ、また一方でサマ人の移動性やネットワークという視点でみたときに面白い場所だったということもある。


 しかし、最終的に決め手となったのは他でもないオチェだった。

 星のことを知らないではなさそうな、でもうまく聞けなかった。

 言葉少なで、じっとこちらを見つめていて、変な表現だがなんとも人間くさかった。

 帰国してからもずっと、彼の目が忘れられなかった。


「最終的には、人との出会いだよ」

と言ったのは、指導教官だったか、研究室の先輩だったか。


 大袈裟かもしれないが、これはきっと今後の私の人生を大きく左右する選択になるだろうと思った。研究者としてなのか、人との出会いという意味ではもっと別のことも含むのか。

 

 かくして、ラスナさんは私に代わってタミレ村の村長に連絡をすることになったのだった。


 

ダフマ教授は2022年2月に逝去され、その5ヶ月後にラスナさんも若くして亡くなられた。このエッセイは、ダフマ教授とラスナさんとの記憶をたどるつらい旅でもあるが、同時に右も左もわからなかった自分をやさしく導いてくれたことを思い出し、お二人に向けてしたためたものでもある。

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