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星の林に漕ぎ出でて—私の天文民俗学 第6回

閑話:占星術研究家・鏡リュウジさんとの出会い


中野真備


 流星の俗信伝承を集めることからはじまり、イカ漁の星を探しに佐渡島に行ったのも、実はもう何年も前の話だ。大学卒業から約1年後には、紆余曲折あって東南アジア島嶼部の離島で漁師に星の話を訊く自分がいたのだから、人生はどこにいくかわからない。


 今回で第6回となるWebマガジン『なぎさ』の「星の林に漕ぎ出でて—私の天文民俗学」は、別メディアでのインタビュー記事を経て、2022年9月に始まった。

 その前月、猛暑から逃げるように入った池袋のルノワールで、辻さん(東京自由大学)と連載についての打ち合わせ兼顔合わせがおこなわれた。星の話や海の話、東南アジアの話などをするなかで、辻さんがふと「鏡リュウジさんと対談をするのはいかがでしょうか」と言い出した。


 鏡リュウジさん。

 いや、「鏡リュウジ」。(「鏡リュウジ」!?)


 地元で通っていた本屋で天文民俗学者・野尻抱影の本を探すと、同じ本棚のすぐ隣に必ず並んでいたのが、鏡リュウジさんの占星術等に関する多数の著書・訳書だった。何なら、Twitterもフォローしていた。もっといえば、小学生のときに学年中で一大ブームとなり、表紙がボロボロになるほど貸し借りされていたオラクル・ブック、『魔法の杖』(ジョージア・サバス著)も彼が監訳を務めている(これは最近初めて気づいた)。占星術研究家として第一線を走り続ける有名人だ。その鏡さんと、対談? 私が? 一体何を言っているのだろう。


 確かに、流星の俗信伝承には「こういう現象があればこう」という、吉凶の兆となるものや、その凶兆を回避する/転じるための呪(まじな)いを含むものもある。しかし、積極的に未来を占うようなものではないし、これをもって性格や性質を読み取るものでもなく、いわゆる西洋占星術の世界とは異なる。

 私が話せることなんてあるだろうか。しばらくの間「ううーーん、そうですね……」と言ったものの何も思いつかない。仕方なくこのときは一旦保留とさせてもらうことにして、水滴だらけの薄いアイスコーヒーをズゴ、と飲み干した。



 そんな折、下北沢である刊行記念イベントが開催されることを知り、すぐに申込をした。

「占星術と文化人類学の共通項を探して」(2022年11月24日、本屋B&B)、鏡リュウジさんと文化人類学者・奥野克巳さんとのトークイベントである。

 ここで詳しく内容を書くことはしないが、あまりに面白かったので、手元のスマホで端的にメモを取り続けたつもりが約3500字の小レポートになっていた。この連載1回分強が書けるほどの文字数になる。当時の私の興奮具合が伝わるだろう。

 ともかくこのイベントには大いに刺激され、天文の民俗全体にも共通する視点や、流星の俗信におけるそれとはやはり異なる占星術的態度ともいうべきものなど、貴重な示唆を得た。

 (ちなみに終了後のサイン会にもちゃっかり参加し、ご両人に書いていただいた)



 そんな経緯を知ってか知らずかして、翌月また辻さんから対談イベントについての打診があった。あれよあれよという間に日程が組まれ、かくして鏡さんとのトークイベント「天文民俗学と占星術〜野尻抱影からユングまで〜」(2023年6月22日 東京自由大学シリーズ講座 世界は不思議でできている 第1回)が神保町書泉グランデで開催された。


公式告知(NPO法人東京自由大学)

 会場となった書泉グランデは「趣味人専用」を謳い、鉄道や数学、占いなどディープな本やグッズがみっちり詰まった、知る人ぞ知る神保町の有名店である。このイベントに向けて4階では天文・占星術フェアが開催され(現在は終了)、野尻抱影関連書籍だけでなく、僭越ながら強く推薦させていただいた『日本の星名事典』(北尾浩一、原書房)や、天文民俗について寄稿させていただいた『現代思想 1月記念号 特集=知のフロンティア』(青土社)も陳列された。


書泉グランデ4階の天文・占星術フェアの様子(2023年6月22日筆者撮影) 担当S氏の並々ならぬ熱意を感じる

***


 話は前後するのだが、私は占星術に関してド素人であり、ユング心理学への造詣も深くない(鏡さんはユングの批判的研究で修士号を取得されている)。冒頭で、流星の伝承には吉凶の兆や呪(まじな)いに類するものがあると述べたが、これは民俗学者・柳田國男による心意伝承の分類に依拠した捉えかたである。ここでは「兆・占・禁・呪」がそれぞれ区別されるが、卜占と他の区分を差別化するもののひとつには「積極的に何かを知ろうとする」という態度がある。「流星が落ちるまでに3回願いごとを唱えたら叶う」とか「流星が落ちたら死ぬ」などという伝承と占星術との差異を、この態度から考えてみたいとふと思った。


 人はなぜ星を見て解釈するのだろうか。なぜ西洋占星術をやるのか。占星術をするとき、どんな理由、あるいは気持ちで臨み、その結果を受け取るのだろう。

 実際に誰かに話を聞いてみたいし、私自身が(すでにバイアスがあるにせよ)それを経験してみる必要があるのではないだろうか。

さっそく友人に連絡をとって新宿駅で待ち合わせ、雨で閑散としたカフェでホロスコープ[i]をやってみた。


 彼がホロスコープにふれたのは、偶然のことだった。友人と長電話をしているときに、友人が趣味でやっているというホロスコープの話になった。ホロスコープには出生日時の情報が必要なのだが、たまたま別の占いのために保存していた母子手帳の写真があったので、電話越しにやりかたを聞きながらインターネットで出生時の天体図を作成し、無料解説サイトをのぞいた。


 解説サイトに書かれている性格や気質を読んで「(自分の性質に)これはあるかも」という心当たりもあったという。しかし、彼がひとりでやってみることはその後なかった。ただ、特に印象に残っていたキロン(小惑星)の位置関係と意味を調べて、ふとしたときにその内容を意識したことはあった。そうしてまた半年ほど経って、久しぶりにやるのが今日だという。

 

 「友達と話してたけん、そうなったけどさ。いきなりホロスコープ見せられても、どうしたらいいのか……敷居高くない? ひとりだったら俺、見てなかったと思う」

 「きっと挫折してる人も多いんじゃないかな」


 と言いながら、彼はホロスコープの見方をネットで検索し、「俺も初心者やけん」と復習しながら教えてくれた。ハウス、コンジャンクション、オポジション……、ホロスコープに親しんだひとなら当たり前の用語だが、記号やカタカナ名、意味、ホロスコープ上での読み取りかたなど、覚えるべき前提知識の多さに目が霞む。資格試験に備えて参考書で勉強しているような気持ちだ。


インターネットの無料サイトで占星術の基礎知識を確認する友人

(2023年6月15日 筆者撮影)



 しかし、解読しながら彼はこうも言う。

 「まずこの楽しさを味わって欲しい!」


 「ひとりだったら見てなかった」という彼自身の言葉を思い出しながら、無料解説サイトと格闘する。

 月と木星、スクエア。自由、縛られたくない。(言えてる)

 水星と冥王星、コンジャンクション。驚異的な集中力、諦めない粘り強さ。(そうか?)

 冥王星とキロン、スクエア。傷つきやすく、他人に対して過敏。(そうかも)


 ひとつひとつメモしては、「私そうかなあ」「でもこういうところはそういえるんじゃない?」「確かに」などと盛り上がる。

彼の意見は必ずしも私とは合わず、私自身が私をどう自己認識しているかによっても結果の受け止めかたは変わるような気もした。


 

 閉店作業をはじめたカフェに追い出され、行き場を失って新宿駅構内のベンチに移動してからも、私のコンタクトレンズが乾くまで2人だけの初心者ホロスコープ会は続いた。(ちなみに彼は当日のイベントにも参加してくれた)

 

 積極的に何かを知ろうとする。

 これが占い。

 いや、もちろんこれが占いの全てではないのだが、少なくとも「流星が飛んだ」という現象に対して、こんなにカタカナの前提知識が必要とされることはないし、いくつもの図表や解説を必死に見比べるような大変なことはない。「読みとろう」という前傾姿勢がなければとてもできない。


 数時間かけて難解な暗号の地図を解読したような気持ちになっていたが、実際にはもっと読みとるべきポイントがある、と彼が教えてくれる。

 占星術が占星学とも称される所以を垣間みて、1週間後のイベント開催に頭を抱えたのだった。


 

[i] ホロスコープとは、その人が誕生した瞬間の天体図のことであり、広義には西洋占星術のことを指す。このホロスコープを基に、古代より国の栄枯盛衰や個人の運命を占星術師が解釈してきた。一方で、ユングを始めとする深層心理学者の多くも「天体の動きと人の心理は密接に関係している」と述べている[鏡リュウジ 公式HPより]。

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