姫津漁港にて
中野真備
無計画にも、ほぼ身ひとつで佐渡島に来てしまった。
ノートと使いなれた4色ボールペン、ICレコーダー、父から借りたNikonのコンデジ。
渋谷のキャンパスで授業を受けたあとそのまま夜行バスに乗ったものだから、テキストなども詰め込まれたままのバックパックは無駄に重いが、寝転んで枕にするにはちょうどいい。
「そんな大荷物でどこに行くの」と声をかけた先生に、「ちょっと佐渡に行ってこようと思って、特にアテはないんですけど」と言ったときの、あの頭上にハテナがたくさん浮かんだ顔といったら。
そりゃそうだ、意味がわからないだろう。私もわからない。
相川の観光案内所で電動自転車を借り、折りたたみ地図をもらう。
雷マークのような形をした佐渡島西岸の、ちょうど真ん中あたりに相川はある。
海岸沿いに北へ約7km行くと、最初の目的地である姫津港がある。
佐渡島沿岸をぐるりと一周する道路に出て、ひたすら北へ自転車を走らせる。
外海府海岸や波切観音の景観に代表されるように、日本海側は波の浸食を受けた岩石海岸に特徴づけられ、何やら伝説の残されていそうな奇岩が見られる。
達者の海岸から丘陵側にすこしあがると「姫津」と書かれた看板が見えてくる。
崖を左手に細く曲がりくねった坂道を下っていくと、姫津の集落に入る。
生活の匂いのする民家が小道の両脇に立ち並ぶなか、観光客然としたレンタサイクルとバックパックで走り抜ける自分の異様さに、じわりと緊張した。
誰も歩いていない。ただ小窓から聞こえる物音や昼餉の支度の匂いで、(当たり前なのだが)確かにそこに人がいるのだとわかる。
自転車を降りて緊張気味に背筋を伸ばし、(怪しいもんじゃないんです)と心で唱えながら小道を歩いていくと、食料品や生活用品の並ぶ商店があった。
いかにも地域の「なんでも屋」らしい、今井茂助商店、通称「もへいじや」である。
「こういう商店には、地域の色々な情報が集まる。調査に行ったら、こういうところに行ってみるといい。ただし商売の邪魔にならないように。」
集団で民俗調査に出かけたときに、調査のイロハを教えてくれた先生や先輩の言葉を思い出した。
前回も書いたように、このとき私は初めての単独調査に緊張しきっていた。
話は横道に逸れるが、最近はインドネシアで現地調査をしていることが多く、現地の人々の気やすさにいつも助けられている。
こちらがおろおろしていても向こうから話しかけてきて、あっという間に人が集まって「ノンクロン(おしゃべり)」がはじまって、気づいたらメモを取っているというのが常だ。
日本では多くの場合、そうはいかない。
それも長年の付き合いがあるわけでもなく、何のツテもなく本当にいきなり、勝手に来てしまった。
それが今の私である。
「ごめんくださあい…」
と、何回か呼びかけると、奥から人が出てきた。
朝から何も食べていなかったのを思い出して、近くにあった魚肉ソーセージの束をレジに置いた。
緊張しながら、確か「最近はイカ漁どうですか」とか「漁師さんに話を聞きたくて東京の大学から来ました」とか、そんなようなことを言ったと思う。
レジの近くには、もへいじや名物「いか徳利」などスルメイカの加工品が並び、話のネタには困らないはずだった(と、今だから言えるのだ)。
民俗学が好きだからといって、元々世間話が得意な愛想のいいタイプであるとは限らない。
どこにでもある魚肉ソーセージでなく、せめてスルメイカを買えばよかったのに。
うまい話もできないまま商店を出て、細道を下って姫津漁港に出た。
港こそ小規模だけれども、ガス灯をたくさんぶら下げた船が何隻も停泊し、護岸には並べられたイカをネコが見回っている。
とりあえず端から端まで歩いてみようと漁港の奥まで行くと、イカ焼きの屋台が出ていたのでさっそく注文する。
炭火で香ばしく焼かれた新鮮なイカは、むっちりとハリがあり、身は白く柔らかい。
もうこれだけで姫津にきた甲斐があるな、と思いながら醤油を垂らして噛みついた。
漁港の中心部に戻ると、漁船で道具の点検や準備をしている若い漁師がいた。
よし、今度こそ。
「すみません! あの、私、東京の大学から来て、いまイカ釣りの話とか昔の話とかお聞きしてるんです……、いまお忙しいでしょうか?」
若い漁師が操舵室の方へ「イカ釣りとか昔の話とか聞きたいんだって」と声をかけると、奥から父親らしき年配の漁師が出てきた。
昔の話ったってそんなよく知らんよ、と言いながらも、彼は作業の手を止めて船から降り、ぽつぽつと話してくれた。
姫津はイカ漁の盛んな漁村だったこと、しかし石油価格の高騰により集魚灯の経済的負担が大きくなりみんなイカ漁を辞めてしまったこと、今ではごく小規模に自家消費用にしかやらないこと、跡を継ぐ若い世代の漁師がおらず、現役の漁師さえも減っていること、魚群探知機やGPS(Global Positioning System:全地球測位システム)が導入されていること、それがなかった時代、特に手釣りの時代には星を目印に漁をしていたこと。
ここに来て、ようやく星の話にたどりついた。
そして、少なからず予想していたことではあったが、天体の知識が「一世代」前の知識でもはや使われておらず、それどころかイカ漁自体が衰退しつつあったのだ。
***
この年の約40年前に、まさに姫津から星の伝承の調査をはじめた天文民俗学者・北尾浩一は、2010年代の調査報告のなかで度々「1日歩いても全く記録できない日が増えた」など、星の伝承の調査が年々困難になっていく、つまり星の伝承を語ることのできる話者が減少している危機的状況を度々記している[北尾 2018]。
私の数少ない佐渡での聞き取り調査においても、これは同様の状況だった。
イカ漁に必要不可欠とまで言われた星の伝承は、なぜここまで聞けなくなってしまったのか。
これを「失われた」といってしまうのは容易だが、私はあくまで「変わった」と捉えたかった。
自分がやっていることが、遠い漁村を訪ねて過去の遺物を拾い集めるだけではないと思いたかったのかもしれないし、実際にそういう部分があるにせよ、聞けなくなってしまったことの後ろにある「なぜ変わったのか」を考えたかった。
そこに、いまこの時代にわざわざ星の伝承を探す意味があるような気がした。
そうはいっても、初めて訪れたこの時はそこまで考える余裕はなく、暗雲が立ち込めたような気持ちにもなった。
しかしそれまで本でしか読んだことのなかった「イカ釣り漁師の語る天体」の話は、それがどんなに些細な話であろうと新鮮だった。
むしろ、「まだ聞ける、今なら聞ける、今しか聞けない」とばかりに漁港を歩き回り、また自転車を走らせたのだった。
引用文献
北尾浩一「天文民俗調査報告(2017年)」『大阪市立科学館研究報告』28号、43-46、2018年
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